万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その77改)―平等寺―万葉集 巻七 一〇九四

奈良県桜井市三輪にある三輪山平等寺は、慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み70日間滞在し、無事薩摩に帰ったことで知られている。「島津義弘公ゆかりの寺」の、のぼり旗が掲げられていた。

 

●歌は、「わが衣色に染めなむうまさけ三室のやまはもみぢしにけり」である。

f:id:tom101010:20190514222502j:plain

奈良県桜井市三輪山平等寺境内万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県桜井市三輪三輪山平等寺にある。

 

 

 

 平等寺は、三輪交差点を東に折れ、JR万葉まほろば線の踏切を越えてほぼ直線状に進んだところにある。

f:id:tom101010:20190514222719j:plain

平等寺山門

 万葉歌碑は、この山門を入ってすぐ左手にあった。

 同寺HPによると、開基は聖徳太子によると伝えられているいる。鎌倉時代の初期、中興の祖、慶円上人(三輪上人1140~1223)を迎えるに及び、東西500m、南北330mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有し三輪社奥の院として、由緒ある名刹となった。平等寺は三輪別所とも呼ばれた。鎌倉時代平等寺には、仏法、学問の奥義を求めて多くの人々が参詣した。 室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し、80石の朱印地を持ち修験道の霊地でもあった。また、慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み70日間滞在し無事帰国とある。しかし、明治維新になって、廃仏毀釈(仏を廃し神を敬する)の令きびしく、大神神社の神宮寺であった平等寺は、ことさらにそのあらしを強く受け、堂塔ことごとく整理を迫られ。廃仏毀釈より100年目を迎えた昭和52年6月4日付で平等寺と寺号が復興され本堂、鐘楼堂、鎮守堂、翠松閣、釈迦堂(二重塔)の復興をはじめ前立本尊十一面観世音菩薩が造立された。

f:id:tom101010:20190514222827j:plain

平等寺境内

 

●歌をみていこう。 

 

◆我衣 色取染 味酒 三室山 黄葉為在

       (柿本人麻呂 巻七 一〇九四)

 

≪書き下し≫我が衣ににほひぬべくも味酒(うまさけ)三室(みむろ)の山は黄葉(もみち)しにけり

(注)「『萬葉集』 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)」では、「あがころもいろどりそめむ」と読んでいるが、伊藤 博氏は、脚注で「本文を『我衣服 色染』と校訂しての訓。私の着物に色が移ってしまうほどに」と書かれている。

 

(訳)私の着物が美しく染まってしまうほどに、三輪の山は見事に黄葉している。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)ぬべし 分類連語:①〔「べし」が推量の意の場合〕きっと…だろう。…てしまうにちがいない。②〔「べし」が可能の意の場合〕…できるはずである。…できそうだ。③〔「べし」が意志の意の場合〕…てしまうつもりである。きっと…しよう。…てしまおう。④〔「べし」が当然・義務の意の場合〕…てしまわなければならない。どうしても…なければならない。⇒注意:「ぬ」はこの場合、確述を表す。  ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)うまさけ【味酒・旨酒】分類枕詞:味のよい上等な酒を「神酒(みわ)(=神にささげる酒)」にすることから、「神酒(みわ)」と同音の地名「三輪(みわ)」に、また、「三輪山」のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにかかる。「うまさけ三輪の山」 ⇒参考:枕詞としては「うまさけの」「うまさけを」の形でも用いる。(学研)

 

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「色づいた三輪山を見て、その神秘な感じに思い入った内省的な歌。」と述べておられる。

  

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「三輪山平等寺HP」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

※20230410朝食関連記事削除、一部改訂

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その75改,76改)―桜井市穴師の相撲神社、穴師坐兵主神社―万葉集 巻十 二三一四、巻七 一三六九

 5月12日から大相撲夏場所が始まった。奈良県桜井市穴師に国技発祥の地「相撲神社」がある。同神社内の説明案内板に、「相撲はもとは神の信仰から出て、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり、第十一代垂仁帝の七年、野見宿禰当麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世、宮中の行事となった。」とある。相撲は、大兵主神社神域の小字カタヤケシにおいてとられたという。

 

 

―その75改―

●歌は、「巻向の桧原も未だ雲いねば小松が末ゆ淡雪流る」である。

f:id:tom101010:20190513192628j:plain

奈良県桜井市穴師相撲神社境内万葉歌碑(柿本人麻呂

 

●歌碑は、奈良県桜井市穴師の相撲神社にある。

 

●歌をみていこう。

  

◆巻向之 檜原毛未雲居者 子松之末由 沫雪流

                (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一四)

 

≪書き下し≫巻向の檜原(ひはら)もいまだ雲居(くもい)ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪(あわゆき)流る

 

(訳)巻向の檜原にもまだ雲がかかっていないのに、松の梢からはやもう泡雪が流れてくる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その68改)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 相撲神社は、桜井市HP「社寺を巡る」によると、「約2000年前、垂仁天皇のころ、野見宿禰当麻蹴速が、日本最初の勅命天覧相撲を行った。これが日本の国技である相撲のはじまりとされている。」とある。

 巻向付近で、国道169号線がJR万葉まほろば線をまたぐ奈良側の北辻交差点を東に曲がり、1kmほど行ったところにある。道をまたいで大兵主神社の鳥居があり、その手前に道と並行した形で相撲神社の小振りの鳥居がある。社殿はなく、小さな社があるだけである。

f:id:tom101010:20190513192859j:plain

相撲神社の小さな社

f:id:tom101010:20190513193021j:plain

相撲神社のいわれ

 

 

 

 

―その76改―

●歌は、「あまくもにちかくひかりてなるかみのみればかしこみねばかなしも」である。

f:id:tom101010:20190513200310j:plain

奈良県桜井市穴師坐兵主神社境内万葉歌碑(作者未詳)

 ●歌碑は、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)境内にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆天雲 近光而 響神之 見者恐 不見者悲毛

                  (作者未詳 巻七 一三六九)

 

≪書き下し≫天雲(あまくも)に近く光りて鳴る神し見れば畏(かしこ)し見ねば悲しも

(訳)天雲の近くで光って鳴る雷、この雷は、見れば見たで恐ろしいし、見なければ見ないで不安でせつない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)雷:身分の高い男の譬え。

 

f:id:tom101010:20190513200823j:plain

穴師大兵主神社鳥居

 穴師坐兵主神社桜井市観光協会のHP「名所旧跡」によると、「穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、卷向坐若御魂神社の三神合祀の神社で、三社とも式内社に比定されている古社。社記によると、本社は崇神天皇の時代、倭姫命天皇の御膳の守護神として奉祭せられたといいます。 元々、弓月岳にあった穴師坐兵主神社(上社)が、応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社(下社)に合祀され、同じく巻向山にあった卷向坐若御魂神社も祀されて、現在のような祭祀形態となったと思われます」とある。

f:id:tom101010:20190513200457j:plain

穴師坐兵主神社拝殿

f:id:tom101010:20190513200619j:plain

穴師坐兵主神社境内秋の紅葉は見事だろう


 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「社寺を巡る」(桜井市HP)

★「名所旧跡」(桜井市観光協会HP)

 

※20210802朝食関連記事削除、一部改訂

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その74改)―奈良県桜井市茅原(山の辺の道)玄賓庵(げんぴあん)近く―万葉集 巻二 一五八

●歌は、「山吹の立ちしげみたる山清水酌みに行かめど道の知らなく」である。

f:id:tom101010:20190512222457j:plain

奈良県桜井市玄賓庵近くの万葉歌碑(高市皇子

 

●歌碑は、奈良県桜井市茅原(山の辺の道)玄賓庵(げんぴあん)近くにある。

 

●歌を見ていこう。

 

 高市皇子の歌は万葉集に三首収録されていることは、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その68―」でもふれており、今回の歌碑の歌も紹介している。再掲載する。

 

◆山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴

                   (高市皇子 巻二 一五八)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

(訳)黄色い山吹が咲き匂っている山の清水、その清水を汲みに行きたいと思うけれど、どう行ってよいのか道がわからない。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)「山吹」に「黄」を、「山清水」に「泉」を匂わす。

 

 題詞「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」とあり、そのうちの一首である。

題詞の書き下しは、「十市皇女(とをちのひめみこ)の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作らす歌三首」

 

 他の二首は次の通りである。

◆神山之 山邊真蘇木綿    短木綿 如此耳故尓 長等思伎

                 (高市皇子 巻二 一五七)

 

≪書き下し≫三輪山(みわやま)の山邊(やまべ)真蘇木綿(まそゆふ)短木綿(みじかゆふ)かくのみゆゑに長くと思ひき

(訳)三輪山の麓に祭る真っ白な麻木綿(あさゆふ)、その短い木綿、こんなに短いちぎりであったのに、私は末長くとばかり思い頼んでいたことだった。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)真蘇木綿(まそゆふ):麻を原料とした木綿 (ゆう)(コトバンク デジタル大辞泉

 

◆三諸之 神之神須疑 巳具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多

                  (高市皇子 巻二 一五六)

 

≪書き下し≫みもろの神の神杉(かむすぎ)巳具耳矣自得見監乍共(第三、四句、訓義未詳)寝(い)ねる夜(よ)ぞ多き

    ※第三、四句:①こぞのみをいめにはみつつ

           ②いめにだにみむちすれども

           ③よそのみをいめにはみつつ

           ④いめにのみみえつつともに

 

(訳)神の籠(こも)る聖地大三輪の、その神のしるしの神々しい杉、巳具耳矣自得見監乍共、いたずらに寝られない夜が続く(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「紀曰七年戌寅夏四月丁亥朔癸巳十市皇女卒然病發薨於宮中」<紀には「七年戌寅(つちのえとら)の夏の四月丁亥(ひめとゐ)の朔(つきたち)の癸巳(みずのとみ)に、十市皇女、にはかに病(やまひ)発(おこ)りて宮の中(うち)の薨(こう)ず」といふ>である。

 

 高市皇子十市皇女が薨った時に詠んだ「山振之立儀足山清水酌尓雖行道之白鳴」(山吹<やまぶき>の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく)の歌は、山吹の花が「黄」山清水が「泉」を匂わしているという。会いたいが「黄泉」の国への道がわからない、なんという「妹」への気持ちであることか。

 

 

 玄賓庵とは、桜井市HP「社寺を巡る」によると、「今から千百年前、平安時代初期、高徳僧で名医でもあった玄賓僧都が隠棲したと伝える庵。もと三輪山の檜原谷にあったが、明治の神仏分離で現在地に移された。」とある。

 

 桧原神社から三輪への山の辺の道を,10分ほど歩けば「玄賓庵」に行ける。桧原神社の南口を出たところで、柿本人麻呂の歌碑「古に人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」を見つけた。そこからだらだらと下り山の辺の道を進む。

f:id:tom101010:20190512222706j:plain

玄賓庵へ山の辺の道を下る

 山道である。歌碑めぐりのいでたちではやや場違いな感じである。すれ違う人に挨拶を交わし、ひたすら歩く。突き当りに石積みの寺院の塀らしきものが見えてくる。その左手に歌碑があった。パイプから水を細い滝のように垂れ流している側に歌碑がある。山清水を汲むからの演出かと思うが。

 玄賓庵の正面入り口まで足を延ばす。

f:id:tom101010:20190512222920j:plain

玄賓庵玄関

 玄関の脇の瓦の飾り瓦が鳩である。

f:id:tom101010:20190512223017j:plain

飾り瓦の鳩(玄賓庵)

 ここからまた桧原神社に引き返す。今度は上りである。

f:id:tom101010:20190512223126j:plain

桧原神社に戻る登り坂(山の辺の道)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「社寺をめぐる」(桜井市HP)

万葉歌碑を訪ねて(その73改)―桧原神社南口―万葉集 巻十 一八一四

●歌は、「古の人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」である。

f:id:tom101010:20190511233735j:plain

桧原神社南口付近万葉歌碑(柿本人麻呂

 

●歌碑は、桧原神社南口から山の辺の道にでるとすぐ左手にある。

 

●歌を見てみよう。

 

◆古 人之殖兼 杉枝 霞霏微 春者来良之

                (柿本人麻呂 巻十 一八一四)

    ※漢字が見当たらないので「微」としているが「雨かんむり+微」である。

 

≪書き下し≫いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし

(訳)遠く古い世の人が植えて育てたという、この杉木立の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春はやってきたらしい。

 

 

 前日(4月22日)、社務所で訪ねたがわからなかった柿本人麻呂の歌碑である。山の辺の道から桧原神社への途中にはなかった。また神社から井寺の池方面に行く道のもないことは確認できている。あとは神社から玄寳庵に行く山の辺の道にあるはずとふむ。境内の南口から山の辺の道が三輪方面に続いている。この道をたどれば玄寳庵に行くことができるので、三つ鳥居に拝礼をして南口を出る。何と出てすぐの左手方向に歌碑があったのだ。前日見つけることができなかったのは、ここまで足を延ばしていなかったこが敗因であった。

 

 桧原神社は、拝殿等が無く、三ツ鳥居がある。

f:id:tom101010:20190511234014j:plain

桧原神社三ツ鳥居

 三ツ鳥居に関しては、産経ニュース(2015年12月31日付)に次のように紹介されている。

 「大神神社の摂社・桧原神社(桜井市)の『三ツ鳥居』(高さ約3・1メートル)が、伊勢神宮式年遷宮に伴う古材を使い建て直された。真新しい独特の形の鳥居が参拝者を迎えている。三ツ鳥居は明神(みょうじん)型の鳥居を3つ組み合わせた形。別名、三輪鳥居ともいわれ、大神神社にも三ツ鳥居(高さ約3・6メートル、重文)がある。

 桧原神社は伊勢神宮と同じ天照大神を祭神とし、「元伊勢」とも呼ばれる。三ツ鳥居がどうして生まれたかは不明だが、本殿に代わるものとして神聖視されており、室町時代以降の古図には三ツ鳥居が描かれている。

 古い三ツ鳥居は伊勢神宮の第59回式年遷宮(昭和28年)の後、内宮(ないくう)外玉垣東御門の古材を譲り受けて40年に建てられた。古くなったため、第62回式年遷宮(平成25年)を終えた同神宮から今年3月、別宮・倭姫宮(やまとひめのみや)の参道鳥居に使われていた古材を譲り受け、11月に建て直された。」

 

 

 

 

 万葉集巻十の部立は、「春雑歌」「春相聞」「夏雑歌」「夏相聞」「秋雑歌」「秋相聞」「冬雑歌」「冬相聞」となっている。先頭の歌群は大半が、柿本人麻呂歌集の歌である。人麻呂歌集の歌が万葉集にあって特別な位置にあるのは明らかである。

 

 この歌碑の歌は、部立「春雑歌」の先頭歌群(一八一二~一八一八)のひとつである。 

 歌群の歌をみていこう。(「霞霏微」の「微」は、漢字が見当たらないので「微」としているが「雨かんむり+微」である。)

 

◆一八一二 久方之 天芳山 此夕 霞霏微 春立下

≪書き下し≫ひさかたの天の香具山この夕(ゆふへ)霞(かすみ)たなびく春立つらしも

(訳)ひさかたの天の香具山に、この夕べ、霞がたなびいている。まさしく春になったらしい。

 

◆一八一三 巻向之 檜原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方

≪書き下し≫巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ來(こ)めやも

(訳)この巻向の檜原にぼんやりと立ち込めている春霞、その春霞のように、この地をなおざりに思うのであったら、何で歩きにくい道をこんなに苦労してまでやって来るものか

(注)おほに<おほなり:①いい加減だ、おろそかだ。

            ②ひととおりだ。平凡だ。

 

◆一八一五 子等我手乎 巻向山丹 春去者 木葉凌而 霞霏微

≪書き下し≫子らが手を巻向山に春されば木(こ)の葉しのぎて霞たなびく

(訳)あの子の手をまくという名の巻向山、その山に春がやって来たので、木々の葉を押し伏せるようにして霞がたなびいている

 

◆一八一六 玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏微

≪書き下し≫玉かぎる夕(ゆふ)さり来(く)ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく

(訳)玉がほのかに輝くような薄明りの夕暮れになると、猟師(さつひと)の弓、その弓の名を負う弓月が岳に、いっぱい霞がたなびいている。

(注)さつひと【猟人】かりゅうど。猟師。さつお。(goo辞書)

 

◆一八一七 今朝去而 明日香来る牟等 云子鹿丹 旦妻山丹 霞霏微

≪書き下し≫今朝(けさ)行(ゆ)きて明日(あす)には来(こ)ねと言ひし子か朝妻山(あさづまやま)に霞たなびく

(訳)今朝はひとまずお帰りになっても、今夜はまたきっと来て下さいと言ったあの子ででもあるのか、その朝妻の山に霞がたなびいている。

(注)明日:今夜の意。日没から一日が始まるとという考えによる。

 

◆一八一八 子等名丹 關之宣 朝妻之 片山木之尓 霞多奈引

≪書き下し≫子らが名に懸(か)けのよろしき朝妻(あさづま)の片山崖(かたやまきし)に霞たなびく

(訳)あの子の名に懸けて呼ぶにふさわしい朝妻山の、その片山の崖に霞がたなびいている。

 左注は、「右柿本朝臣人麻呂歌集出」である。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「産経ニュース(2015年12月31日付)」

★「goo辞書」

★「weblio古語辞書」

 

万葉歌碑を訪ねて(その72改)―奈良県桜井市穴師―万葉集 巻七 一一〇一

●歌は、「ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き」である。

f:id:tom101010:20190510213623j:plain

奈良県桜井市穴師県道50号線から少し北に入った三叉路の万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県桜井市穴師にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆黒玉之 夜去来者 巻向之 川音高之母 荒足鴨疾

                  (柿本人麻呂 巻七 一一〇一

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よる)さり来(く)れば巻向の川音(かはおと)高しもあらしかも疾(と)き

(訳)夜がやってくると、巻向の川音が高く響き渡る。山おろしの風が激しいのであろうか。

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「いちだんとはげしさを加えていく穴師の水音を如実にうたっている。山おろしの吹く斎槻が嶽一帯の光景をよく把握して、神の風土における山河の音を見事に自分のものとした。」と書かれている。

 

 題詞は、「河を詠む」であり、左注は、「右の二首は、柿本朝臣人麻呂歌集に出づ」である。

 

もう一首も見てみよう。

 

◆巻向之 病足之川由 往水之 絶事無 又反将見

                  (柿本人麻呂 巻七 一一〇〇)

 

≪書き下し≫巻向の穴師の川ゆ行く水の絶えることなくまたかへり見む

(訳)巻向の穴師の川を、こんこんと流れ行く水が絶えることのないように、繰り返し繰り返し、また何度もここにやって来て見よう。

 

 山の辺の道や、桧原井寺池等の歌碑を巡ったが、県道50号線沿いの歌碑を探し出しえなかったのがあるので、帰宅後グーグルアースを使い50号線上を丹念に探る。桜井市HPの万葉歌碑マップを頼りに、周辺を探っていく。歌碑らしいものを発見、歌碑に近づけ確認をとる。側道に入ったところにある歌碑もこうして見つけ、走ったところの目星をつける。(4月22日)

 二日連続の歌碑めぐりである。桧原神社近くの柿本人麻呂の歌碑や玄賓庵なども視野に入れ再挑戦する。(4月23日) 

 この歌碑は、県道50号線から少し入ったところの山の辺の道への三叉路の所にあった。歌碑の写真を取り、引き返そうとする。Y字型であるので車をバックさせハンドルを切るも結構狭い。山の辺の道方面から歩いてきた5人連れの人が見かねて誘導してくれる。助かった。

 お礼を言い、そこを後にし、桧原神社を目指す。

 

 奈良県のHP「はじめての万葉集」にこの歌の解説があるので、抜粋させていただく。(一部加筆)

「巻向」は現在の桜井市で三輪の北方にあり、今も箸墓をはじめとする古墳や、垂仁(すいにん)天皇の纒向珠城宮(まきむくのたまきのみや)跡伝承地などが古代を偲ばせている。 

JR万葉まほろば(桜井)線の巻向駅から東へ進むと、景行(けいこう)天皇の纒向日代宮(まきむくのひしろのみや)跡伝承地や穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社がある。このあたりが、今「穴師」とよばれている。

ただし『万葉集』では「痛足」(写本によっては「病足」とも)と表記されており、「痛足の川」は巻向川が穴師付近を流れる際の呼称であると考えられている

この歌は痛足川(穴師川)を流れる水が絶えないように、絶え間なくこの川を見続けよう、と痛足川を褒め称えている。

万葉集』にはこれとよく似た歌、「見れど飽かぬ吉野の河の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む」(巻一の三七番歌)がる。これは、吉野行幸の時に柿本人麻呂が詠んだ歌で、吉野川を褒め称えた内容となっている。
 「柿本朝臣人麻呂歌集」は『万葉集』より古い歌集で、柿本人麻呂によって編纂されたと思われていますが、残念ながら現存しない。

万葉集』に収録されている「人麻呂歌集」には、巻向を詠んだ歌がいくつかある。また巻向の地で「妹」を詠んだ歌も多く、巻向から北へいった天理市の櫟本を柿本人麻呂の出身地とする伝承があるので、考えあわせると想像が膨らむという。

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「『絶ゆることなくまたかへり見む』とうたうのは、巻向、穴師の土地への切なる愛着で、ただその土地に隠し妻がいたということだけでなく、その女性が参加しただろう神祭りに、人麻呂はさわやかな感動を味わったとみるべきである。」と述べておられる。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「はじめての万葉集」(奈良県HP)

 

※20240406朝食関連記事削除、一部改訂

 

万葉歌碑を訪ねて(その71改)―奈良県桜井市穴師、県道50号線沿い―万葉集 巻七 一〇九三

 

●歌は、「三諸のその山なみに子らが手を巻向山はつぎのよろしも」である。

f:id:tom101010:20190509215126j:plain

奈良県桜井市穴師県道50号線沿い万葉歌碑(柿本人麻呂

 

●歌碑は、奈良県桜井市穴師、県道50号線沿いにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆三毛侶之 其山奈美尓 兒等手乎 巻向山者 継之宜霜

               (柿本人麻呂 巻七 一〇九三)

 

≪書き下し≫みもろのその山なみに子らが手を巻向山(まきむくやま)は継(つ)ぎのよろしも

 

(訳)三輪山のその山並(やまなみ)にあって、いとしい子が手をまくという名の巻向山は、並び具合がたいへんに好ましい。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)みもろ【御諸・三諸・御室】:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神野語座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など、特に、「三輪山(みわやま)にいうこともある。また、神坐や神社。「みむろ」とも。

 

 この歌は、題詞「詠山」<山を詠む>の三首の中の一首である。

 

 

 他の二首は歌のみ掲載する。

             

◆動神之 音耳聞 巻向之 檜原山乎 今日見鶴鴨

               (柿本人麻呂 巻七 一〇九二)

 

◆我衣 色取染 味酒 三室山 黄葉為在

               (柿本人麻呂 巻七 一〇九四)

 

この三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その66改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 ●柿本人麻呂歌集にある「略体」表記

 柿本人麻呂は、万葉第二期の代表歌人である。この三首も柿本人麻呂(作)としているが、左注には「右三首柿本朝臣人麻呂之歌集出」とある。諸文献に「おそらく柿本人麻呂の歌と考えてよいだろう」との表現が見られる。万葉集にある「柿本朝臣人麻呂之歌集」の位置づけについていろいろと議論がなされている。

 また、歌集の「書体」についても多々指摘がなされている。ここでは「略体」書記について触れてみたい。

◆春楊 葛山 發雲 立座 妹念  (巻十一 二四五三)

 

 各句二文字、全体を十文字であらわされており、「略体」の典型といわれる。

≪書き下し≫春楊(はるやなぎ) 葛山(かづらきやまに) 發雲(たつくもの) 立座(たちてもゐても) 妹念(いもをしぞおもふ)

(訳)春柳を鬘(かずら)くというではないが、その葛城山に立つ雲のように、立っても坐っても、ひっきりなしにあの子のことばかり思っている。

 第四、五句を「たちてもゐてもいもをしぞおもふ」と読むのは定型を前提としているという。たとえば、巻十 二二九四は、「秋去者(あきされば) 雁飛越(たびとびこゆる) 龍田山(たつたやま) 立而毛居而毛(たてもゐても) 君乎思曽念(きみをしぞおもふ)」があり、巻十二 三〇八九は、「遠津人(とほつひと) 獦道之池尓(かりぢのいけに) 住鳥之(すむとりの) 立毛居毛(たちてもゐても) 君乎之曽念(きみをしぞおもふ)とあることによるという。

 人麻呂の時代は、「口誦から記載」に時代であり、人麻呂歌集にあって、時間軸でとらえると、相対的に助詞、助動詞を表記することが多くなっているという。

 聞き伝えを表記する場合は前例にのっとりと簡略化され、歌を歌として表記する場合は一字一句を正確にということになるのだろう。

 

  桜井市HPの万葉歌碑マップをてがかりに、車を止め足で探す。畑が広がる。ハウス栽培の前で野良着のおばあさん二人が立ち話をしている。聞いてみようと近づく。ふと見ると手前に歌碑らしきものがある。お二人に会釈をして歌碑を撮影する。この日は歌碑を9つ巡ったのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二ならびに三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「別冊國文學 万葉集必携」稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志 隆光 (東京大学出版会

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「weblio古語辞書」

 

万葉歌碑を訪ねて(その70改)―奈良県桜井市箸中車谷県道50号線沿い―万葉集 巻十 二三一三

 

 ●歌は、「あしひきの山かも高き巻向の岸の小松にみ雪降りけり」である。

f:id:tom101010:20190508225530j:plain

奈良県桜井市箸中車谷万葉歌碑(柿本人麻呂桜井市箸中車谷県道50号線沿い

 

●歌碑は、奈良県桜井市箸中車谷県道50号線沿いにある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足曳之 山鴨高 巻向之 木志乃子松二 三雪落來

               (柿本人麻呂 巻十 二三一三)

 

≪書き下し≫あしひきの山かも高き巻向の崖(きし)の小松にみ雪降りくる

(訳)あしひきの山が高いからか、巻向の崖っぷちの松の梢に、雪が降ってくる。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)小松:「小」は愛称の接頭語

 

 堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」の中で、「巻向山の崖の小松に雪がふった。とうたい、この山が高いためかと、単純にうたい据えた。五六五メートルくらいの巻向山である。しかし、『あしびきの山かも高き』とうたった点に、巻向山への親しみに若干の畏怖感が雪のように交っていて、『子らが手を巻向山』の冬が、うたわれた。『岸の小松にみ雪ふりけり』が、美しい描写である。」と書かれている。

 「子らが手を巻向山」とは、巻七 一〇九三の「三諸のその山なみに子らが手を巻向山はつぎのよろしも」である。この歌碑は、穴師集落南側、県道50号線沿いにある。

 

 

 この歌は、部立「冬雑歌」の4首の一つである。他の3首をみていこう。

 

◆我袖尓 雹手走 巻隠 不消有 妹高見

                (柿本人麻呂 巻十 二三一二)

 

≪書き下し≫我が袖に霰(あられ)た走る巻き隠し消(け)たずてあらむ妹(いも)が見むため

(訳)私の袖に霰がぱらぱらと飛び跳ねる。包み隠して消さないでおこう。あの子にみせるために。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)巻き隠す:袖に包み隠して

 袖の霰を愛しい人に見せたいという熱い心が伝わる心理描写の歌である。

 

◆巻向之 檜原毛未雲居者 子松之末由 沫雪流

                (柿本人麻呂 巻十 二三一四)

 

≪書き下し≫巻向の檜原(ひはら)もいまだ雲居(くもい)ねば小松が末(うれ)ゆ沫雪(あわゆき)流る

 

(訳)巻向の檜原にもまだ雲がかかっていないのに、松の梢からはやもう泡雪が流れてくる。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゝ乎 雪落者 或云 枝毛多和ゝゝ

                 (柿本人麻呂 巻十 二三一五)

 

≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば 或は「枝もたわたわ」といふ

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>

 

左注は、「右柿本朝臣人麻呂歌集出也 但件一首 或本云三方沙弥作」(右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件(くだり)の一首は、或本には「三方沙弥が作」といふ

 

 この四首の歌は、ある意味単純な描写であるにも関わらず、五七五七七で雪の情景を絵画タッチで見事に美しく訴えているように思えるのである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉の心」 中西 進 著(毎日新聞社

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

 

※20210810朝食関連記事削除、一部改訂