万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その128改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森(8)―万葉集 巻七 一一一八 

 

 ●歌は、「いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ」である。

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町万葉の森にある。橿原万葉の森第8弾である。

 

●歌をみてみよう。

 

 

◆古尓 有險人母 如吾等架 弥和乃檜原尓 挿頭折兼

                    (柿本人麻呂 巻七 一一一八)

 

≪書き下し≫いにしへにありけむ人も我がごとか三輪(みわ)の檜原(ひはら)にかざし折けむ

(訳)遠く過ぎ去った時代にここを訪れた人も、われわれのように、三輪の檜原(ひはら)で檜の枝葉を手折って挿頭(かざし)にさしたことであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その63改)」で紹介している。(初期のブログであるのでタイトル写真には朝食の写真が掲載されていますが、「改」では、朝食の写真ならびに関連記事を削除し、一部改訂しております。ご容赦下さい。)

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

■■■明日香村万葉歌碑巡り(7月8日)■■■ 

 6月30日に、犬養万葉記念館でいただいた「犬養孝揮毫万葉歌碑マップ」。それをたよりに三回目の明日香村万葉歌碑めぐりである。これまでに15か所のうち9か所を巡ったので、残り6か所に挑戦である。

 高松塚前小丘➡飛鳥周遊歩道下平田休憩園地➡坂田寺跡➡祝戸 飛鳥稲淵宮殿跡➡飛鳥周遊歩道岡寺から石舞台方面すぐ➡稲淵飛石の6か所の計画である。

 

  • 高松塚前小丘

 飛鳥歴史公園高松塚周辺地区駐車場に車を止める。無料である。

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国営飛鳥歴史公園

 公園内の地図を見ると高松塚古墳東南方向に「万葉歌碑」と記されている。方向性がわかるだけでも楽勝である。209号線の地下道をくぐり芝生広場を通り、近道と書いてある階段を上る。結構な登りである。梅雨のあいまの晴れは良いが、暑い!

 やがて高松塚古墳が姿を見せる。初めてである。比較的小さな円墳である。

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高松塚古墳

 

そこから100mほど登り丘の上に。万葉歌碑がありました。小高いところだけに眺めが良い。この空間を独占している。

 

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高松塚古墳近くの丘からの遠望


 

 高松塚壁画館に立ち寄る。壁画の模写したものや石槨の原寸大模型が展示されていた。石槨には盗掘のために石を削った跡まで復原されていた。他には海獣葡萄鏡のレプリカや木棺金具など盗掘の価値がないものがわずかに残されたもののレプリカもあった。説明員の方が熱心に、海獣葡萄鏡は遣唐使が持ち帰り献上したのではないか、とか、古墳の規模から皇子級では、等々から忍壁皇子ではとの持論を展開されていた。壁画の女性像から、埋葬者の島系王族の論を否定したりと、熱弁をふるっていただいた。

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高松塚壁画館

駐車場まで約500m、ここだけで往復1km歩いたことになる。

 

  • 飛鳥周遊歩道下平田休憩園地

 万葉歌碑マップでは、詳細が分からないので、方向と周辺のポイントを探りながらの行動になる。駐車場から今度は逆に北西の方向、欽明天皇陵方面を目指す。途中の案内図にも「万葉歌碑」の文字はない。近鉄線が見えて来たので行き過ぎと軌道修正、欽明天皇陵が見えてきたが、そこまでは行かずに途中で右折、鬼の俎、雪隠方向に進む。少しこんもりしたところが見えて来た。なんとなく休憩園地の雰囲気。ありました。

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飛鳥周遊歩道下平田休憩園地万葉歌碑

 よくよく見ると歴史公園の出口から直進にて左折すればすぐのところである。四角形の一辺の長さは他の三辺の和よりも短いのは当たり前、なんと遠回りをしたことか。

 

  • 坂田寺跡

 スマホで検索した坂田寺跡の住所は「明日香村坂田」となっているので、カーナビに入力するも、「坂田」周辺の案内とのメッセージである。ナビ通り進むと、上り坂もいいところ、アクセルをほぼ目いっぱいでやっと登れる感じになってくる。周辺にはそれらしきものは何も見当たらない。これはおかしいと引き返す。途中で都塚古墳があったので写真に写す。これだけでももうけものと思わざるをえない。

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都塚古墳入口

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都塚古墳説明案内板

 ふりだしにもどしマップから坂田寺跡付近と思しき所にもう一度挑戦。駐車場がないのは明らかなので、何とか車を止めれそうな場所を見つける。地図を頼りに少し戻るかたちで歩きマラ石を見つける。そこから道路を横切りまた戻る感じで右折、上り阪となる。

漸く「坂田寺跡」に碑にたどり着く。そこから少し上ったところに歌碑がありました。

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坂田金剛寺址碑

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坂田寺跡説明板

 

 ここも結局、遠回りである。坂田寺跡から車を止めたところはすぐ近くであった。地図が読めない○○○と云々という本があったが、全く地図が読めない。案内看板も少ないのが致命的。

 

 

  • 祝戸 飛鳥稲淵宮殿跡

 このようなマイナーな名所旧跡の類はカーナビでは出てこない。スマホで検索して住所を入力したりと隠れた努力を強いられる。

 気持ちの上で、少しでも車で近づきたいとハンドルを握るが、結局車1台通れるような細い道に入ってしまい、あげくの果ては、行き止まりで何とかUターン。切り返しを何回することか、タイヤさんごめんなさい。

 また逆戻りして、車を止めれそうな場所を探すが適当な場所が見つからない。先まで行ってUターンするかと何かに導かれるように前進する。すると、広場のようなものが見えて来る。説明板がある。ひょっとしたらの思いである。ラッキー、広場の入り口左手前に歌碑がありました。

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史跡飛鳥稲淵宮殿跡碑

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史跡飛鳥稲淵宮殿跡説明案内板

 まったくファインチューニングができないいらだたしさである。

 

 

  • 飛鳥周遊歩道岡寺から石舞台方面すぐ

 前回もトライしたがあきらめた歌碑である。いろいろと調べ、石舞台から岡寺方面に歩けばたどり着けそうである。石舞台駐車場に車を止め、見晴台付近から飛鳥周遊歩道に向かう。見晴らし台から石舞台を眺める。

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石舞台古墳

 上りがきつくなる。スマホのグーグルで検索すると山越えの様相である。マップの「飛鳥周遊歩道岡寺から石舞台方面すぐ」の「すぐ」を考えあわせ、このルートをあきらめる。また駐車場に戻り、岡寺を目指す。

 岡寺の駐車場に車を止め、飛鳥周遊歩道を歩く。

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岡寺(駐車場から撮影)

 「飛鳥周遊歩道岡寺から石舞台方面すぐ」の「すぐ」が曲者であった。つづら折りの道を上り、また上りである。あきらめようと迷いつつもそこのカーブの先まで行けばとがんばり、裏切られ、ここまで来たのだからと励まし進む。石舞台方面の看板があり、右手に少し開けたところが見えて来た。その中央に歌碑らしきものが。ありました。ありました。

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嶋の宮の歌碑と周りの風景

 

 

  • 稲淵飛石

 いよいよ残り1か所。途中、稲淵棚田の看板が立っているのが見えた。何人かが棚田を撮影している。その先の二股の左側の道を進む。途中右手方向に「飛石」の立札があった。駐車場はない。スペースのない。しばらく進んでUターン。人様の納屋の前のスペースに車を申し訳ないと心で叫んで、止めさせてもらう。そこから飛鳥川の方に歩いて降りていく。小さな橋があり、上流には堰から滝状に水しぶきが上がっていてなかなかの風情である。歌碑がありそうな雰囲気である。しかし、どちらの方に行けばよいのか案内板がない。うろうろするが、見つからないので、車を止めているのが気になり、あきらめて車に戻る。先ほどの二股のところまで戻り、マップのらしきところを川の反対側から探すことにする。しばらく行くと、左下方向に手書きの「飛石」の文字が目に飛び込む。ここもしばらく行ってからUターン。下りの人ひとり通れる細い道。川の流れの音が。飛石があった。しかし、辺りを見渡しても歌碑らしきものは見当たらない。

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飛石

 

 飛石を渡る。歌碑はない。探している歌のとおり「石橋の遠き心は思ほえぬかも」である。そこをあきらめ車でゆっくり戻る。車で降りれそうなところがあるが、どうもそこは、先ほど右岸側から降りてきたところである。もう一度降りていく。歌碑の在りそうなところを探すがやはり見つからない。あきらめつつもあきらめられない気持ち。車に戻り、手掛かりを探しながらゆっくりと進む。手書きの「飛石」の文字が。車を止め、祈る気持ちで、川を目指す。畑の縁を縫うように進む。飛石が見えた。さらに進むと、小さな橋に出る。橋向の右手に歌碑らしきものが!!! ありました。ありました。ありました。

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万葉歌碑(手前)と飛石

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整然とした飛石


 今日は何という日なのだろう。素直に行き着いたのはしょっぱなだけで、あとは、遠回り、遠回り、行きつ戻りつの繰り返しだった。

 帰りに「稲淵棚田」の所に車を止め、棚田を撮影。

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明日香村稲淵の棚田風景

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稲淵棚田説明板

 

犬養孝揮毫15の万葉歌碑すべて巡ったのである。

 

 帰りすがり、前回写さなかった雷橋近くの歌碑を撮影。なでしこと銘打って、民家の家の前にあり、歌碑の前に花を植えてあるので、これまでの歌碑と雰囲気が全然違ったので、万葉歌碑ではないと思い撮影もしなかったが、後で調べると大伴家持の歌碑であることが分かった。写しておいて違えば消去すればよいのだが、なぜか雰囲気に惑わされ写す気にもならなかったものである。

 

 明日香村の犬養孝揮毫万葉歌碑を三度目のトリップですべて巡り終えた。飛鳥の歴史、万葉の歌の背景なりを感じ取ることが少しはできたような気がする。

 大変な一日であったが、達成感からか苦労は嘘のような思えた。

 やはり万葉の世界の魅力は底知れない。ものがある。

 挑戦し続けるぞ!

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

犬養孝揮毫万葉歌碑マップ(明日香村)

 

 ※20210802 朝食関連記事削除、一部改訂

万葉歌碑を訪ねて(その127の2改)―万葉集 日本挽歌 巻五 七九四 ならびに反歌

万葉歌碑を訪ねて―その127の2―

イメージ画像:福岡県太宰府市大宰府メモリアルパーク 日本挽歌の碑
(20201117撮影)


【日本挽歌】をみていこう。

 

題詞は「日本挽歌一首」≪日本(にほん)挽歌(ばんか)一首>である。

 

◆大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國尓 泣子那須 斯多比枳摩斯提 伊企陀尓母 伊摩陀夜周米受 年月母 伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那△枳 

許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良尓 石木乎母 刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企 伊毛乃美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 尓保鳥能   布多利那良△為 加多良比斯 許ゝ呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須

          ※           △:「田+比」=「び」

                 (山上憶良 巻五 七九四)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の 遠(とほ)の朝廷(みかど)と しらぬひ 筑紫(つくし)の国に 泣く子なす 慕(した)ひ来(き)まして 息(いき)だにも いまだ休めず 年月(としつき)も いまだあらねば 心ゆも 思はぬ間(あひだ)に うち靡(なび)き 臥(こ)やしぬれ 言はむすべ 為(せ)むすべ知らに 石木(いはき)をも 問(と)ひ放(さ)け知らず 家(いへ)ならば かたちあらむを 恨めしき 妹(いも)の命(みこと)の 我(あ)れをばも いかにせよとか にほ鳥(どり)の ふたり並び居(ゐ) 語らひし 心背(そむ)きて 家離(ざか)りいます

 

(訳)都遠く離れた大君の政庁だからと、この筑紫の国に、泣く子のようにむりやり付いて来て、息すら休める間もなく年月もいくらも経たないのに、思いもかけぬ間(ま)にぐったりと臥(ふ)してしまわれたので、どう言ってよいかどうしてよいか手立てもわからず、せめて庭の岩や木に問いかけて心を晴らそうとするがそれもかなわず、途方に暮れるばかりだ ああ、あのまま奈良の家にいたなら、しゃんとしていられたろうに 恨めしい妻が、この私にどうせよという気なのか、かいつぶりのように二人並んで夫婦の語らいを交わしたその心に背いて、家を離れて行ってしまわれた。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しらぬひ:枕詞 地名「筑紫(つくし)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(weblio古語辞書)

(注)にほ鳥:「ふたり並び居」の譬え

 

 

◆伊弊尓由伎弖 伊可尓可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母

                    (山上憶良 巻五 七九五)

 

≪書き下し≫家に行(ゆ)きていかにか我(あ)がせむ枕付(まくらづ)く妻屋(つまや)寂(さび)しく思ほゆべしも

 

(訳)あの奈良の家に帰って、何としたら私はよいのか。二人して寝た妻屋がさぞさびしく思われることだろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)まくらづく【枕付く】枕詞 枕が並んでくっついている意から、夫婦の寝室の意の「妻屋」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)妻屋(つまや):夫婦の寝室

 

 

◆伴之伎与之  加久乃未可良尓  之多比己之  伊毛我己許呂乃  須別毛須別那左

                    (山上憶良 巻五 七九六)

 

≪書き下し≫はしきよしかくのみからに慕(した)ひ来(こ)し妹(いも)が心のすべもすべなし

 

(訳)ああ、遠い夷(ひな)の地、筑紫で死ぬ定めだったのに、むりやり私に付いて来た妻の、その心根が何とも痛ましくてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)はしきよし【愛しきよし】:「はしきやし」に同じ。ああ、いとおしい。ああ、なつかしい。ああ、いたわしい。「はしけやし」とも。

 

 

◆久夜斯可母  可久斯良摩世婆  阿乎尓与斯  久奴知許等其等  美世摩斯母乃乎

山上憶良 巻五 七九七)

 

≪書き下し≫悔しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを

(訳)ああ残念だ。ここ筑紫の異郷でこんなはかない身になるとあらかじめ知っていたなら、故郷奈良の山や野をくまなく見せておくのだったのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あをによし:「国内(くぬち)」の枕詞

(注)「国内(くぬち)」:ここでは、故郷奈良の山や野の意

 

◆巻五 七九八

 この歌については、 前稿ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その127-1)で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

◆大野山 紀利多知<和>多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是尓 紀利多知和多流

                                      (山上憶良    巻五 七九九)

 

≪書き下し≫大野山(おほのやま)霧(きり)立ちわたる我(わ)が嘆くおきその風に霧立ちわたる

 

(訳)大野山に今しも霧が立ち込めている。ああ、私の嘆く息吹(いぶき)の風で霧が一面立こめている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)大野山:大宰府背後に当たる四王子山。

(注)おきそ:息嘯(おきうそ)の意か。嘆息は霧になると考えられた。

 

左注は、「神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上」≪神亀(じんき)五年七月二十一日筑前守(つくしのみちのくちのくにつかみ)

(注)上:奉る、の意。

 

以上みてきたように、万葉歌碑を訪ねて―その127の1―でも触れたように、巻五は、歌を「一字一音」で書いている。ただし、「大王」「朝廷」「筑紫國」「大野山」などは、訓読みで書かれている。意味が直接的であることからのなせる業であろう。巻五の仮名書記は、漢文・漢詩とある意味言語的に区別して「日本語」を表すものとして働いている。ただ、「日本挽歌」とあるのは、中国の挽歌にたいする、日本の挽歌という意味合いが強いのである。

元号「令和」の出典となった「梅花宴」の三十二首は巻五であるから、漢文による前文があり、続いて、「短詠を成す」(倭の歌を詠む)のである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界―」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio古語辞書」

 

万葉歌碑を訪ねて(その127の1改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森―万葉集 巻五 七九八

万葉歌碑めぐり―その127の1―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

 

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町万葉の森にある。橿原万葉の森第7弾である。

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(山上憶良

 万葉の森の歌碑は、この写真のように、上から見るとL字型の板塀で囲ったものや瓦やねの白塀で囲ったものがあり、静かな自然の小径の側で、きりっとした佇まいを演出してある。

 

歌をみていこう。

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓

       (山上憶良 巻五 七九八)

 

≪書き下し≫妹が見し楝(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た楝(あふち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。妻を悲しんでなく私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)楝(あふち)の花:せんだんの花。筑紫の楝の散りそうなのを見つつ奈良の楝を思っている。

 

 この歌は、題詞「日本挽歌一首」(巻五 七九四歌)の長歌反歌五首(七九五~七九九歌)の一首である。

ここで、「日本挽歌」とあるのは、漢文(前文として)と漢詩と「日本挽歌」とからなる一つの作品として万葉集に収録されているのである。

 

 ボリュームがあるので、「漢文と漢詩」と「日本挽歌」の二回に分けて紹介することに挿せていただく。

前文としての漢文からみていこう。

 

【漢文】盖聞 四生起滅方夢皆空 三界漂流喩環不息 所以維摩大士在于方丈 有懐染疾之患 釋迦能仁坐於雙林 無免泥洹之苦 故知 二聖至極不能拂力負之尋至 三千世界誰能逃黒闇之捜来二鼠競走而度目之鳥旦飛 四蛇争侵而過隙之駒夕走 嗟乎痛哉 紅顏共三従長逝  素質与四徳永滅 何圖 偕老違於要期獨飛生於半路 蘭室屏風徒張 断腸之哀弥痛 枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落 泉門一掩 無由再見 嗚呼哀哉

 

≪漢文の書き下し≫けだし聞く、四生(ししょう)の起滅(きめつ)は夢(いめ)のみな空(むな)しきがごとく、三界(さんがい)の漂流(へふる)は環(わ)の息(とど)まらぬがごとし。このゆゑに、維摩大士(ゆいまだいじ)も方丈(はうぢやう)に在(あ)りて染疾(ぜんしつ)の患(うれへ)を懐(むだ)くことあり、釋迦能仁(しゃかのうにん)も双林(さうりん)に坐(ざ)して泥洹(ないをん)の苦しびを免れたまふことなし、と。

故(そゑ)に知りぬ、二聖(にしやう)の至極(しごく)すらに力負(りきふ)の尋(たづ)ね至ることを払(はら)ふことあたわず、三千世界に誰(た)れかよく黒闇(こくあん)の捜(たづ)ね来(きた)ることを逃(のが)れむ、といふことを。二鼠(にそ)競(きほ)ひ走りて、度目(ともく)の鳥旦(あした)に飛ぶ、四蛇(しだ)争(いそ)ひ侵(をか)して、過隙(くわげき)の駒夕(ゆうへ)に走る。ああ痛きかも。

紅顏(こうがん)は三従(さんじう)とともに長逝(ちょうせい)す、素質(そしつ)は四徳(しとく)とともに永滅(えいめつ)す。何ぞ図(はか)りきや、偕老(かいらう)は要期(えうご)に違(たが)ひ独飛(どくひ)して半路(はんろ)に生(い)かむとは。蘭室(らんしつ)には屏風(へいふう)いたづらに張り、断腸(だんちやう)の哀(かな)しびいよよ痛し、枕頭(しんとう)には明鏡(めいきやう)空(むな)しく懸(か)かり、染筠(ぜんゐん)の涙(なみた)いよいよ落つ。泉門(せんもん)ひとたび掩(と)ざされて、

また見るに由なし。ああ哀(かな)しきかも。

 

(漢文訳)聞くところによれば、万物の生死は夢がすべてはかないのと似ており、全世界の流転は輪が繋がって終わることがないのに似ている。こういうわけで、維摩大士も方丈の室(しつ)で病気の憂いを抱くことがあったし、釈迦能仁も沙羅双樹の林で死滅の苦しみから逃れることはできなかった、とのことである。かくして知ることができる。この無上の二聖人でさえも、死の魔の手の訪れを払いのけることはできず、この全世界の間、死神が尋ねてくるのをかわすことは誰にもできないということが。この世では、昼と夜とが先を争って進み、時は、朝に飛ぶ鳥が眼前を横切るように一瞬に過ぎてしまうし、人体を構成する地水火風が互いにせめぎ合って、身は、夕べに走る駒が間隙を通り過ぎるように瞬間にして消えてしまうのである。ああ、せつない。

こうして世の中の理(ことわり)のままに、妻の麗しい顔色は三従の婦徳とともに永遠に消え行き、その白い肌は四徳の婦道とともに永遠に滅び去ってしまった。誰が思い設けたことか、夫婦友白髪の契りは空しくも果たされず、まるではぐれ鳥のように人生半ばにして独りわびしく取り残されようとは。かぐわしい閨(ねや)には屏風が空しく張られたままで、腸もちぎれるばかりの悲しみはいよいよ深まるばかり、枕元には明鏡が空しく懸かったままで、青竹の皮をも染める涙がいよいよ流れ落ちる。しかし、黄泉(よみ)の門がいったん閉ざされたからには、もう二度と見る手立てはない。ああ、悲しい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)四生:胎生・卵生・湿性・化生。一切の生物をいう仏教語

(注)三界:欲界・色界・無色界。生物が住む全世界

(注)維摩大士:釈迦と同時代のインドの長者。大士は、仏や菩薩の尊称。

(注)釈迦能仁:「能仁」は釈迦の漢訳名で、ここは尊称

(注)双林:釈迦が真だ沙羅双樹の林。

(注)黒闇:黒闇天女。死や不幸の象徴

(注)二鼠:黒白二鼠。昼と夜の譬え。

(注)四蛇:四つの毒蛇。

(注)三従:婚前は父に、婚後は夫に、夫の死後は子に従うこと。

(注)四徳:女の守るべき徳。婦徳・婦言・婦容・婦功

(注)偕老:夫婦共白髪の契り

(注)独飛:連れを失った鳥が独り飛ぶこと

 

漢詩】      【漢詩書き下し】

 愛河波浪已先滅   愛河(あいが)の波浪は」すでにして滅ぶ 

 苦海煩悩亦無結   苦海(くがい)の煩悩もまた結ぼほるることなし

 従来厭離此穢土   従来(もとより)この穢土(ゑど)を厭離す、  

 本願託生彼浄刹   本願(ほんぐわん)生(しやう)を

           その浄刹(じやうせつ)に託(よ)せむ。

 

(訳)いとしい妻はすでに死んでしまって、

   身を襲う煩悩も結ばれることなくただ揺れ動くばかり

   私は前ゝからこの穢(けが)れた地上から逃れたいと思っていた。

   乞い願わくば、仏の本願にすがって、妻のいるかの極楽浄土に命を

   寄せたいものだ、(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)愛河:(仏語)愛欲などの執着が人をおぼれさせるのを河に例えた語。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)苦海:(仏語)苦しみの絶えないこの世を海にたとえていう語。苦界(くがい)とも。(同上)

(注)穢土:穢れた地上。人間世界。

(注)浄刹:清浄な国土。浄土。(同上)

 

 漢文、漢詩、万葉歌、すべて「漢字」で書かれている。しかし、万葉歌の場合は「一字一音の仮名」で書かれている。これについてもその2で補足していきたい。

 

 万葉集は巻一から巻十六(第一部)と巻十七から巻二十(第二部)の二つに大別されるという。この断層について、伊藤 博氏は「万葉集 四」(角川ソフィア文庫)の「解説」の中で、三点あげておられる。

 ①第一部は天平十六年(七四四)ころまでの歌の集合とみられるのに、第二部はほとんど天平十八年以降の歌によって成る。

 ②第一部はほとんど部立を立てているのに、第二部はそれがない。

 ③第一部にはさまざまな資料による詳しい校合があるのに、第二部にはそれがない。

さらに、第一部の巻一から巻六は、古歌巻(巻一,二の「白鳳の歌」)、古今歌巻(巻三、四の「白鳳と奈良の歌」)、今歌巻(巻五、六の「奈良の歌」)という構成になっている。しかも、この六巻は、作者の知られる歌、したがって時代も知られる歌のみを集め、作者記名の部としてのまとまりがあるという。

この巻一から巻六にあって、巻五のみ歌が「一字一音の仮名」で書かれているのである。この特異性の解明も課題である。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界―」 神野志隆光 (東京大学出版会

 ※ 20210131 改訂

万葉歌碑を訪ねて(その126改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森―万葉集 巻十 一九四二

●歌は、「ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘子」である。

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町万葉の森にある。万葉の森歌碑第6弾である。

 

●歌をみていこう。

 

◆霍公鳥 鳴音聞哉 宇能花乃 開落岳尓 田葛▼嬬

                (作者未詳 巻十 一九四二)

                 ※▼:「女+感」 ▼嬬=おとめ

 

≪書き下し≫ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡(おか)に葛(くず)引く娘子(をとめ)

 

(訳)もう時鳥の声を聞きましたか。卯の花が咲いては散るこの岡で、葛を引いている娘さんよ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)くず(ひく):葛の茎の繊維から葛布を作る

 

 この歌は、巻十の部立て「夏雑歌」の題詞「詠鳥」二十七首のうちの一首である。この歌の前一九四一歌は、「朝霧の八重山越えて呼子鳥鳴きや汝(な)が来(く)るやどもあらなくに」(訳:立ちこめる朝霧のように幾重にも重なる山を越えて、呼子鳥よ、鳴きながらお前はやってきたのか。宿るべきところもないのに《伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より》)であり、この歌のみ「呼子鳥」が詠われている。他はすべて「霍公鳥」が詠われている。

(注)呼子鳥は、「鳥の名。人を呼ぶような声で鳴く鳥。かっこうの別名か。」(weblio古語辞書 学研全訳古語辞典)

 伊藤 博氏はこの一九四二歌の脚注の「ここからまた時鳥の歌。別途資料によるか」と書いておられる。ここに万葉集を紐解く一つのカギがあるように思える。巻十の構成と万葉集への位置づけをみてみよう。

 

 巻十の構成は次のようになっている。歌番号の後は「左注」である。

【春雑歌】

  一八一二~一八一八歌 「右柿本朝臣人麻呂歌集出」

  詠鳥 一八一九~一八四〇歌

  一八四一~一八四二歌 「右二首問答」

  詠霞 一八四三~一八四五歌

  一八四六~一八七八歌までは、「詠△」で、柳、花、月、雨、河、煙となっている。

  一八八〇~一八八九歌は、詳細は略するが、「野遊」「嘆旧」「懽逢」「旋頭歌」「譬喩歌」

【春相聞】

  一八九〇~一八九六歌 「右柿本朝臣人麻呂歌集出」

  一八九七~一九二三歌までは、「寄△」で、鳥、花、霜、霞、雨、草、待つ、雲となっている。

  一九二四~一九三六歌は、詳細は略するが、「贈蘰」「悲別」「問答」

【夏雑歌】

  詠鳥 一九三七~一九三八歌 「右古歌歌集中出」

     一九三九~一九六三歌

  一九六四~一九七五歌 「詠△」で、蝉、榛、花榛

  一九七六~一九七八歌は、「問答」「譬喩歌」

【夏相聞】

  一九七九~一九九五歌 「寄△」 鳥、蝉、草、花、露、日

【秋雑歌】

  七夕 一九九六~二〇三三歌 此歌一首庚辰年作之 「右柿本朝臣人麻呂歌集出」  二〇三四~二〇九三歌

  詠花 二〇九四~二〇九五歌 「右二首柿本朝臣人麻呂歌集出」

     二〇九六~二一二七歌

  二一二八~二一七七歌 「詠△」 雁、鹿鳴、蝉、蟋、蝦、鳥、露、山

  詠黄葉 二一七八~二一七九歌 「右二首柿本朝臣人麻呂歌集出」

      二一八〇~二二一八歌

  二二一九~二二三三歌 「詠△」 水田、河、月、風、芳

  詠雨 二二三四歌 「右一首柿本朝臣人麻呂歌集出」

     二二三五~二二三七歌

  詠霜

【秋相聞】

  二二三九~二二四三歌 「右柿本朝臣人麻呂歌集出」

  二二四四~二三〇四歌 「寄△」 水田、露、風、雨、蟋、蝦、雁、鹿、鶴、草、花、山、黄葉、月、夜、衣

  二三〇五~二三〇八歌 「問答」「譬喩歌」「旋頭歌」

【冬雑歌】

  二三一二~二三一五歌 「右柿本朝臣人麻呂歌集出」

  二三一六~二三三二歌 「詠△」 雪、花、露、黄葉、月

【冬相聞】

  二三三三~二三三四歌 「右柿本朝臣人麻呂歌集出」

  二三三五~二三五〇歌 「寄△」 梅雨、霜、雪、花、夜

 

 巻十の構成について、神野志隆光氏は、「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」の中で、「それぞれの季節の雑歌・相聞の部の先頭に、人麻呂歌集歌を、主題的標題を示すことなく配置します。(少し例外的な要素はあるが、中略)いずれも、その部のはじめに置かれます。こうして見渡すと、人麻呂歌集歌の特別な位置は明らかです。あとにつづく歌をみちびくものとしてあるということができます。いいかえれば、人麻呂歌集歌を拡大して季節の歌があるというかたちです。」そして、「季節の多様な展開があることを、巻十のこの構成は示しています。つまり、季節の歌の世界を開示するものとして、人麻呂歌集歌は、『万葉集』において意味をあたえられているのです。」と述べておられる。さらに、「人麻呂歌集歌を拡大して歌の世界のひろがりをあらわしだすことは、巻十一、十二も同じです。」と書かれている。

 

 巻十は、柿本人麻呂歌集、古歌集などから構成されている。「夏雑歌」の題詞「詠鳥」も時鳥二首、呼子鳥一首、続いてまた時鳥となっており別の歌集か資料から持ってきたとの指摘もある。これらのことから、柿本人麻呂歌集の万葉集における位置づけや、構成から万葉集を解析していくことなど多くを学べるのである。一歩でも万葉集に近づきたいものである。 

 

 万葉集の構成からもいろいろと学ぶことができる。万葉集万葉集たる所以であるとともにこのような世界まで首を突っ込んでいかないと万葉集を理解することができない、ますます時間軸ばかりでなく遠い存在である認識のみが強くなってくるがそれだけに挑戦しがいのあるテーマとなる。一歩でも二歩でも近づきたい。まず、万葉歌碑を巡ることから始めているが、「継続」させ、そこから「力」を得たいものである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「weblio古語辞書 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その125改)―奈良県橿原市南浦町万葉の森―万葉集 巻六 九二五

●歌は、「ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」である。

 

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奈良県橿原市南浦町万葉の森万葉歌碑(山部赤人

●歌碑は、奈良県橿原市南浦町万葉の森にある。万葉の森第5弾である。

 

●歌をみていこう。 

 

◆烏玉之 夜乃深去者 久木生留 清河原尓 知鳥數鳴

       (山部赤人 巻六 九二五)

 

≪書き下し≫ぬばたまの夜(よ)の更けゆけば久木(ひさぎ)生(お)ふる清き川原(かはら)に千鳥(ちどり)しば鳴く

 

(訳)ぬばたまの夜が更けていくにつれて、久木の生い茂る清らかなこの川原で、千鳥がちち、ちちと鳴き立てている。(同上)

(注)ひさぎ【楸・久木】名詞:木の名。あかめがしわ。一説に、きささげ。(学研)

 

 

 この歌は、題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌反歌二首であり、後群は天皇を讃える長歌反歌一首という構成をなしている。

 

前群の歌の長歌ともう一首の反歌からみていこう。

 

◆八隅知之 和期大王乃 高知為 芳野宮者 立名附 青垣隠 河次乃 清河内曽 春部者 花咲乎遠里 秋去者 霧立渡 其山之 弥益ゝ尓 此河之 絶事無 百石木能 大宮人者 常将通

        (山部赤人 巻六 九二三)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ)の 高知(たかし)らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠(おをかきごも)り 川なみの 清き河内(かふち)ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川は 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ

 

(訳)あまねく天下を支配されるわれらの大君が高々とお造りになった吉野の宮、この宮は、幾重にも重なる青い垣のような山々に囲まれ、川の流れの清らかな河内である。春の頃には山に花が枝もたわわに咲き乱れ、秋ともなれば川面一面に霧が立ちわたる。その山の幾重にも重なるように幾度(いくたび)も幾度も、この川の流れの絶えぬように絶えることなく、大君に仕える大宮人はいつの世にも変わることなくここに通うことであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)たかしらす【高知らす】分類連語:立派に造り営みなさる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典) ⇒なりたち:動詞「たかしる」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」立派に造り営みなさる。(コトバンク 学研全訳古語辞典)

(注)たたなづく【畳なづく】分類枕詞:①幾重にも重なっている意で、「青垣」「青垣山」にかかる。②「柔肌(にきはだ)」にかかる。かかる理由は未詳。 ⇒参考:(1)①②ともに枕詞(まくらことば)ではなく、普通の動詞とみる説もある。(2)②の歌は、「柔肌」にかかる『万葉集』唯一の例。(学研)ここでは①の意

(注)こもる【籠る・隠る】自動詞:①入る。囲まれている。包まれている。②閉じこもる。引きこもる。③隠れる。ひそむ。④寺社に泊りこむ。参籠(さんろう)する。(学研)ここでは①の意

(注)かはなみ【川並み・川次】名詞:川の流れのようす。川筋。(学研)

(注)ををり【撓り】名詞:花がたくさん咲くなどして、枝がたわみ曲がること。(学研)

(注)いやしくしくに【弥頻く頻くに】副詞:ますますひんぱんに。いよいよしきりに。(学研)

 

◆三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

        (山部赤人 巻六 九二四)

 

≪書き下し≫み吉野の象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒(さわ)く鳥の声かも

 

(訳)み吉野の象山の谷あいの梢(こずえ)では、ああ、こんなにもたくさんの鳥が鳴き騒いでいる。(同上)

(注)象山 分類地名:歌枕(うたまくら)。今の奈良県吉野郡吉野町にある山。吉野離宮があった宮滝の対岸にそびえる。(学研)

(注)ここだ【幾許】:こんなにもたくさん。こうも甚だしく。(數・量の多い様子)                 (学研)

 

 万葉集の歌を鑑賞するというが、犬養 孝氏が「万葉の人びと」(新潮文庫)に次のように書かれているが、感銘深いものがある。

「赤人は、長歌と短歌で一つの有機的な美のポジションを考えているわけです。だから長歌では、春、秋、山、川と観念的に吉野の自然景観のすばらしさを言っているのです。だから、反歌では現実的な、あまりに現実的な、写実的な姿勢で描くわけです。それで、第一反歌は、(中略)山のことを詠んでいます。というのは長歌は山と川なんですから。そして第二反歌は、川です。(中略)これで、長歌反歌で釣り合いをとっている。観念的なものと、写実的、現実的なもの。そして。長歌が山と川をいっしょにしているから、第一反歌では山、第二反歌では川を詠んでバランスをたもっているわけです。こういうふうに、きわめて美の創作意識の旺盛なのが、山部赤人です。」

 

 

次に後群の長歌反歌をみていこう。

 

◆安見知之 和期大王波 見吉野乃 飽津之小野笶 野上者 跡見居置而 御山者 射目立渡 朝獦尓 十六履起之 夕狩尓 十里踏立 馬並而 御狩曽立為 春之茂野尓

         (山部赤人 巻六 九二六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)ご大君(おほきみ)は み吉野の 秋津(あきづ)の小野(をの)の 野の上(へ)には 跡見(とみ)据(す)ゑ置きて み山には 射目(いめ)立て渡し 朝狩(あさかり)に 鹿猪(しし)踏(ふ)み起(おこ)し 夕狩(ゆふがり)に 鳥踏み立て 馬並(な)めて 御狩(みかり)ぞ立たす 春の茂野(しげの)に

 

(訳)安らかに天下を支配されるわれらの大君は、み吉野の秋津(あきづ)の小野の、野あたりには跡見(とみ)をいっぱい配置し、み山には射目(いめ)を一面に設け、朝(あした)の狩りには鹿や猪を追い立て、夕(ゆうべ)の狩には鳥を踏み立たせ、馬を並べて狩場にお出ましになる。春の草深い野に。(同上)

(注)とみ【跡見】:狩猟のとき、鳥や獣の通った跡を見つけて、その行方を推しはかること。また、その役の人。(学研)

(注)いめ【射目】:狩りをするとき、弓を射る人が隠れるところ。 ※上代語。(学研)

(注)ふみおこす【踏み起こす】[動]:①地を踏んで鳥獣などを驚かす。狩りたてる。②再興する。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは①の意

 

反歌一首

◆足引之 山毛野毛 御獦人 得物矢手挟 散動而有所見

      (山部赤人 巻六 九二七)

 

≪書き下し≫あしひきの山にも野にも御狩人(みかりひと)さつ(さつ)矢手挾(たばさ)み散(さ)動(わ)きてあり見ゆ

 

〈訳〉あしひきの山にも野にも、大君の御狩に仕える人たちが、幸矢(さつや)を手挟み持って駆けまわっているのが見える。(同上)

(注)御狩人:天皇の御狩に従う人々。(伊藤脚注)

(注)さつや【猟矢】:獲物を得るための矢。

(注)騒きてあり見ゆ:ひしめきあっている。「見ゆ」は、ここは動詞の終止形を承け、視覚的な断定を婉曲に言い表す。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右不審先後但以便故載於此次」<右は、先後を審(つばひ)らかにせず。ただし、便(たより)をもちての故(ゆえ)に、この次(つぎ)に載(の)す。>

 

山部赤人は、万葉集に四十九首収録されている。犬養 孝氏は「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、山部赤人は、「今日の言葉でいえば最も創作意識の旺盛な人といえるでしょう。美の創作意識といったらいいかも知れません。しかも、自然にぶつかった時に情熱を感じる。」と書いておられる。こういった視点から歌をみていくことも教えられた。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio古語辞書」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク 大辞林第3版」

★「コトバンク 学研全訳古語辞典」

 

※20210429朝食関連記事削除、一部改訂

 

万葉歌碑を訪ねて―その124の5―梅花宴の参加者32名の歌はもちろん当時の役職など記録として残っており、それが万葉集に収録されていることに改めて驚かされる。これも万葉集の魅力の一つであろう。(万葉歌碑を訪ねて―124の5―)

太宰府天満宮「曲水の庭」(イメージ写真)


●梅花宴のメンバーの席順を想像してみると、上席グループと下席グループに別れ、大伴旅人が上席グループの上座、総幹事の小野淡理が下席グループの下座に座っていたと考えられる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫を参考に作成)

八一五歌は「梅を招きつつ楽しき終へめ」と冒頭、宴の永続と盛り上げを詠い、八二九歌は、「梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべく」と梅に次は桜もで宴の永続を上席グループの締めと提起を行い、八三〇歌で、「梅の花絶ゆることなく」と前歌を受けて梅の花を讃え上げ下席グループとしての冒頭を飾るのである。八四六歌で「いやなつかしき梅の花」と全体を打ち上げる形で歌い上げてお開きにもっていっている。メンバーそれぞれが、前の人の歌を承け、いわばリレー式に次々と詠いあげて宴を盛り上げている。筑紫歌壇と呼ばれる所以であろう。

驚くべきは、こういった記録が残っており、それが、万葉集に収録されていることである。

このような所にも万葉集の計り知れない魅力がある。 

 

 

万葉歌碑を訪ねて―その124の5―

 今回も梅花宴の歌をみていこう。(八三八~八四六歌)これで、すべての歌をみたことになる。

 

◆烏梅能波奈  知利麻我比多流  乎加肥尓波  宇具比須奈久母  波流加多麻氣弖  [大隅目榎氏鉢麻呂]

                    (榎氏鉢麻呂 巻八 八三八)

 

 

≪書き下し≫梅の花散り乱(まが)ひたる岡(をか)びにはうぐひす鳴くも春かたまけて  [大隅目(おほすみのさくわん)榎氏鉢麻呂(かじのはちまろ)]

 

(訳)春の花の入り乱れて散る岡辺には鴬がしきりに鳴いている。今はすっかり春の季節を迎えて。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)かたまけて<かたまく【片設く】:(その時節を)待ち受ける。(その時節に)なる。▽時を表す語とともに用いる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より)

(注)目(さかん):四等官(しとうかん)のこと。

 参考➡四等官:『大宝令』における4階級の官司。すなわち,長官 (かみ) ,次官 (すけ) ,判官 (じょう) ,主典 (さかん) をいう。唐の制度に範をとり,その用字は官司によって異なる。

 主典(さかん)は、神祇官は「史」、省は「録」、寮は「属」、坊と職、「属」、衛府、「志」、国司は、「目」などと記すが、すべて「さかん」と読む。(コトバンク デジタル大辞泉より引用)

 

■榎氏鉢麻呂:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆波流能努尓  紀理多知和多利  布流由岐得  比得能美流麻提  烏梅能波奈知流  [筑前目田氏真上]

                    (田氏真上 巻八 八三九)

 

≪書き下し≫春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る  [筑前目(つくしのみちのくちのさかん)田氏真上(でんじのまかみ)]

 

(訳)“あれは春の野に霧が立ち込めて真っ白に降る雪なのか“と、誰もが見紛(みまが)うほどに、この園に梅の花が散っている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

■田氏真上:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆波流楊那宜 可豆良尓乎利志 烏梅能波奈 多礼可有可倍志 佐加豆岐能倍尓  [壹岐目村氏彼方]

                  (村氏彼方 巻八 八四〇)

 

≪書き下し≫春柳(はるやなぎ)かづらに折りし梅の花誰(た)れか浮かべし酒坏(さかづき)の上(へ)に  [壹岐目(いきのさくわん)村氏彼方(そんじのをちかた)]

 

(訳)春柳、この柳のかづらに挿そうと、みんながせっかく手折った梅の花、その花を誰が浮かべたのか。めぐる盃の上に。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

■村氏彼方:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆于遇比須能  於登企久奈倍尓  烏梅能波奈  和企弊能曽能尓  佐伎弖知流美由  [對馬目高氏老]

                   (高氏老 巻八 八四一)

 

≪書き下し≫うぐひすの音聞くなへに梅の花我家(わぎへ)の園に咲きて散る見ゆ  [對馬目(つしまのさくわん)高氏老(かうじのおゆ)]

 

(訳)鴬の鳴く声をちょうど耳にしたその折しも、梅の花がこの我らに園に咲いては散っている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)なへ:接続助詞[事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。

 

■高氏老:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆和我夜度能  烏梅能之豆延尓  阿蘇▼都々  宇具比須奈久毛  知良麻久乎之美[薩摩目高氏海人]             ※▼は「田+比」=び

                    (高氏海人 巻八 八四二)

 

≪書き下し≫我がやどの梅の下枝(しづえ)に遊びつつうぐひす鳴くも散らまく惜しみ  [薩摩目]さつまのさくわん)高氏海人(かうじのあま)]

 

(訳)この我らが庭の梅の下枝を飛び交いながら、鴬が鳴き立てている。花の散るのをいとおしんで。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

■高氏海人:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆宇梅能波奈  乎理加射之都々  毛呂比登能  阿蘇夫遠美礼婆  弥夜古之叙毛布[土師氏御道]

                     (土師氏御道 巻八 八四三)

 

≪書き下し≫梅の花折りかざしつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思ふ  [土師(はにし)氏御道(うぢのみみち)]

 

(訳)梅の花を手折り髪にかざしながら、人びとが誰もかれも楽しく遊ぶのを見ると、そぞろに奈良の都が偲ばれる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

■土師氏御道:土師氏宿祢水道(はにしのすくねみみち)。伝未詳。

万葉集には、四首(巻四 五五七-五五八、巻十六 三八四五、巻八 八四三)

収録されている。

 

 

◆伊母我陛邇  由岐可母不流登  弥流麻提尓  許ゝ陀母麻我不 烏梅能波奈可毛[小野氏國堅]

                 (小野氏國堅 巻八 八四四)

 

≪書き下し≫妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも  [小野氏(をのうじの)國堅(くにかた)]

 

(訳)いとしい子の家に行(ゆ)きというではないが、雪が降るのかと見紛(みまが)うばかりに、梅の花がしきりに散り乱れている。美しくも好もしい花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ここだ【幾許】:副詞 

    ①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。

    ②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。

            (weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より)

 

 

◆宇具比須能  麻知迦弖尓勢斯  宇米我波奈  知良須阿利許曽  意母布故我多米[筑前拯門氏石足]

                   (門氏石足 巻八 八四五)

 

≪書き下し≫うぐひすの待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため  [筑前拯(つくしのみちのくちのじよう)門氏石足(もんじのいそたり)]

 

(訳)鴬が待ちかねていたせっかくの梅の花よ、散らずにいておくれ。そなたを思う子、鴬のために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)拯(じよう):律令制で、四等官(しとうかん)の第三位。庁内の取り締まり、

主典(さかん)の作る文案の審査、宿直の割り当てなどをつかさどった。

「丞」「掾」など官司により用字が異なる(コトバンク デジタル大辞泉より)

 

■門氏石足:門部連石足(かどべのむらじいそたり)。伝未詳。万葉集には二首(巻五 五六八、巻八 八四五)収録されている。

 

 

◆可須美多都 那我岐波流卑乎 可謝勢例杼 伊野那都可子岐 烏梅能那奈可毛[

小野氏淡理]

                (小野氏淡理 巻八 八四六)

 

≪書き下し≫霞立つ長き春日(はるひ)をかざせれどいやなつかしき梅の花かも  [

小野氏淡理(をのうじのたもり)]

 

(訳)霞の立つ長い春、この一日中、髪に挿しているけれど、ますます離しがたい気持ちだ、この梅の花は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

■小野氏淡理:小野田守朝臣(をののたもりのあそみ)と同じか。万葉集にはこの一首のみ収録されている。巻二〇 四五一四の題詞に「渤海大使小野田守朝臣」とある。

 

 

●梅花宴のメンバーを整理してみよう。歌の順に名前を列挙してみる。これらを参考に席順を想像してみると、上席グループと下席グループに別れ、大伴旅人が上座、総幹事の小野淡理が下座に座っていたと考えられる。下記のような席の配置であったかもしれない。歌に興じる面々の声が飛び交ってきそに思える。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫を参考に作成)

 

◎上席グル―プ

            八二二歌 大伴旅人(主人)

 八一五歌 大弐紀卿               八二三歌 大監伴氏百代   

 八一六歌 少弐小野大夫             八二四歌 少監阿氏奥島

 八一七歌 少弐粟多大夫             八二五歌 少監土氏百村

 八一八歌 筑前守山上大夫            八二六歌 大典史氏大原

 八一九歌 豊後守大伴大夫            八二七歌 少典山氏若麻呂

 八二〇歌 筑後守葛井大夫            八二八歌 大判事丹氏麻呂

 八二一歌 笠沙弥                八二九歌 薬師張氏福子

 

◎下席グループ

 

 八三〇歌 筑前介佐氏子首            八三八歌 大隅目榎氏鉢麻呂

 八三一歌 壱岐守板氏安麻呂           八三九歌 筑前目田氏真上

 八三二歌 神司荒氏稲布             八四〇歌 壱岐目村氏彼方

 八三三歌 大令史野氏宿奈麻呂          八四一歌 対馬目高氏老

 八三四歌 少令史田氏肥人            八四二歌 薩摩目高氏海人

 八三五歌 薬師高氏義道             八四三歌 土師氏御道

 八三六歌 陰陽師磯氏法麻呂           八四四歌 小野氏国堅

 八三七歌 算師志氏大道             八四五歌 筑前拯門氏石足

              八四六歌 小野氏淡理(総幹事)

 

 

 

 (参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

 

※20230225朝食関連記事削除、一部改訂

万葉歌碑を訪ねて―その124の4―梅花宴はその名の通り「梅の花」を主題に歌に興じているが、なかには、いやいや梅だけでなく、梅が散っても次は桜が咲くからと次を見据えた楽しい歌もある。(万葉歌碑を訪ねて―その124の4―4)

●梅花宴はその名の通り「梅の花」を主題に歌に興じている。八二九歌(張氏福子)は、いやいや梅だけでなく、梅の後には桜が咲くから、その時には再び楽しい宴を持ちましょうと詠っている。万葉の桜はヤマザクラの類を指すとするのが一般的である。万葉集に詠まれる回数は約四〇回で、梅の約三分の一に過ぎないが、ただ、梅がほとんど庭木として詠まれているのに対し、桜は各地の山野で歌われていて、当時広く一般に親しまれていたといえよう。

太宰府天満宮「曲水の園」(イメージ写真)

 

万葉歌碑を訪ねて―その124の4―

 梅花宴の続きをみていこう。(八二九~八三七歌)

 

 

◆烏梅能波奈  佐企弖知理奈波  佐久良<婆那>  都伎弖佐久倍久  奈利尓弖阿良受也  [藥師張氏福子]

                     (張氏福子 巻八 八二九)

 

≪書き下し≫梅の花咲きて散りなば桜花(さくらばな)継(つ)ぎて咲くべくなりにてあらずや  [藥師(くすりし)張氏福子(ちやうじのふくじ)]

 

(訳)梅の花が咲いて散ってしまったならば、桜の花が引き続き咲くようになっているではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)薬師:大宰府医師

 

■張氏福子:?-? 奈良時代の医師。

大宰(だざいの)薬師。天平(てんぴょう)2年(730)大宰帥(そち)大伴旅人(おおともの-たびと)宅での梅花の宴に列席してよんだ歌が「万葉集」巻5におさめられている。渡来系氏族で,「藤氏家伝」にみえる方士張福子と同一人とみられる(コトバンク デジタル版日本人名大辞典+Plusより)

  万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆萬世尓  得之波岐布得母  烏梅能波奈  多由流己等奈久  佐吉和多留倍子  [筑前介佐氏子首]

                (佐氏子首 巻八 八三〇)

 

≪書き下し≫万代(よろづよ)に年は来経(きふ)とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし  [筑前介(つくしのみちのくちのすけ)佐氏子首(さじのこおびと)]

 

(訳)万代までののちまでも春の往来(ゆきき)があろうとも、この園の梅の花は絶えることなく咲き続けるであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

■佐氏子首:佐伯直子首か。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆波流奈例婆  宇倍母佐枳多流  烏梅能波奈  岐美乎於母布得  用伊母祢奈久尓  [壹岐守板氏安麻呂]

                (板氏安麻呂 巻八 八三一)

 

≪書き下し≫春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐(よい)も寝(ね)なくに  [壹岐守(いきのかみ)板氏安麻呂(はんじのやすまろ)]

 

(訳)春なればこそ、なるほどこんなにも美しく咲いている梅の花よ、あなたを賞(め)で思うあまりに夜も寝られない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)うべも 【宜も】:分類連語 まことにもっともなことに。ほんとうに。なるほど。道理で。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典より」

 

■板氏安麻呂:伝未詳。万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆烏梅能波奈  乎利弖加射世留  母呂比得波  家布能阿比太波  多努斯久阿流倍斯  [神司荒氏稲布]

                  (荒氏稲布 巻八 八三二)

 

≪書き下し≫梅の花手折りてかざせる諸人(もろびと)は今日(けふ)の間(あひだ)は楽しくあるべし  [神司(かみづかさ)荒氏稲布(くわうじのいなしき)]

 

(訳)梅の花を手折って挿頭(かざし)にしている人びとは、誰もかれも、今日一日は楽しみが尽きないはずだ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)神司:神に仕える人。神官(しんかん)。かむづかさ、かみづかさ、とも。(weblio辞書 三省堂大辞林より)

 

■荒氏稲布:??? 万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆得志能波尓 波流能伎多良婆 可久斯己曽 烏梅乎加射之弖 多努志久能麻米 [大令史野氏宿奈麻呂]

                 (野氏宿奈麻呂 巻八 八三三)

 

≪書き下し≫年のはに春の来(きた)らばかしこくそ梅をかざして楽しく飲まめ  [大令史(だいりゃくし)野氏宿奈麻呂(やじのすくなまろ)]

 

(訳)年々春が巡って来たならば、このように梅をかざして思いっきり楽しく飲もうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)としのは 【年の端】分類連語 毎年。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)大令史:大宰府判文抄写官。判事の書記。

 

■野氏宿奈麻呂:??? 万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆烏梅能波奈 伊麻佐加利奈利 毛ゝ等利能 己恵能古保志枳 波流岐多流良斯[小令史田氏肥人]

                    (田氏肥人 巻八 八三四) 

 

≪書き下し≫梅の花今盛りなり百鳥の声の恋(こほ)しき春来(きた)るらし  [小令史(せうりゃうし)田氏肥人(でんじのこまひと)]

 

(訳)梅の花が今がまっ盛りだ。鳥という鳥のさえずりに心おどる春が、今まさにやってきたらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)百鳥(ももとり):多くの鳥。種々の鳥。(コトバンク デジタル大辞泉

 

■田氏肥人:??? 万葉集にはこの一首のみ収録されている。

 

 

◆波流佐良婆  阿波武等母比之  烏梅能波奈  家布能阿素▼尓  阿比美都流可母  [藥師高氏義通]                ※▼は「田+比」=び

                     (高氏義通 巻八 八三五)

 

≪書き下し≫春さらば逢はむと思(も)ひし梅の花今日(けふ)の遊びに相(あひ)見(み)つるかも  [藥師(くすりし)高氏義通(かうじのよしみち)]

 

(訳)春になったらぜひ逢いたいと思っていた梅の花だが、この花に今日のこの宴で、皆してめぐり逢うことができた。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)薬師:大宰府医師

 

■高氏義通:??? 万葉集にはこの一首のみ収録されている

 

 

◆烏梅能波奈  多乎利加射志弖  阿蘇倍等母  阿岐太良奴比波  家布尓志阿利家利  [陰陽師礒氏法麻呂]

                    (礒氏法麻呂 巻八 八三六)

 

≪書き下し≫梅の花手折(たを)りかざして遊べども飽(あ)き足(た)らぬ日は今日(けふ)にしありけり  [陰陽師(おんやうし)礒氏法麻呂(きじののりまろ)]

 

(訳)梅の花をてんでに手折り髪にかざしていくら遊んでも、なお満ち足りることがない日とは、今日のこの日であったのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)陰陽師大宰府卜占師。

 

■礒氏法麻呂:??? 万葉集にはこの一首のみ収録されている

 

 

◆波流能努尓  奈久夜汙隅比須  奈都氣牟得  和何弊能曽能尓  汙米何波奈佐久  [笇師志氏大道]

                   (志氏大道 巻八 八三七)

 

≪書き下し≫春の野に鳴くやうぐいすなつけむと我が家(へ)の園に梅が花咲く  [算師(さんし)志氏大道(しじのおほみち)]

 

(訳)春の野で鳴く鴬、その鴬を手なずけようとして、この我らの園に梅の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)算師:物数計算官。笇(さん)=算:数を数える。

 

■志氏大道:志紀大道と同じか。万葉集にはこの一首のみ収録されている

 

 (参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク デジタル版日本人名大辞典+Plus」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林