万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その190改)―京都府綴喜郡井手町 六角井戸―万葉集 巻十九 四二七〇

●歌は、「葎延ふ賤しきやども大君の座さむと知らば玉敷かましを」である。

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京都府綴喜郡井手町 六角井戸 万葉歌碑(橘 諸兄)

 

●歌碑は、京都府綴喜郡井手町 六角井戸にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎

                                 (橘諸兄 巻十九 四二七〇)

 

≪書き下し≫葎(むぐら)延(は)ふ賤(いや)しきやども大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉敷かまし

 

(訳)葎の生い茂るむさくるしい我が家、こんな所にも、大君がお出まし下さると存じましたなら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「十一月八日在於左大臣朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。

 

 左注は、「右一首左大臣橘卿」<右の一首は左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)>である。

 

 

 六角井戸については、京都府綴喜郡井手町HP「観光・名所旧跡」に次のように記されている。

聖武天皇の玉井頓宮(たまいのとんぐう)にあったものと言い伝えられ「公(橘諸兄)の井戸」として語りつがれてきた六角井戸は、石垣地区に現存しています。 この井戸は、据え付けられた石版が6枚組み合わせたもので、六角の形となっていることから「六角井戸」と呼ばれています。

交通:JR玉水駅より約1.0キロメートル 徒歩約15分」

(注)頓宮(とんぐう):にわかに造った仮の宮殿。仮宮(かりみや)。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

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六角井戸

 

 橘諸兄(たちばなのもろえ)については、「コトバンク 小学館デジタル大辞泉」によると、

「[684~757]奈良前期の官人・歌人。母は県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)。光明皇后の異父兄。初め葛城(かつらぎ)王。のち、臣籍に降り、橘宿禰(すくね)諸兄と改めた。藤原不比等の四子が病没したのち右大臣・左大臣に昇り、政権を握ったが、藤原仲麻呂の台頭後は振るわなかった。」とある。

(注)藤原不比等の四子:天平九年(737年)四月、参議藤原房前(ふささき)が、同七月、参議藤原麻呂(まろ)が、続いて右大臣藤原武智麻呂(むちまろ)が、同八月、参議藤原宇合(うまかい)が相次いで天然痘により亡くなるのである。

 

 

他の三首をみていこう。

 

◆余曽能未尓 見者有之乎 今日見者 年尓不忘 所念可母

              (聖武天皇 巻十九 四二六九)

 

≪書き下し≫よそのみに見ればありしを今日(けふ)見ては年に忘れず思ほえむかも

 

(訳)外ながら見るだけであった以前ならともかく、今日こうして見たからには、もう毎年忘れずに思い出されることであろうな。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首 太上天皇御製」<右の一首は太上天皇(おほきみのすめらみこと)の御歌>

(注)太上天皇聖武天皇

 

 

◆松影乃 清濱邊尓 玉敷者 君伎麻佐牟可 清濱邊尓

               (藤原八束 巻十九 四二七一)

 

≪書き下し≫松蔭(まつかげ)の清き浜辺(はまへ)に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に

 

(訳)このお庭の松の木陰の清らかな浜辺に玉を敷いてお待ちしたなら、大君はまたお出まし下さるでしょうか。この清らかな浜辺に。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)ます 【坐す・座す】いらっしゃる。おいでである。おありである。▽「あり」の尊敬語。

 

左注は、「右一首右大辨藤原八束朝臣」<右の一首は右大弁(うだいべん)藤原八束朝臣(ふぢはらのやつかのあそみ)>

 

◆天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里 

               (大伴家持 巻十九 四二七二)

 

≪書き下し≫天地(あめつち)に足(た)らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里(をさと)

 

(訳)天地の間にあまねく照り輝いて、我が大君、われらの君がお治めになっているからか、ここは、何とも楽しくてならぬお里でございます。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首少納言大伴宿祢家持  未奏」<右の一首は少納言(せうなごん)大伴宿祢家持  未奏>である。

(注)未奏:奏上せずに終わった歌。前三首に感興を催して後に作り成したもの。

 

 聖武天皇が、臣下の橘諸兄宅で宴会を開いたこと自体が驚きである。また、大伴家持の歌がその宴会では、奏上されなかった、あるいは後に作成したと思われる歌を収録しているところにも、万葉集万葉集たる所以があるように思われる。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「観光・名所旧跡」 (京都府綴喜郡井手町HP)

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

 

※ 20210419朝食関連記事削除、一部改訂
 

万葉歌碑を訪ねて(その189)―奈良県生駒郡三郷町大和路線沿い―万葉集 巻八 一四一九

●歌は、「神奈備の岩瀬の杜の喚子鳥いたくな鳴きそ 吾が恋まさる」である。

 

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JR大和路線沿い(三郷駅近く)万葉歌碑(鏡王女)

●歌碑は、奈良県生駒郡三郷町 JR大和路線沿いにある。

 

 三郷駅西交差点の高橋虫麻呂の歌碑の次は鏡王女の歌碑である。交差点から大和川の方へ50mほど歩いたところに、「磐瀬の杜」の碑があった。広場のようになっておりその奥に歌碑があった。

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「磐瀬の杜」の碑

 「磐瀬(いわせ)の森については、奈良県北西部、生駒(いこま)郡斑鳩(いかるが)町、竜田(たつた)川東岸の竜田大橋南付近の古称といわれる。しかし異説も多く、同郡三郷(さんごう)町立野の大和(やまと)川北岸の森にも「磐瀬の杜(もり)」の石碑がある。」(コトバンク 日本大百科全書<ニッポニカ>の解説)

 

●歌をみていこう。

 

神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益

                               (鏡王女 巻八 一四一九)

 

≪書き下し≫神なびの石瀬(いはせ)の社(もり)の呼子鳥(よぶこどり)いたくな鳴きそ 我(あ)が恋まさる

 

(訳)神なびの石瀬(いはせ)の森の呼子鳥よ、そんなにひどくは鳴かないでおくれ。私のせつない思いがつのるばかりだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)よぶこどり【呼子鳥・喚子鳥】名詞:鳥の名。人を呼ぶような声で鳴く鳥。かっこうの別名か。

 

 鏡王女(かがみのおほきみ)については、「万葉歌人のとおった道」(三郷町HP)に、次のように書かれている。

「天武紀では鏡姫王(かがみのひめわう)、興福寺縁起標式では鏡女王(かがみのおほきみ)、万葉集では鏡王女(かがみのおほきみ)と記されている。王女は、きわめて高い身分で、鏡王を父とし、鏡王女、額田王は姉妹で額田王の姉とも云われているが疑問。ともに天智妃であったが、後に鏡王女は、藤原鎌足の嫡室(ちゃくしつ)となった。最近になって、その墓が舒明天皇の域内にあることから、舒明天皇の肉親なのか或いは宣化天皇の後裔、威奈の鏡公の子か、論議をよんでいる。万葉集に相聞歌四首を残し、万葉集最初の贈答歌人の位置を与えられ、相聞贈答の一つの典型を作り出したといえるようです。興福寺は、鎌足の病気の時、鏡王女の発願で開基された。」

 

 鏡王女の歌は五首(九二、九三、四八九、一四一九、一六〇七歌)収録されている。ただし、四八九歌と一六〇七歌は重複収録となっている。

 

 歌をみてみよう。

 

① 九二歌は、中大兄皇子天智天皇)との間に恋の歌のやりとりがあり、中大兄皇子からの贈歌に対して和(こた)えた歌である。

 

◆秋山之 樹下隠 逝水乃 吾許曽益目 御念従者

                (鏡王女 巻二 九二)

 

≪書き下し≫秋山の木の下隠り行く水の我れこそ増さめ思ほすよりは

 

(訳)秋山の木々の下を隠れ流れる川の水かさが増してゆくように、私の思いの方がまさっているでしょう。あなたが私を思って下さるよりは。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

② 九三歌は、藤原鎌足とのやりとりである。

 題詞は、「内大臣藤原卿娉鏡王女時鏡王女贈内大臣歌一首」<内大臣(うちのおほまへつきみ)藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)、鏡王女を娉(つまど)ふ時に、鏡王女が内大臣に贈(おく)る歌一首>である。

これに対して、藤原鎌足は、歌を「鏡王女に報(こた)へ」贈っているのである。

 

◆玉匣 覆乎安美 開而行者 君名者雖有 吾名之惜裳

                (鏡王女 巻二 九三)

 

≪書き下し≫玉櫛笥(たまくしげ)覆(おほ)ひを易(やす)み明けていなば名はあれど我(わ)が名し惜しも

 

(訳)玉櫛笥の覆いではないが、二人の仲を覆い隠すなんてわけないと、夜が明けきってから堂々とお帰りになっては、あなたの浮名が立つのはともかく、私の名が立つのが口惜しゅうございます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

③ 次いで、額田王が「近江天皇を思(しの)ひて作る歌」に呼応する形で詠った歌である。

 

◆風乎太尓 戀流波乏之 風小谷 将来登時待者 何香将嘆

                (鏡王女 巻四 四八九)

 

≪書き下し≫風をだに恋ふるは羨(とも)し風をだに来(こ)むとし待たば何か嘆かむ

 

(訳)ああ秋の風、その風の音にさえ恋心がゆさぶられるとは羨(うらや)ましいこと。風にさえ胸ときめかして、もしやおいでかと待つことができるなら、何を嘆くことがありましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

 

 なお、この歌は、額田王の歌(一六〇六歌)とともに一六〇七歌として巻八部立「秋相聞」に収録されている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉歌碑」 (三郷町HP)

★「万葉歌人のとおった道」(三郷町HP)

★「コトバンク 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、レタスと焼き豚である。三角形に切り盛り付けた。デザートは、いちぢくをカットして中央に配し、キウイ(ゴールド)、バナナ、アイボリーブドウとフレイムシードレスで加飾した。

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9月7日のザ・モーニングセット

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9月7日のフルーツフルデザート

 

万葉歌碑を訪ねて(その188改)―奈良県生駒郡三郷町 JR三郷駅近く―万葉集 巻九 一七四九

●歌は、「吾が行は七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし」である。

 

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JR三郷駅近くの万葉歌碑(高橋虫麻呂

 

●歌碑は、奈良県生駒郡三郷町 JR三郷駅近くにある。

 

 歌碑めぐりの龍田大社の次はJR三郷駅周辺である。駅近くのコインパーキングに車を止める。

 駅前から大和路線に沿った県道195号線を大阪方面に歩き出す。しばらく行くと「三郷駅西」交差点にでる。そこに大きな石碑がある。これが高橋虫麻呂の歌碑であった。

 

●歌をみていこう。

◆吾去者 七日者不過 龍田彦 勤此花乎 風尓莫落

           (高橋虫麻呂 巻九 一七四八)

 

≪書き下し≫我(わ)が行きは七日(なぬか)は過ぎし竜田彦(たつたひこ)ゆめこの花を風にな散らし

 

(訳)われらの旅は、いくらかかっても七日を過ぎることはあるまい。竜田彦様、どうか、けっしてこの花を風に散らさないでくださいまし。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)たつたひこ【竜田彦/竜田比古】延喜式にみえる竜田比古竜田比女神社の祭神の一。  風をつかさどる神。

 

 題詞は、「春三月諸卿大夫等下難波時歌二首幷短歌」<春の三月に、諸卿大夫等(まへつきみたち)が難波(なには)に下(くだ)る時の歌二首幷せて短歌>である。

 

 長歌(一七四七歌)と反歌(一七四八歌)の歌群と長歌(一七四九歌)と反歌(一七五〇歌)の二群となっている。

 

 先の歌群の長歌をみてみよう。

 

◆白雲之 龍田山之 瀧上之 小※嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之  及還来

       ※「木+安」=くら

              (高橋虫麻呂 巻九 一七四七)

 

≪書き下し≫白雲の 竜田の山の 滝の上(うへ)の 小「木+安」(おぐら)の嶺(みね)に 咲きををる 桜の花は 山高み 風しやまねば 春雨(はるさめ)の 継(つ)ぎてし降れば ほつ枝(え)は 散り過ぎにけり 下枝(しづえ)に 残れる花は しましくは 散りなまがひそ 草枕 旅行く君が 帰り来るまで

 

(訳)白雲の立つという名の竜田の山を越える道沿いの、その滝の真上にある小※(をぐら)の嶺、この嶺に、枝もたわわに咲く桜の花は、山が高くて吹き下ろす風がやまない上に、春雨がこやみなく降り続くので、梢の花はもう散り失(う)せてしまった。下枝に咲き残っている花よ、もうしばらくは散りみだれないでおくれ。難波においでの我が君がまたここに帰って来るまでは。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)しらくもの 【白雲の】枕詞:白雲が立ったり、山にかかったり、消えたりするようすから「立つ」「絶ゆ」「かかる」にかかる。また、「立つ」と同音を含む地名「竜田」にかかる。

(注)君:知造難波宮事として功をなした藤原宇合のこと。高橋虫麻呂の庇護者。

(注)ほつえ 【上つ枝・秀つ枝】名詞:上の方の枝。◆「ほ」は突き出る意、「つ」は「の」の意の上代の格助詞。上代語。[反対語] 中つ枝(え)・下枝(しづえ)。

 

 大阪府柏原市のHPに高橋虫麻呂についての下記のように記されている。

高橋虫麻呂:「生没年、出身地、家系など不明な点が多く、謎に満ちた歌人です。東国の歌が多いので東国出身とする説もありますが、畿内出身のようです。藤原宇合に仕えていたことは間違いなく、宇合の活躍時期から第3期の歌人と考えられています。藤原宇合(694~737)は、藤原不比等の子で、四家※の一つ式家の祖です。宇合も漢文の素養に長け、虫麻呂の文学的才能を高く評価していたのではないでしょうか。宇合が西海道節度使として赴任する際の虫麻呂の歌もあります。

 『万葉集』に虫麻呂の歌は(一部当人かを疑問視するものも含め)、36首詠まれています。内訳は、長歌15首、短歌20首、旋頭歌1首で、長歌の多さが際立っています。虫麻呂は、地方の伝説について感情移入して詠んだ芸術的な作品が多く「伝説歌人」と呼ばれています。歌を聞く人を意識した意図的な思惑も感じられますが、あふれるばかりの感情ゆえとも理解できます。

 また歌風は、叙事性、抒情性に富み、写実的、具象的、現実的、客観的、色彩的、動的などと表現され、「抒情歌人」ともいわれています。その歌には夢想、幻想、幻影、願望、想念、空想、憧憬などが詠みこまれ、耽美的、官能的と言われる一方で、挫折、疎外、孤独、漂泊など虫麻呂の内面を重視する人も多くおり、犬養孝※氏は歌の背景となった虫麻呂の心情から「孤愁のひと」と呼んでいます。」(「歌の解説と万葉集」より)

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑」(三郷町HP)

★「歌の解説と万葉集」(大阪府柏原市HP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

 

※20210516朝食関連記事削除、一部改訂
 

万葉歌碑を訪ねて(その187改)―奈良県生駒郡三郷町龍田大社―万葉集 巻九 一七五一

●歌は、「島山をい往き廻る河副の丘邊の道ゆ昨日こそ吾が越え來しか一夜のみ宿たりしからに峰の上の櫻の花は瀧の瀬ゆ落ちて流る君が見むその日までには山下の風な吹きそと打越えて名に負へる社に風祭せな」である。

 

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奈良県生駒郡三郷町龍田大社万葉歌碑(高橋虫麻呂

●歌碑は、奈良県生駒郡三郷町 龍田大社境内にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆嶋山乎 射徃廻流 河副乃 丘邊道従 昨日己曽 吾超来壮鹿 一夜耳 宿有之柄二 峯上之 櫻花者 瀧之瀬従 落堕而流 君之将見 其日左右庭 山下之 風莫吹登 打越而 名二負有社尓 風祭為奈

               (高橋虫麻呂 巻九 一七五一)

 

≪書き下し≫島山(しまやま)を い行き廻(めぐ)れる 川沿(かはそ)ひの 岡辺(をかべ)の道ゆ 昨日(きのふ)こそ 我(わ)が越え来(こ)しか 一夜(ひとよ)のみ 寝たりしからに 峰(を)の上(うへ)の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと 打ち越えて 名(な)に負(お)へる社(もり)に 風祭(かざまつり)せな

 

(訳)島山を行き巡って流れる川沿いの、岡辺の道を通って私が越えて来たのはほんの昨日のことであったが、たった一晩旅宿(たびやど)りしただけなのに、尾根の桜の花は滝の早瀬をひらひら散っては流れている。我が君が帰り道のご覧になるその日までは、山おろしの風など吹かせ給うなと、馬打ちながらせっせと越えて行って、その名も高い風の神、竜田の社に風祭りをしよう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)しまやま 【島山】名詞:①島の中の山。また、川・湖・海などに臨む地の

    島のように見える山。②庭の池の中に作った山。築山(つきやま)。 

(注)こそ・・・しか:逆説条件

(注)君:ここでは 藤原宇合をさす。

 

 題詞は、「難波經宿明日還来之時歌一首并短歌」<難波(なには)に経宿(やど)りて明日(あくるひ)の還(かへ)り来(く)る時の歌一首幷せて短歌>である。

 

 反歌の方もみていこう。

◆射行相乃 坂之踏本尓 開乎為流 櫻花乎 令見兒毛欲得

              (高橋虫麻呂 巻九 一七五二)

 

≪書き下し≫い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも

 

(訳)国境の聖なる行き逢いの坂の麓に、枝もたわわに咲く桜の花、この美しい花を見せてやれる子でもいたらよいのに。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ををる 【撓る】(たくさんの花や葉で)枝がしなう。たわみ曲がる。

(注)もがも 《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。

 

 

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龍田大社境内

 奈良県生駒郡三郷町(さんごうちょう)のHPを開いてみるとコンテンツ「万葉歌碑」がある。鏡王女の万葉歌碑(JR大和路線沿い)、高橋虫麻呂の歌碑(JR三郷駅)、高橋虫麻呂の歌碑(龍田大社境内)が掲載されている。

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「万葉歌碑」(三郷町HP)

 高橋虫麻呂の歌碑(龍田大社境内)➡鏡王女の万葉歌碑(JR大和路線沿い)➡高橋虫麻呂の歌碑(JR三郷駅)の順に回ることにする。

 龍田大社の駐車場に車を止める。大社といわれるだけに駐車場から階段を上り、鳥居をくぐり、拝殿までそこそこ広く長い境内参道を歩く。拝殿手前右手に歌碑があった。

 

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龍田大社鳥居

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龍田大社名碑

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拝殿



 

 

 龍田大社については、「なら旅ネット」(奈良県観光公式サイト)に「龍田風神と呼ばれる風の神を祀る式内社。風を司る天御柱命国御柱命を祀ったところ、五穀豊穣になったと伝えられる。近年は、風の難を防ぐことから航海安全に霊験があるとして信仰を集め、航海や航空の安全を祈願する参拝客が数多く訪問する。天武3(674)年から営まれているという風鎮祭が毎年7月第1日曜に行われ、風鎮太鼓や神楽を奉納する。祭は豪快な手筒花火でその幕を閉じる。」とある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫

★「なら旅ネット」(奈良県観光公式サイト)

★「Weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

※20210516朝食関連記事削除、一部改訂
 

万葉歌碑を訪ねて(その186)―京都府相楽郡精華町けいはんなプラザ前植込み―万葉集 巻九 一七五八

●歌は、「筑波嶺の裾みの田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな」である。

 

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京都府相楽郡精華町けいはんなプラザ前植込み万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、京都府相楽郡精華町 けいはんなプラザ前植込みにある。

 

●歌をみていこう。

◆筑波嶺乃 須蘇廻乃田井尓 秋田苅 妹許将遣 黄葉手折奈

            (高橋虫麻呂 巻九 一七五八)

 

≪書き下し≫筑波嶺の裾(すそ)みの田居(たゐ)に秋田刈る妹(いも)がり遣(や)らむ黄葉(もみぢ)手折(たを)らな

 

(訳)筑波嶺の山裾の田んぼで秋田を刈っているかわいい子に遣(や)るためのもみじ、そのもみじを手折ろう。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「登筑波山歌一首幷短歌」<筑波山(つくばやま)に登る歌一首 幷せて短歌>である。

 

長歌(一七五七歌)と短歌(一七五八歌)から構成されている。

これは、「高橋漣虫麻呂歌集」の歌という。

 

巻九の特徴として、神野志隆光氏は、著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、2点を挙げられている。

 一つは、人麻呂歌集の他に個人の名を冠した歌集をベースとした歌の数が、巻全体の6割を超えるということ、もうひとつは、巻頭に配置される天皇が巻一と同じだということである。

 柿本人麻呂歌集が四四首、高橋虫麻呂歌集が三〇首、笠金村歌集が五首、田辺福麻呂歌集が一五首であり、全体が一四八首であるので六割を越えることになる。このことは、当時個別の歌集があるということは、歌の世界が成熟していることを意味し、それらを「総集」として巻九は成りえているのである。

 巻九の冒頭歌の題詞は、「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」であり、次いで「崗本宮御宇天皇幸紀國時歌二首」である。巻一は「泊瀬朝倉宮御宇天皇」で次いで「高市岡本宮御宇天皇」となっている。

 時系列的には、巻一の構成を勘案しつつ、歌集の総集的な位置づけが強いのではと思われるのである。

 

長歌もみていこう。

 

草枕 客之憂乎 名草漏 事毛有哉跡 筑波嶺尓 登而見者 尾花落 師付之田井尓 鴈泣毛 寒来喧奴 新治乃 鳥羽能淡海毛 秋風尓 白浪立奴 筑波嶺乃 吉久乎見者 長氣尓 念積来之 憂者息沼

              (高橋虫麻呂 巻九 一七五七)

 

≪書き下し≫草枕(くさまくら) 旅の憂(うれ)へを 慰(なぐさ)もる こともありやと 筑波嶺(つくばね)に 登りて見れば 尾花(をばな)散る 師付(しつく)の田居(たい)に 雁(かり)がねも 寒く来鳴(きな)きぬ 新治(にひばり)の 鳥羽(とば)の淡海(あふみ)も 秋風に 白波立ちぬ 筑波嶺の よけくを見れば 長き日(け)に 思ひ摘み来(こ)し 憂(うれ)へはやみぬ

 

(訳)草を枕の旅の憂い、この憂いを紛らわすよすがもあろうかと、筑波嶺に登って見晴らすと、尾花の散る師付の田んぼには、雁も飛来して寒々と鳴いている。新治の鳥羽の湖にも、秋風に白波が立っている。筑波嶺のこの光景を目にして、長い旅の日数に積もりに積もっていた憂いは、跡形もなく鎮まった。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)師付(しつく):筑波山東麓の地。国府のあった石岡市の西郊。

(注)新治:筑波山北西の郡名

(注)鳥羽の淡海:下妻市大宝八幡宮周辺にあった沼。

(注)よけく 【良けく・善けく】:よいこと。

なりたち形容詞「よし」の上代の未然形+接尾語「く」

(注)-がり 【許】接尾語〔人を表す名詞・代名詞に付いて〕…のもとに。…の所へ。

 

 

 

 この歌碑も、字の判別が難しい。英語版の右下隅の番号がポイント。

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歌碑№9-1758

 

「筑波」とくると、筑波研究学園都市が頭に浮かぶ。つくば市のHPによると、「筑波研究学園都市は、東京等の国の試験研究機関等を計画的に移転することにより東京の過密緩和を図るとともに、高水準の研究と教育を行うための拠点を形成することを目的に国家プロジェクトとして建設されました。」とある。

 

 一方、ここは、けいはんな学研都市の中心部である。京都府のHPによると、「京都、大阪、奈良の三府県にまたがる京阪奈丘陵において、文化・学術・研究の新しい『拠点』づくりをめざしてスタートした関西文化学術研究都市(愛称:けいはんな学研都市)。

 産・学・官の協力と連携のもと、ナショナルプロジェクトとして建設が進み、世界的な学術研究機関や国際的な交流拠点が次々と完成。住宅や都市基盤整備も進み、緑豊かな都市環境の中、活発な研究活動、潤いのある住民生活が営まれています。

 これからも、次代をリードする創造的な学術・研究の振興及び新産業の創出を支援し、新しい文化を創造・発信する都市をめざして、躍進していきます。」とある。

 

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けいはんなプラと日時計

 こういったことから、この「筑波嶺の」の歌が選ばれたのであろう。

歌碑は、前稿同様、A4サイズの瓦板である。英語版と日本語版のセットになっている。

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歌碑英語版(左)と日本語版(右)

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 

               (東京大学出版会

★「筑波研究学園都市 つくばしHP」

★「関西文化学術研究都市 京都府HP」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

20210920朝食関連記事削除、一部改訂

 

万葉歌碑を訪ねて(その185)―京都府相楽郡精華町けいはんなプラザ前植込み―万葉集 巻八 一四三五

●歌は、「かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花」である。

 

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京都府相楽郡精華町けいはんなプラザ前植込み万葉歌碑(厚見王

●歌碑は、京都府相楽郡精華町 けいはんなプラザ前植込み にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆河津鳴 甘南備河尓 陰所見而 今香開良武 山振乃花

                          (厚見王 巻八 一四三五)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花

 

(訳)河鹿の鳴く神なび川に、影を映して、今頃咲いていることであろうか。岸辺のあの山吹の花は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)神なび川:神なびの地を流れる川。飛鳥川とも竜田川ともいう。

 

 山吹の歌は、万葉集のなかでは、十七首詠われているという。そのあでやかな美しさから女人への連想や比喩にも用いられているという。

 この歌のように、黄色く影を映す川面の情景が、色鮮やかによみがえってくるのである。

 

 山吹を詠った歌としては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その74)」で高市皇子の「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」<十市皇女(といちのひめみこ)の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作らす歌三首>とする題詞の歌を一首取り上げている。

歌をここでもみてみよう。

 

◆山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴

                   (高市皇子 巻二 一五八)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく

(訳)黄色い山吹が咲き匂っている山の清水、その清水を汲みに行きたいと思うけれど、どう行ってよいのか道がわからない。(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)「山吹」に「黄」を、「山清水」に「泉」を匂わす。

 

 

 
 けいはんなプラザには、巨大な日時計がある。

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けいはんなプラザ 日時計

 これについては、次のような記事がある。
日時計広場は、先進性・国際性を目指す都市の中核施設にふさわしいシンボル空間として、国際コンペを実施し、設計されました。日時計の文字盤面積(3,877.86m²)は、世界一としてギネスブックに掲載されています。」(電子かわら版~京都府景観資産~№12 平成27年2月 発行:京都府建設交通部都市計画課)

 日時計は、電子かわら版にギネス世界一と記されていたが、この歌碑は、植込みの中に立てられたほぼA4サイズの瓦板に焼き付けられた小さな歌碑である。他と異なるのは、瓦板が2枚セットになっており、向かって左には、国際性を目指す都市だけに、英語で記されている。

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万葉歌碑英語版(左)と日本語版(右)

 ただ残念なことに、どちらも文字が完全に認識できない。英語版の右下隅の「8-1435」を手掛かりに歌にたどり着けたのである。

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英語版右下隅「Atsumi 8-1435]

 メタセコイヤの並木道の精華大通りと巨大日時計に挟まれた、小さな小さな歌碑が印象的であった。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫

★「電子かわら版~京都府景観資産~№12 平成27年2月」

          (発行:京都府建設交通部都市計画課)

 

 

※20210501朝食関連記事削除、一部改訂
 

万葉歌碑を訪ねて(その184改)―京都府木津川市加茂町恭仁大橋北詰―万葉集 巻六 一〇三七

●歌は、「今造る久邇の都は山川のさやけさ見ればうべ知らすらし」である。

 

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京都府木津川市加茂町恭仁大橋北詰万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、京都府木津川市加茂町 恭仁大橋北詰にある。

 

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恭仁大橋と木津川

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恭仁大橋


 

●歌をみていこう。

 

◆今造 久迩乃王都者 山河之 清見者 宇倍所知良之

               (大伴家持 巻六 一〇三七)

 

≪書き下し≫今造る久邇の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし

 

(訳)今新たに造っている久邇の都は、めぐる山や川がすがすがしいのを見ると、なるほど、ここに都をお定めになるのももっともなことだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「十五年癸未秋八月十六日内舎人大伴宿祢家持讃久迩京作歌一首」<十五年癸未(みづのとひつじ)の秋の八月の十六日に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持、久邇の京を讃(ほ)めて作る歌一首>である。

 

 天平十二年(七四〇年)十月、藤原広嗣大宰府から反乱を起こした。そのさなか、聖武天皇は伊勢に行幸を強行したのである。或る意味、逃避行である。十月末には反乱は鎮圧されたのであるが、逃避行は続いた。

 天平十六年二月、聖武天皇は、難波宮を都と定める勅旨を発するも、翌十七年(七四五年)五月、再び都を平城京に戻すのである。この五年は、「彷徨五年」と呼ばれる

 この逃避行には、右大臣橘諸兄が同行し、内舎人大伴家持も従い、行く先々の行宮で歌を残している。 

 この歌の前、巻六 一〇二九~一〇三六歌に恭仁京までの足取りが収録されている。

 

 

天平十二年 十月二十九日伊勢の国へ出発

◎  同  十一月  二日河口の行宮到着

◎  同      十二日出発

 

◆河口之 野邊尓廬而 夜乃歴者 妹之手本師 所念鴨

              (大伴家持 巻六 一〇二九)                                    

 

≪書き下し≫河口(かはぐち)の野辺(のべ)に廬(いほ)りて夜(よ)の経(ふ)れば妹(いも)が手本(たもと)し思ほゆるかも

 

(訳)河口の野辺で仮寝をしてもう幾晩も経(た)つので、あの子の手枕、そいつがやたら思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)河口の行宮:三重県津市白山町川口。

 

 題詞は、「十二年庚辰冬十月依大宰少貮藤原朝臣廣嗣謀反發軍 幸于伊勢國之時河口行宮内舎人大伴宿祢家持作歌一首」<十二年庚辰(かのえたつ)の冬の十月に、依大宰少貮(だざいせうに)藤原朝臣廣嗣(ふぢはらのあそみひろつぐ)、謀反(みかどかたぶ)けむとして軍(いくさ)を発(おこ)すによりて、伊勢(いせ)の国に幸(いでま)す時に、河口(かはぐち)の行宮(かりみや)にして、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌一首>である。

 

天平十二年十一月 二十三日朝明の行宮到着

 

◆妹尓戀 吾乃松原 見渡者 潮干乃滷尓 多頭鳴渡

             (聖武天皇 巻六 一〇三〇)

 

≪書き下し≫妹(いも)に恋ひ吾(あが)の松原見わたせば潮干(しほひ)の潟(かた)に 鶴(たづ)鳴き渡る

 

(訳)あの子が恋い焦がれて逢(あ)える日を我(わ)が待つという吾(あが)の松原、この松原を見渡すと、潮が引いた干潟に向かって、鶴が鳴き渡っている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「天皇御製歌一首」<天皇(すめらのみこと)の御製歌一首>である。

 

左注は、「右一首今案 吾松原在三重郡 相去河口行宮遠矣 若疑御在朝明行宮之時所製御歌 傳者誤之歟」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、吾の松原は三重(みへ)の郡(こほり)にあり。(かはぐち)の行宮(かりみや)を相去ること遠し。けだし朝明(あさあけ)の行宮に御在(いま)す時に製(つく)らす御歌なるを、伝ふる者誤(あやま)れるか。>である。

(注)朝明(あさあけ)の行宮:三重郡朝日町付近か。

 

 

◆後尓之 人乎思久 四泥能埼 木綿取之泥而  好住跡其念

              (丹比屋主真人 巻六 一〇三一)

 

≪書き下し≫後(おく)れにし人を思はく思(しで)の崎(さき)木綿(ゆふ)取り垂(し)でて幸(さき)くとぞ思ふ 

 

(訳)あとに残っている人を思っては、思泥の崎の名のように、木綿(ゆう)を取り垂でて、無事であってくれと神にお祈りしている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「丹比屋主真人歌一首」<丹比屋主真人(たぢひのやぬしのまひと)が歌一首>である。

 

 左注は、「右案此歌者不有此行之作乎 所以然言 勅大夫従河口行宮還京勿令従駕焉 何有詠思泥埼作歌哉」<右は、案(かむが)ふるに、この歌はこの行(たび)の作にあらじか。しか言う故(ゆゑ)は、大夫(まへつきみ)に勅(みことのり)して河口の行宮より京に還(かへ)し、従駕(おほみとも)せしむることなし。いかにして思泥(しで)の崎にして作る歌を詠むことあらむ>である。

 

 

天皇之 行幸之随 吾妹子之 手枕不巻 月曽歴去家留

            (大伴家持 巻六 一〇三二)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の行幸(みゆき)のまにま我妹子(わぎもこ)が手枕(たまくら)まかず月ぞ経(へ)にける 

 

(訳)大君の行幸につき従って、いとしいあの子の手枕をしないままに、月が替わってしまった。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「狭殘行宮大伴宿祢家持作歌二首」<狭殘(ささ)の行宮(かりみや)にして、大伴宿祢家持が作る歌二首>である。

(注)狭殘行宮:所在未詳

 

◆御食國 志麻乃海部有之 真熊野之 小船尓乗而 奥部榜所見

           (大伴家持 巻六 一〇三三)

 

≪書き下し≫御食(みけ)つ国志摩(しま)の海人(あま)ならしま熊野(くまの)の小舟(をぶね)に乗りて沖辺(おきへ)漕ぐ見ゆ 

 

(訳)あれは、御食(みけ)つ国、志摩の海人であるらしい。熊野型の小舟に乗って、今しも沖の方を漕いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

天平十二年 十一月 二十六日から月末ごろまで多芸行宮滞在

 

◆従古 人之言来流 老人之  變若云水曽 名尓負瀧之瀬

            (大伴東人 巻六 一〇三四)

 

≪書き下し≫いにしへゆ人の言ひ来(け)る老人(おいひと)のをつといふ水ぞ名に負ふ滝の瀬 

 

(訳)遠く古い時代から人が言い伝えて来た、老人の若返るという神聖な水であるぞ、名にし負うこの滝の瀬は。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌一首」<美濃(みの)の國の多芸(たぎ)の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰東人(おほとものくねあづまひと)が作る歌一首>

(注)多芸(たぎ)の行宮(かりみや):岐阜県養老郡養老町付近か。

 

◆田跡河之 瀧乎清美香 従古 官仕兼 多藝乃野之上尓

           (大伴家持 巻六 一〇三五)

 

≪書き下し≫田跡川(たどかわ)の瀧を清みかいにしへゆ宮仕(みやつか)へけむ多芸(たぎ)の野の上(へ)に 

 

(訳)田跡川(たどかわ)の滝が清らかなので、遠く古い時代からこうして宮仕えしてきたのであろうか。ここ多芸の野の上で。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より) 

 

 題詞は、「大伴宿祢家持作歌一首」<大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

 

 

天平十二年 十二月  一日不破行宮到着

◎   同   同   六日出発

 

◆關無者 還尓谷藻 打行而 妹之手枕 巻手宿益乎

                (大伴家持 巻六 一〇三六)

 

≪書き下し≫関なくは帰りにだにもうち行きて妹(いも)が手枕(たまくら)まきて寝ましを 

 

(訳)この不破の関さえなかったら、とんぼ帰りででも馬を鞭打って飛んで行き、あの子の手枕をして寝ることができように。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より) 

(注)関:不破の関

 

題詞は、「不破行宮大伴宿祢家持作歌一首」<不破(ふは)の行宮(かりみや)にして、大伴宿禰家持が作る歌一首>である。

 

 

天平十二年 十二月 十五日久邇の宮帰着、ここを都とした。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「木津川市万葉集」(木津川市観光協会

 

 

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