●歌は、「葎延ふ賤しきやども大君の座さむと知らば玉敷かましを」である。
●歌をみてみよう。
◆牟具良波布 伊也之伎屋戸母 大皇之 座牟等知者 玉之可麻思乎
(橘諸兄 巻十九 四二七〇)
≪書き下し≫葎(むぐら)延(は)ふ賤(いや)しきやども大君(おほきみ)の座(ま)さむと知らば玉敷かましを
(訳)葎の生い茂るむさくるしい我が家、こんな所にも、大君がお出まし下さると存じましたなら、前もって玉を敷きつめておくのでしたのに。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「十一月八日在於左大臣橘朝臣宅肆宴歌四首」<十一月の八日に、左大臣橘朝臣(たちばなのあそみ)が宅(いへ)に在(いま)して肆宴(しえん)したまふ歌四首>である。(注)肆宴(しえん):宮中等の公的な宴のこと。
左注は、「右一首左大臣橘卿」<右の一首は左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)>である。
六角井戸については、京都府綴喜郡井手町HP「観光・名所旧跡」に次のように記されている。
「聖武天皇の玉井頓宮(たまいのとんぐう)にあったものと言い伝えられ「公(橘諸兄)の井戸」として語りつがれてきた六角井戸は、石垣地区に現存しています。 この井戸は、据え付けられた石版が6枚組み合わせたもので、六角の形となっていることから「六角井戸」と呼ばれています。
交通:JR玉水駅より約1.0キロメートル 徒歩約15分」
(注)頓宮(とんぐう):にわかに造った仮の宮殿。仮宮(かりみや)。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)
橘諸兄(たちばなのもろえ)については、「コトバンク 小学館デジタル大辞泉」によると、
「[684~757]奈良前期の官人・歌人。母は県犬養橘三千代(あがたいぬかいのたちばなのみちよ)。光明皇后の異父兄。初め葛城(かつらぎ)王。のち、臣籍に降り、橘宿禰(すくね)諸兄と改めた。藤原不比等の四子が病没したのち右大臣・左大臣に昇り、政権を握ったが、藤原仲麻呂の台頭後は振るわなかった。」とある。
(注)藤原不比等の四子:天平九年(737年)四月、参議藤原房前(ふささき)が、同七月、参議藤原麻呂(まろ)が、続いて右大臣藤原武智麻呂(むちまろ)が、同八月、参議藤原宇合(うまかい)が相次いで天然痘により亡くなるのである。
他の三首をみていこう。
◆余曽能未尓 見者有之乎 今日見者 年尓不忘 所念可母
(聖武天皇 巻十九 四二六九)
≪書き下し≫よそのみに見ればありしを今日(けふ)見ては年に忘れず思ほえむかも
(訳)外ながら見るだけであった以前ならともかく、今日こうして見たからには、もう毎年忘れずに思い出されることであろうな。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首 太上天皇御製」<右の一首は太上天皇(おほきみのすめらみこと)の御歌>
◆松影乃 清濱邊尓 玉敷者 君伎麻佐牟可 清濱邊尓
(藤原八束 巻十九 四二七一)
≪書き下し≫松蔭(まつかげ)の清き浜辺(はまへ)に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に
(訳)このお庭の松の木陰の清らかな浜辺に玉を敷いてお待ちしたなら、大君はまたお出まし下さるでしょうか。この清らかな浜辺に。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)ます 【坐す・座す】いらっしゃる。おいでである。おありである。▽「あり」の尊敬語。
左注は、「右一首右大辨藤原八束朝臣」<右の一首は右大弁(うだいべん)藤原八束朝臣(ふぢはらのやつかのあそみ)>
◆天地尓 足之照而 吾大皇 之伎座婆可母 樂伎小里
(大伴家持 巻十九 四二七二)
≪書き下し≫天地(あめつち)に足(た)らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里(をさと)
(訳)天地の間にあまねく照り輝いて、我が大君、われらの君がお治めになっているからか、ここは、何とも楽しくてならぬお里でございます。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
左注は、「右一首少納言大伴宿祢家持 未奏」<右の一首は少納言(せうなごん)大伴宿祢家持 未奏>である。
(注)未奏:奏上せずに終わった歌。前三首に感興を催して後に作り成したもの。
聖武天皇が、臣下の橘諸兄宅で宴会を開いたこと自体が驚きである。また、大伴家持の歌がその宴会では、奏上されなかった、あるいは後に作成したと思われる歌を収録しているところにも、万葉集の万葉集たる所以があるように思われる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
※ 20210419朝食関連記事削除、一部改訂