万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その778)―吉野町喜佐谷 喜佐谷公民館駐車場―巻六 九二二

●歌は、「皆人の 命もわれも み吉野の滝の常磐の 常ならぬかも」である。

 

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吉野町喜佐谷 喜佐谷公民館駐車場万葉歌碑(笠金村)

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歌碑裏面歌の解説


●歌碑は、吉野町喜佐谷 喜佐谷公民館駐車場にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆人皆乃 壽毛吾母 三吉野乃 多吉能床磐乃 常有沼鴨

               (笠金村 巻六 九二二)

 

≪書き下し≫皆人(みなひと)の命(いのち)も我(わ)がもみ吉野の滝の常磐(ときは)の常(つね)ならぬかも

 

(訳)皆々方の命も、われらの命も、ここみ吉野の滝の常磐(ときわ)のように永久不変であってくれないものか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)ときは【常磐・常盤】名詞:永遠に変わることのない(神秘な)岩。 ※参考「とこいは」の変化した語。巨大な岩のもつ神秘性に対する信仰から、永遠に不変である意を生じたもの。(Weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ぬかも分類連語:〔多く「…も…ぬかも」の形で〕…てほしいなあ。…てくれないかなあ。▽他に対する願望を表す。 ※上代語。 なりたち⇒打消の助動詞「ず」の連体形+疑問の係助詞「か」+詠嘆の終助詞「も」(学研)

 

 

 九二〇から九二二歌の歌群の題詞は、「神龜二年乙丑夏五月幸于芳野離宮時笠朝臣金村作歌一首幷短歌」<神亀(じんき)二年乙丑(きのとうし)の夏の五月に、吉野の離宮(とつみや)に幸(いでま)す時に、笠朝臣金村が作る歌一首并せて短歌>である。

 

 長歌ともう一首の短歌もみてみよう。

 

◆足引之 御山毛清 落多藝都 芳野河之 河瀬乃 浄乎見者 上邊者 千鳥數鳴 下邊者 河津都麻喚 百礒城乃 大宮人毛 越乞尓 思自仁思有者 毎見 文丹乏 玉葛 絶事無 萬代尓 如是霜願跡 天地之 神乎曽禱 恐有等毛

                               (笠金村 巻六 九二〇)

 

≪書き下し≫あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺(かみへ)には 千鳥しば鳴く 下辺(しもへ)には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人(おほみやひと)も をちこちに 繁(しじ)にしあれば 見るごとに あやにともしみ 玉葛(たまかづら) 絶ゆることなく 万代(よろづよ)に かくしもがもと 天地(あまつち)の 神をぞ祈(いの)る 畏(かしこ)くあれども

 

(訳)在り巡るみ山もすがすがしく渦巻き流れる吉野の川、この川の瀬の清らかなありさまを見ると、上流では千鳥がしきりに鳴くし、下流では河鹿(かじか)が妻を呼んで盛んに鳴く。その上、大君にお仕えする大宮人も、あちこちいっぱい往き来しているので、ここみ吉野のさまを見るたびにただむしょうにすばらしく思われて、玉葛(たまかづら)のように絶えることなく、万代(よろずよ)までもこのようにあってほしいものだと、天地の神々に切にお祈りする。恐れ多いことではあるけれども。(同上)

(注)をちこち【彼方此方・遠近】名詞:あちらこちら。(学研)

(注)しじに【繁に】副詞:数多く。ぎっしりと。びっしりと。(学研)

(注)あやに【奇に】副詞:①なんとも不思議に。言い表しようがなく。②むやみに。ひどく。(学研)

(注)ともしぶ 動詞:羨うらやましく思う。<「ともしむ」に同じ。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)たまかづら【玉葛・玉蔓】分類枕詞:つる草のつるが、切れずに長く延びることから、「遠長く」「絶えず」「絶ゆ」に、また、つる草の花・実から、「花」「実」などにかかる。(学研)

(注)かくしもがも【斯くしもがも】分類連語:こういうふうであってほしい。こうでありたい。 ⇒なりたち 副詞「かく」+副助詞「し」+終助詞「もがも」(学研)

 

◆萬代 見友将飽八 三芳野乃 多藝都河内乃 大宮所

               (笠金村 巻六 九二一)

 

≪書き下し≫万代(よろづよ)に見(み)とも飽(あ)かめやみ吉野のたぎつ河内(かふち)の大宮(おほみや)ところ

 

(訳)万代ののちまでに見つづけても飽きるなどということがあろうか。み吉野の激流渦巻く河内の、この大宮所は。(同上)

 

 九二一歌にある「河内」については、「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム)に詳しく書かれているので、一部引用させていただく。

「河内」とは、「名詞。川を中心とする山に囲まれた一帯の地。カハ=ウチの約。(中略)『吉野川激つ河内』(1-38)、『み吉野の清き河内』(6-908)、『み吉野の瀧の河内』(6-910)、『み吉野の激つ河内』(6-921)などとうたわれる。人麻呂にはじまる吉野讃歌では山川を対比してその美をうたうことが伝統となり、『山川の清き河内』(1-36)が吉野の聖性を象徴する表現として定着した。吉野讃歌が山川対比構成をとることについて『釈注』は<聖地には、国土形成、五穀豊穣の二大要素である『土』(山)と『水』(川)とが相ともに充ち足りているのでなければならぬという思想がはたらいている>と説く。中国の山川望祀(『礼記』)の制からの影響も考慮されよう。『河内』の清浄さは形容詞『清し』『さやけし』のほか、『激つ』(奔流する、渦巻き流れる)の語によって強調される。」

 

 吉野の万葉歌は、壬申の乱という時代の激流と、吉野の当地の情景、時間軸と空間軸を合わせて総合的に勘案し味あう必要性を痛感させられた。もっともっと掘り下げて行かないと歌の真髄には到達しえないことを思い知らされたのであった。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

万葉歌碑を訪ねて(その777)―吉野町菜摘 菜摘十二社神社―巻三 三七五

●歌は、「吉野にある菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして」である。

 

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吉野町菜摘 菜摘十二社神社万葉歌碑(湯原王

●歌碑は、吉野町菜摘 菜摘十二社神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「湯原王芳野作歌一首」<湯原王(ゆはらのおほきみ)、吉野にして作る歌一首>である。

 

◆吉野尓有 夏實之河乃 川余杼尓 鴨曽鳴成 山影尓之弖

              (巻三 三七五)

 

≪書き下し≫吉野なる菜摘(なつみ)の川の川淀に鴨(かも)ぞ鳴くなる山蔭(やまかげ)にして

 

(訳)ここ吉野の、菜摘(なつみ)の川の川淀で鴨の鳴く声がする。ちょうど山陰のあたりで。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)菜摘の川:吉野郡吉野町宮滝の東方、菜摘の地を流れる吉野川

(注)湯原王(ゆはらのおほきみ):奈良前期の歌人志貴皇子(しきのみこ)の子。天智天皇の孫。歌は万葉集に19首がのっている。生没年未詳。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

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歌の解説案内碑

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菜摘十二社神社鳥居と境内

 

 湯原王の歌としては、旅先で通った娘子とのかなり長期にわたる恋物語的歌群が六三一歌から六四二歌まで収録されている。これをみてみよう。

 

題詞は、「湯原王贈娘子歌二首  志貴皇子之子也」<湯原王(ゆはらのおほきみ)、娘子(をとめ)に贈る歌二首  志貴皇子の子なり>である。

 

◆宇波弊無 物可聞人者 然許 遠家路乎 令還念者

               (湯原王 巻四 六三一)

 

≪書き下し≫うはへなきものかも人はかくばかり遠き家道(いへぢ)を帰さく思へば

 

(訳)無愛想なんだな、あなたという人は。これほどに遠い家路なのに、その家路を空しく追い返されることを思うと。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)うはへなき:上っ面の愛想の意か。

(注)帰さく:「帰す」のク語法。 ※ク語法:活用語の語尾に「く(らく)」が付いて、全体が名詞化される語法。「言はく」「語らく」「老ゆらく」「悲しけく」「散らまく」など。→く(接尾) →らく(接尾)(コトバンク デジタル大辞泉

 

◆目二破見而 手二破不所取 月内之 楓如 妹乎奈何責

               (湯原王 巻四 六三二)

 

≪書き下し≫目には見て手には取らえぬ月の内(うち)の桂(かつら)のごとき妹をいかにせむ

 

(訳)目には見えても手には取らえられない月の内の桂の木のように、手を取って引き寄せることのできないあなた、ああどうしたらよかろう。(同上)

(注)月の内の桂:月に桂の巨木があるという中国の俗信。

 

題詞は、「娘子報贈歌二首」<娘子、報(こた)へ贈る歌二首>である。

 

◆幾許 思異目鴨 敷細之 枕片去 夢所見来之

               (娘子 巻四 六三三)

 

≪書き下し≫そこらくに思ひけめかも敷栲(しきたへ)の枕(まくら)片(かた)さる夢(いめ)に見え来(こ)し

 

(訳)あなたはかつてあんな歌を下さったけれど、それほどに思って下さっていたのかしら。そういえば、あなたのお枕が傍らに寄っている夜離(よが)れの床の夢に、あなたのお姿が見えてきたっけ。少しは思って下さったんですね。(同上)

(注)そこらくに 副詞:あれほど。十分に。たくさんに。しっかりと。(学研)

(注)しきたへの【敷き妙の・敷き栲の】分類枕詞:「しきたへ」が寝具であることから「床(とこ)」「枕(まくら)」「手枕(たまくら)」に、また、「衣(ころも)」「袖(そで)」「袂(たもと)」「黒髪」などにかかる。(学研)

(注)かたさる【片去る】自動詞:片側に寄る。片方に避ける。(学研) 枕片さる:男の来ない夜、男の枕が床の傍らに寄っているさま。

 

◆家二四手 雖見不飽乎 草枕 客毛妻与 有之乏左

               (娘子 巻四 六三四)

 

≪書き下し≫家にして見れど飽かぬを草枕旅にも妻(つま)とあるが羨(とも)しさ

 

(訳)私は家でお逢いしてもこれで充分ということはないのに、あなたは、家ばかりでなく、別れ別れになるはずの旅の先まで奥さんとご一緒とは、お羨ましいこと。

題詞は、「湯原王亦贈歌二首」<湯原王、また贈る歌二首>である。

 

草枕 客者嬬者 雖率有 匣内之 珠社所念

               (湯原王 巻四 六三五)

 

≪書き下し≫草枕旅には妻は率(ゐ)たれども櫛笥(くしげ)の内の玉をこそ思へ

 

(訳)旅にまで妻を連れてきてはいますが、櫛笥(くしげ)に納めた玉のように、めったに心を許してくれないあなた、あなただけを私は思っているのですよ。(同上)

 

◆余衣 形見尓奉 布細之 枕不離 巻而左宿座

               (湯原王 巻四 六三六)

 

≪書き下し≫我(あ)が衣(ころも)形見に奉(まつ)る敷栲(しきたへ)の枕を放(さ)けずまきてさ寝(ね)ませ

 

(訳)私の衣、この着物を私の身代わりにさしあげましょう。枕元から遠ざけたりせずに、せめてこれを身にまとって寝て下さい。

(注)「奉る」「ます」は共に敬語。湯原王が卑下して娘子にいとおしみを表している。

 

題詞は、「娘子復報贈歌一首」<娘子、また報(こた)へ贈る歌一首>である。

 

◆吾背子之 形見之衣 嬬問尓 余身者不離 事不問友

               (娘子 巻四 六三七)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)が形見の衣(ころも)妻どひに我(あ)が身は離(さ)へじ言(こと)とはずとも

 

(訳)あなたの身代わりの着物、その着物は、妻どいに来られたあなただと思って、肌身離したりはいたしますまい。たとえ物言わぬ着物ではあっても。(同上)

 

 

題詞は、「湯原王亦贈歌一首」<湯原王、また贈る歌一首>である。

 

◆直一夜 隔之可良尓 荒玉乃 月歟経去跡 心遮

               (湯原王 巻四 六三八)

 

≪書き下し≫ただ一夜(ひとよ)隔(へだ)てしからにあらたまの月か経(へ)ぬると心(こころ)惑(まと)ひぬ

 

(訳)たった一晩逢いに行けなかっただけなのに、一月(ひとつき)も経ってしまったのかと心は千々に乱れてしまった。(同上)

 

題詞は、「娘子復報贈歌一首」<娘子、また報へ贈る歌一首>である

 

◆吾背子我 如是戀礼許曽 夜干玉能 夢所見管 寐不所宿家礼

                (娘子 巻四 六三九)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)がかく恋ふれこそぬばたまの夢(いめ)に見えつつ寐寝(いね)らえずけれ

 

(訳)あなたがこんなにも私をいとしく思って下さるものですから、夜の夢にお姿が現れて、私を寝つかせてくれなかったのですね。(同上)

 

題詞は、「湯原王亦贈歌一首」<湯原王、また贈る歌一首>である。

 

◆波之家也思 不遠里乎 雲居尓也 戀管将居 月毛不経國

               (湯原王 巻四 六四〇)

 

≪書き下し≫はしけやし間(ま)近(ちか)き里を雲井(くもゐ)にや恋ひつつ居(を)らむ月も経(へ)なくに

 

(訳)ああ、たまらない。すぐそばの里にいるのに、それを雲のかなたにいる人のように、恋いつづけていなければならないのか。逢ってからまだ一月も経っていないというのに。(同上)

 

題詞は、「娘子復報贈和歌一首」<娘子、の復た報(こた)へ贈れる和(こた)ふたる謌一首

 

◆絶常云者 和備染責跡 焼太刀乃 隔付経事者 幸也吾君

               (娘子 巻四 六四一)

 

≪書き下し≫絶ゆと言はばわびしみせむと焼太刀(やきたち)のへつかふことは幸(さき)くや我(あ)が君

 

(訳)二人の仲もこれでおしまいだと言ったら、私がしょげ返るだろうと、いつもやさしそうに私にくっついておられますが、それで何ともありませんか、あなた。(同上)

(注)わびしむ 【侘びしむ】他動詞:①寂しがらせる。せつなく思わせる。②困らせる。(学研)

(注)やきたちの【焼き太刀の】分類枕詞:①太刀を身につけるところから、近くに接する意の「辺(へ)付かふ」にかかる。②太刀が鋭い意から「利(と)」にかかる。(学研)

(注)へつかふ「辺(へ)付かふ」:近くに接する

 

題詞は、「湯原王歌一首」<湯原王が歌一首>である。

 

◆吾妹兒尓 戀而乱者 久流部寸二 懸而縁与 余戀始

               (湯原王 巻四 六四

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)に恋ひて乱(みだ)ればくるべきに懸(か)けて搓(よ)らむと我(あ)が恋ひそめし

 

(訳)あの子に恋い漕がれて心が乱れたならば、乱れ心を糸車にかけて、うまいこと搓(よ)り直せばよいと、そう思って恋い初(そ)めただけのことさ・・・。(同上)

(注)「くるべき」:枠に糸を掛け,回転させて繰る道具のこと。(weblio国語辞典)

 

 

初めは、妻問いを拒絶されるも、ねんごろな関係になるが、破局を迎える。六四二歌で、湯原王が、負け惜しみの気持ちを吐露する形で締めくくられている。

万葉集において、かかる歌まで収録されていることには、あきれ返らされるとともに、驚き、お禁じえない。万葉集万葉集たる所以の一端が見え隠れしているのである。

 

 湯原王と娘子の歌に時間を割いてしまったが、この歌碑のある、菜摘十二社神社の「菜摘

について、「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム)に、詳しく書かれているので勉強のために引用させていただく。

 

「なつみ 夏実・夏身・夏箕 Natsumi 奈良県吉野郡吉野町の地名。『なつみ』は、本来『魚津廻』であり、魚を捕る曲流の地域のことを示した名称。この地名は、万葉集の中には、『落ち激つ夏身の川門』(9-1736)や『大滝を過ぎて夏身にそほり居て清き川瀬を見るがさやけさ』(9-1737)、『吉野なる夏実の川の川淀に鴨そ鳴くなる山影にして』(3-375)などと詠み込まれている。これらの作歌から、現在の吉野川が『菜摘川』と呼ばれていたことも理解されよう。さらに、『懐風藻』では、藤原不比等による『五言、吉野に遊ぶ』に『夏身夏色古り、秋津秋気新し』とある。吉野は、記紀の伝承以来異界の地とされ、大和の王権が聖地として作りあげた。夏身は吉野における王権儀礼の重要な場所であり、同時に、異民族の祭祀儀礼の場であった可能性もある。魚は、その祭祀に用いられる神への供物であったが、大和の王権の成立によって、天皇への献上物の魚をとる地となり、地名となったと考えられる。」

 

 「菜摘」が「魚津廻」とは全く想像だにできなかった。地名一つとっても時間軸による変遷の歴史がさらに万葉集の深みに引きづり込んでいく。

 

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菜摘十二社神社名碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉神事語事典」(國學院大學デジタルミュージアム

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「weblio国語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その776)―吉野町喜佐谷 桜木神社―巻六 九二四

●歌は、「み吉野の像山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも」である。

 

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吉野町喜佐谷 桜木神社万葉歌碑(山部赤人


●歌碑は、吉野町喜佐谷 桜木神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆三吉野乃 象山際乃 木末尓波 幾許毛散和口 鳥之聲可聞

                  (山部赤人 巻六 九二四)

 

≪書き下し≫み吉野の象山(さきやま)の際(ま)の木末(こぬれ)にはここだも騒(さわ)く鳥の声かも

 

(訳)み吉野の象山の谷あいの梢(こずえ)では、ああ、こんなにもたくさんの鳥が鳴き騒いでいる。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)こぬれ【木末】名詞:木の枝の先端。こずえ。 ※「こ(木)のうれ(末)」の変化した語。 上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ここだ 幾許】副詞:①こんなにもたくさん。こうも甚だしく。▽数・量の多いようす。②たいへんに。たいそう。▽程度の甚だしいようす。 ※上代語。(学研)

 

 この歌は、題詞「山部宿祢赤人作歌二首幷短歌」のなかの前群の反歌二首のうちの一首である。前群は吉野の宮を讃える長歌反歌二首であり、後群は天皇を讃える長歌反歌一首という構成をなしている。

 

九二三(長歌)・九二四、九二五(反歌二首)と九二六(長歌)・九二七(反歌)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その125改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

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桜木神社鳥居と社殿

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「象の小川」案内板

 吉野歴史館を後にして桜木神社へと向かう。柴橋が工事で通行止めの為、迂回して喜佐谷方面に向かう。渓流沿いの山道である。喜佐谷の杉木立のなかを流れるこの渓流は、「象の小川(きさのおがわ)」であり、吉野山の青根ヶ峰や水分神社の山あいに水源をもち、吉野川に注ぎこんでいる。万葉集歌人大伴旅人もその清々しさを望郷への思いを込めて次の歌を詠んでいる。

 

◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

               (大伴旅人 巻三 三三二)

 

≪書き下し≫我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むため

 

(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(同上)

 

旅人の三三二歌を含む三二八から三三七歌までの歌群は、小野老が従五位上になったことを契機に大宰府で宴席が設けられ、その折の歌といわれている。この歌群の歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その506)」で紹介している。

➡ こちら506

 

 

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桜木神社境内

 渓流を跨いだ参道が桜木神社に誘う。参道のすぐ近くに神社を背にして「虎に翼を着けて放てり」の碑がある。

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「虎に翼を着けて放てり」の碑

 天智天皇は、671年1月に息子・大友皇子太政大臣に任命、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣に中臣金(なかとみのくがね)という体制を確立するが、同年9月天智天皇は病に伏してしまう。大友皇子にとって最大の障碍は天智天皇の弟・大海人皇子である。10月に、天皇は病床に大海人皇子を呼び、「お前に位を譲ろう」と伝えた。しかし、言葉の裏に陰謀を感じた大海人皇子は、持病を理由に辞退し、出家して吉野に入ってしまうのである。左大臣、右大臣は宇治川まで見送りに行き、吉野に向かったと確信するのである。それから流言が流れ出したという。日本書紀では、「虎に翼を着けて放てり」と書いている。大虎が野に下った、何が起こるかわからない」という意味である。

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「虎に翼を着けて放てり」の解説碑


 

大海人皇子が、吉野に身を潜めている時に、大友皇子の兵に攻められるという事態になったが、大きな桜の木に身を隠し難を逃れたという伝説があるそうである。後に天武天皇として即位され吉野宮に行幸されると桜木神社にお参りされたということから、天武天皇亡きあと同神社では天武天皇をお祀りすることになったという。

 

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桜木神社由緒等説明案内板

人っ子一人いない静寂に包まれた神社である。小川の流れる音がかえって静けさを強調している。

見回りなのだろう。パトカーが一台参道の側で止まり、警官がひとり境内を巡回していく。現実に引き戻された瞬間である。パトカーが過ぎ去っていくと、時の流れが再び停止するのである。

 

 桜木神社の次は菜摘十二社神社である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「吉野町HP」

 

万葉歌碑を訪ねて(その775)―吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上―万葉集 巻一 二七

●歌は、「淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見」である。

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吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上万葉歌碑(天武天皇

●歌碑は、吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その768)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

題詞は。「天皇幸于吉野宮時御製歌」<天皇、吉野の宮に幸(いでま)す時の御製歌>である。

(注)吉野宮:吉野宮滝付近にあった離宮

 

◆淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

               (天武天皇 巻一 二七)

 

≪書き下し≫淑(よ)き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見

 

(訳)昔の淑(よ)き人がよき所だとよくぞ見て、よしと言った、この吉野をよく見よ。今の良き人よ、よく見よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)淑(よ)き人:立派な人。昔の貴人。ここは、天武天皇と持統皇后を寓している。

(注)良き人:今の貴人をいう。

 

日本書紀』には、天武八年五月五日に吉野宮へ行幸したこと、翌六日に、草壁(くさかべ)皇子・大津(おおつ)皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子四皇子と天智天皇の遺児である川島(かわしま)皇子・志貴(しき)皇子の二皇子ら六皇子に争いをせずお互いに助け合うと盟約させたこと、が記されている。

天武天皇にとって、吉野は壬申の乱の出発の地であり、それだけに感慨深い地であったのだろう。吉野でわずか40人ほどで挙兵をし、ひと月で天下を統一した壬申の乱という壮大なエネルギーは、万葉の人びとの記憶にとどめる必要性が求められたのに違いない。二七歌もそういった時代を背景に、天武天皇ならびに原点である「吉野」を尊厳化させるべく、天皇の歌として伝承されていったと考えられる。

万葉集は、ある意味、歌物語的要素がふんだんに盛り込まれているので、天武天皇を取り囲む劇場型の題材は、万葉びとを魅了していったに違いない。

こういった観点から、二五、二六歌をみてみよう。

 

題詞は、「天皇御製歌」<天皇(すめらみこと)の御製歌>である。

(注)壬申の乱直前の天智十年(671年)冬十月の吉野入りを回想した天武天皇の歌

 

◆三吉野之 耳我嶺尓 時無曽 雪者落家留 間無曽 雨者零計類 其雪乃 時無如 其雨乃 間無如 隈毛不落 念乍叙来 其山道乎

               (天武天皇 巻一 二五)

 

≪書き下し≫み吉野の 耳我(みみが)の嶺(みね)に 時なくぞ 雪は降りける 間(ま)無くぞ 雨は振りける その雪の 時なきがごと その雨の 間(ま)なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道(やまみち)を

 

(訳)ここみ吉野の耳我の嶺に時を定めず雪は降っていた。絶え間なく雨は降っていた。その雪の定めもないように、その雨の絶え間もないように、長の道中ずっと物思いに沈みながらやって来たのであった。ああ、その山道を。(同上)

(注)み【美】接頭語:名詞に付いて、美しい、りっぱな、などの意を添えたり、語調を整えたりするときに用いる。「み冬」「み山」「み雪」「み吉野」。(学研) 地名は、上代では、吉野・熊野・の越三つのみである。

(注)耳我の嶺:所在未詳(吉野山中の一峰?)

(注)くま【隈】名詞:曲がり角。曲がり目。(学研)

(注)隈(くま)もおちず:道の曲がり角ひとつ残さずずっと。

(注)思ひ:兄である天智天皇側と争わねばならない運命への深刻な思い

 

二六歌は、題詞は、「或本歌」<或本の歌>である。

 

三芳野之 耳我山尓 時自久曽 雪者落等言 無間曽 雨者落等言 其雪 不時如 其雨 無間如 隈毛不堕 思乍叙来 其山道乎

               (天武天皇 巻一 二六)

 

≪書き下し≫み吉野の 耳我の山に 時じくぞ 雪は降るといふ 間(ま)なくぞ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間(ま)なきがごと 隈(くま)もおちず 思ひつつぞ来(こ)し その山道を

 

(訳)み吉野の耳我の山に、時となく雪は降るという。絶え間なく雨は降るという。その雪の時とてないように、その雨の絶え間もないように、長い道中ずっと物思いに沈みながらやって来た。ああ、その山道を。(同上)

(注)ときじくに【時じくに】分類連語:時期にかかわらず。いつでも。(学研)

(注)雪は降るといふ:ここは二六歌と違い伝聞形式になっている。二六歌が愛唱されているうちに変化したものか

 

左注は、「右句ゝ相換 因此重載焉」<右は句ゝ(くく)相換(あひかは)れり。 これに因(よ)りて重ねて載(の)す>である。

                           

次の歌は、二六歌とほとんど同一である。民謡風の歌であるが、これが宮廷での儀礼歌となり、いつしか天武天皇の吉野行の道歌として伝承されていった可能性が強いのである。

 

◆三吉野之 御金高尓 間無序 雨者落云 不時曽 雪者落云 其雨 無間如 彼雪 不時如 間不落 吾者曽戀 妹之正香尓

               (作者未詳 巻十三 三二九三)

 

≪書き下し≫み吉野の 御金(みかね)が岳(たけ)に 間(ま)なくぞ 雨は降るいふ 時(とき)じくぞ 雪は降るいふ その雨の 間(ま)なきがごと その雪の 時じきがごと 間(ま)もおちず 我(あ)れはぞ恋ふる 妹(いも)が直香(ただか)に

 

(訳)み吉野の御金が岳に、絶え間なく雨は降るという、休みなく雪は降るという。その雨の絶え間がないように、その雪の休みがないように、あいだもおかずに私は恋い焦がれてばかりいる。いとしいあの子その人に。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)ただか【直処・直香】名詞:その人自身。また、その人のようす。(学研)

 

 

 三二六〇歌も構文的には似ている。こちらもみてみよう。

 

◆小治田之 年魚道之水乎 問無曽 人者挹云 時自久曽 人者飲云 挹人之 無間之如 飲人之 不時之如 吾妹子尓 吾戀良久波 已時毛無

               (作者未詳 巻十三 三二六〇)

 

≪書き下し≫小治田(をはりだ)の 年魚道(あゆぢ)の水を 間(ま)なくぞ 人は汲(く)むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ 汲む人の 間(ま)なきがごと 飲む人の 時じきがごと 我妹子(わぎもこ)に 我(あ)が恋ふらくは やむ時もなし

 

(訳)小治田(をはりだ)の年魚(あゆ)道の湧き水、その水を、絶え間なく人は汲むという。時となく人は飲むという。汲む人の絶え間がないように、飲む人の休みがないように、いとしいあの子に私が恋い焦がれる苦しみは、とだえる時とてない(同上)

 

 このような例は、万葉集巻二の冒頭歌、八五から八八歌の四首は仁徳天皇の皇后である磐姫(いわのひめ)の歌として収録されている歌群である。同時に八九歌、九〇歌の類歌も収録していることは、民謡の伝誦の中から一つのストーリー性をもった歌群を収録している、あるいは、そう伝えられていたものと考えられる。

 このように万葉集では、歌物語的なところも多々あるのである。それはそれで万葉集の奥深さを演出しているといえなくはないのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫)

 

万葉歌碑を訪ねて(その774)―吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上―万葉集 巻十 一九一九

●歌は、「国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ」である。

 

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吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、吉野町宮滝 吉野歴史資料館横丘の上にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆國栖等之 春菜将採 司馬乃野之 數君麻 思比日

               (作者未詳 巻十 一九一九)

 

≪書き下し≫国栖(くにす)らが春菜(はるな)摘(つ)むらむ司馬(しま)の野のしばしば君を思ふこのころ               

 

(訳)国栖たちが春の若菜を摘むという司馬(しま)の野、その野の名のように、しばしばあなたのことを思うこの頃です。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)国栖(くにす):吉野川上流の国栖(くず)付近に住んでいた人たち。

(注)上三句は序。「しばしば」を起こす。

(注)司馬(しま)の野:所在未詳

 

奈良県HP「はじめての万葉集 vol.33 司馬の野の春菜摘み」にこの歌について詳しく解説されているので引用させていただく。

 

 「『春』というと、日差しが暖かくなる三月や桜の花咲く四月が思い浮かぶのではないでしょうか。一方で「新春」等の言葉は一月に使います。でも、一月はまだまだ寒くて、あまり「春」らしい感覚がありません。

 古代日本に中国式の暦が導入されたとき、一年を四つに分ける考え方も入ってきました。一月~三月が春、四月~六月が夏、七月~九月が秋、十月~十二月が冬というもので、新しい一年が始まる一月に『新春』というのもうなずけます。もともと月の運行と中国大陸の季節感から作られた暦でしたので、日本列島での体感とは異なる部分もあったようです。さらに、現在は太陽の運行をもとにした暦を使っており、旧暦とは約一カ月のずれがあります。一月は現代の暦でいうと二月頃にあたりますから、古代の一月は体感としては梅の花咲く『早春』と考えられます。

 そんな古代の『春』には、女性たちが菜摘みを行いました。一年の最初に芽吹いた『春菜』はいわば植物の生命力の象徴であり、それを摘んで食べることで、生命力を体内に取り込むことができると考えていたようです。現代の日本でも、一月七日に春の七草を摘んで粥にして食べる風習が残っています。

 この歌では、とくに吉野の『国栖』が菜摘みをする場面が表現されています。彼らは『日本書紀』に独特の風俗を持つ人々として描かれていますが、司馬という地が現在のどこにあたるかはよくわかっていません。

 この歌の主意は、しばしばあなたを思う、という部分にこそあります。『しばしば』を導き出すたとえとして、『司馬』での春菜摘みが詠まれています。一心に菜摘みする女性のイメージと重なりながら、相手への思いが伝わってくるように思います。」

 

「葛」の名前の由来について、奈良県HP「同 vol.28」に、「葛粉を使った葛まんじゅうや葛切りなどは暑い夏にぴったりの、涼しげな食べ物です。

 ところで、『くず』という名前の由来を知っていますか?この名前は、吉野町の国栖(くず)という地域が、その昔、葛粉の産地であったことに由来するといわれています。現在の国栖は、割り箸や和紙などを生産する『ものづくりの里』として知られ、県の景観資産にも登録されています。」と書かれている。

 吉野葛は有名であるがこの葛の名前の由来には驚かされた。

 

吉野歴史資料館について、吉野町HPに「宮滝遺跡から出土した縄文・弥生の遺物や天武・持統天皇が度々訪れた吉野の宮に関する展示を行い、吉野の歩みと文化をも学ぶことができる町営施設。また、施設から見る「青根が峯」「象山」「三船山」の眺望が美しい。」と紹介されている。

前庭の一八六八歌の歌碑の横に「宮滝遺跡周辺図」なる説明案内碑があり「青根が峯」「象山」「三船山」が書かれている

 

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宮滝遺跡周辺図

コロナ対策上、同館は、土日祝日のみの開館となっている。休みで人っ子一人いない前庭から資料館横の小高いまでゆっくりと散歩させていただいた。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「はじめての万葉集 vol.28」 (奈良県HP)

★「はじめての万葉集 vol.33」 (奈良県HP)

★「吉野町HP」

万葉歌碑を訪ねて(その773)―吉野町宮滝 吉野歴史資料館前庭―万葉集 巻十 一八六八

●歌は、「かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ」である。

 

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吉野町宮滝 吉野歴史資料館前庭万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、吉野町宮滝 吉野歴史資料館前庭にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆川津鳴 吉野河之 瀧上乃 馬酔之花曽 置末勿勤

               (作者未詳 巻十 一八六八)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く吉野の川の滝(たき)の上(うへ)の馬酔木(あしび)の花ぞはしに置くなゆめ                 

 

(訳)河鹿の鳴く吉野の川の、滝のほとりに咲いていた馬酔木の花です。これは、粗末にしないでください。けっして。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 

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歌の解説案内板

「馬酔木(あしび)」はアセビともいうツツジ科の常緑低木である。万葉集では十首詠まれている。歌をみていこう。

 

◆磯(いそ)の上(うへ)に生(お)ふる馬酔木を手折(たを)らめど見すべき君が在りと言はなくに

               (大伯皇女 巻二 一六六)

 

(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折りたいと思うけれども、これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないのではないか。 (伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 題詞「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>のうちの一首である。

 

 

◆馬酔木なす栄えし君が掘(ほ)りし井の石井(いしゐ)の水は飲めど飽(あ)かぬかも

              (作者未詳 巻七 一一二八)

 

(訳)馬酔木の花のように栄えた君が掘られた井戸、石で掘ったその井戸の水は、飲んでも飲んでも飲み飽きることがない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

◆おしてる 難波(なには)を過ぎて うち靡(なび)く 草香(くさか)の山を 夕暮れに 我が越え来れば 山も狭(せ)に 咲ける馬酔木(あしび)の 悪(あ)しからぬ 君をいつしか 行きて早(はや)見む

                (作者未詳 巻八 一四二八)

 

◆我(わ)が背子(せこ)に我(あ)が恋ふらくは奥山の馬酔木(あしび)の花の今盛(さかり)なり

               (作者未詳 巻十 一九〇三)

 

(訳)いとしいあの方に私がひそかに恋い焦がれる思いは、奥山に人知れず咲き栄えている馬酔木の花のように今真っ盛りだ。(同上)

 

(訳)おしてる 難波(なには)を通り過ぎて、風に靡く草香(くさか)の山を、夕暮れ時に私が越えて来ると、山も狭しと咲いている馬酔木、その馬酔木の名のように悪(あ)しくなどとはとても思えないお方、あの輝かしいお方に、いつになったらお逢いできるか、早く行ってお目にかかりたい、(同上)

 

◆春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄そるともよし

              (作者未詳 巻十 一九二六)

 

(訳)春山のあしびの花のあしではないが、あし―悪(あ)しきお人とも思えないあなたとなら、えいままよ、できてる仲だと噂されてもかまいません。(同上)

(注)上二句は序。「悪しからぬ」を起こす。

(注)しゑや 感動詞:えい、ままよ。▽物事を思い切るときに発する語。(学研)

(注)よそる【寄そる】自動詞:①自然と引き寄せられる。なびき従う。②うち寄せる。③異性との噂(うわさ)を立てられる。(学研) ここでは③の意

 

◆みもろは 人の守る山 本辺(もとへ)は 馬酔木(あしび)花咲く 末辺(すゑへ)は 椿花咲く うらぐはし 山ぞ 泣く子守る山

(作者未詳 巻十三 三二二二)

 

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その143)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

(訳)みもろの山は、人がたいせつに守っている山だ。麓(ふもと)のあたりには、一面に馬酔木の花が咲き、頂のあたりには、一面に椿の花が咲く。まことにあらたかな山だ。泣く子さながらに人がいたわり守、この山は。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)みもろ 【御諸・三諸・御室】:名詞 神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神の御座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など。特に、「三輪山(みわやま)」にいうこともある。また、神座や神社。「みむろ」とも。

(注)もとへ【本方・本辺】:名詞 ①もとの方。根元のあたり。②山のふもとのあたり。

(注)すゑへ【末方・末辺】:名詞 ①末の方。先端。②山の頂のあたり。◆上代語。

(注)うらぐはし 【うら細し・うら麗し】:形容詞 心にしみて美しい。見ていて気持ちがよい。すばらしく美しい。

 

◆鴛鴦(をし)の棲(す)む君がこの山斎(しま)今日(けふ)見れば馬酔木の花も咲きにけるかも

               (三形王 巻二〇 四五一一)

 

(訳)おしどりの仲良く棲むあなたのすばらしいお庭、今日来てこのお庭を見ると、馬酔木の花までが咲きほこっています。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)をし【鴛鴦】名詞:おしどりの古名。(学研)

 

◆池水(いけみづ)に影さえ見えて咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖(そで)に扱(こき)いれな

              (大伴家持 巻二十 四五一二)

 

(訳)お池の水の面に影までくっきり映しながら咲きほこっている馬酔木の花、ああ、このかわいい花をしごいて、袖の中にとりこもうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)こきいる【扱き入る】他動詞:しごいて取る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆磯影(いそかげ)の見ゆる池水(いけみづ)照るまでに咲ける馬酔木(あしび)の散らまく惜しも

(甘南備伊香真人 巻二〇 四五一三)

 

(訳)磯の影がくっきり映っている池の水、その水も照り輝くばかりに咲きほこる馬酔木の花が、散ってしまうのは惜しまれてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)甘南備伊香真人(かむなびのいかのまひと)

 

四五一一から四五一三歌の歌群の題詞は、「属目山斎作歌三首」<山斎(しま)を属目(しよくもく)して作る歌三首>である。

この三首については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その475)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

一四二八歌の「咲ける馬酔木の悪しからぬ」のように同音で「悪し」と掛けた例はこの歌のみである。小さな壷状の馬酔木の房になった花の見事さに「悪し(あし)」と言うのも憚られるからであろう。「馬酔木(あしび)の花ぞはしに置くなゆめ」

 

 

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吉野歴史資料館

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一から四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その771,772)―吉野町宮滝 宮滝野外学校前、河川交流センター―万葉集 巻一 三六、三七

―その771―

●歌は、「やすみしし 我が大君の きこしめす 天の下に 国はしも さはにあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は舟並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激く 滝の宮処は 見れど飽かぬかも」ならびに「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」である。

 

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吉野町宮滝 宮滝野外学校前万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、吉野町宮滝 宮滝野外学校前にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麿が作る歌>である

 

◆八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

                               (柿本人麻呂 巻一 三六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の きこしめす 天(あめ)の下(した)に 国はしも さはにあれども 山川(やまかは)の 清き河内(かうち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津(あきづ)の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人(おほみやひち)は 舟(ふな)並(な)めて 朝川(あさかは)渡る 舟競(ぎそ)ひ 夕川(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)激(そそ)く 滝(たき)の宮処(みやこ)は 見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)あまねく天の下を支配されるわれらが大君のお治めになる天の下に、国はといえばたくさんあるけれども、中でも山と川の清らかな河内として、とくに御心をお寄(よ)せになる吉野(よしの)の国の豊かに美しい秋津の野辺(のべ)に、宮柱をしっかとお建てになると、ももしきの大宮人は、船を並べて朝の川を渡る。船を漕ぎ競って夕の川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨したまう、水流激しきこの滝の都は、見ても見ても見飽きることはない。

(注)きこしめす【聞こし召す】他動詞:お治めになる。(政治・儀式などを)なさる。 ▽「治む」「行ふ」などの尊敬語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)かふち【河内】名詞:川の曲がって流れている所。また、川を中心にした一帯。 ※「かはうち」の変化した語。

(注)みこころを【御心を】分類枕詞:「御心を寄す」ということから、「寄す」と同じ音を含む「吉野」にかかる。「みこころを吉野の国」(学研)

(注)ちらふ【散らふ】分類連語:散り続ける。散っている。 ※「ふ」は反復継続の助動詞。上代語。(学研) 花散らふ:枕詞で「秋津」に懸る、という説も。

(注)たかしる【高知る】他動詞:立派に治める。(学研)

 

 

反歌をみていこう。

 

◆雖見飽奴 吉野乃河之 常滑乃 絶事無久 復還見牟

               (柿本人麻呂 巻一 三七)

 

≪書き下し≫見れど飽かぬ吉野の河の常滑の絶ゆることなくまた還り見む

 

(訳)見ても見ても見飽きることのない吉野の川、その川の常滑のように、絶えることなくまたやって来てこの滝の都を見よう。(同上)

(注)とこなめ【常滑】名詞:苔(こけ)がついて滑らかな、川底の石。一説に、その石についている苔(こけ)とも。(学研)

 

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野外学校前歌碑、宮滝碑、宮滝説明案内板

 吉野町HP「宮滝遺跡とは」に、「吉野宮」について次のような説明がなされている。「飛鳥時代天皇斉明天皇が吉野にお造りになられた離宮です。以来、大海人皇子(後に天武天皇)、持統天皇文武天皇元正天皇聖武天皇などの行幸がありました。特に、大海人皇子が吉野宮に来られた時には、壬申の乱という大きな内乱の起点となり、古代史上、大きな役割を果たしました。また、天皇行幸と共に、万葉集などの歌が詠まれました。」さらに、「宮滝遺跡」について「飛鳥時代から奈良時代にかけてあったとされる吉野宮の跡と考えられています。宮滝の集落のほぼ全域から、飛鳥時代奈良時代の遺物が確認されており、大型の掘立柱建物跡や池状遺構などが確認されています。」と書かれている。

 

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吉野宮滝野外学校

 歌碑のある「吉野宮滝野外学校」は、平成19年3月に閉校した吉野町立中荘小学校を改修し、平成22年4月29日、一般財団法人大阪府青少年活動財団の協力で吉野宮滝野外学校として生まれ変わったそうである。

 

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史跡宮滝遺跡

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宮滝碑

 

 吉野歴史資料館に行く予定であったが、左折ポイントを曲がり損ねて、Uターンすべく、回りこんできた先の橋が工事で通行止めであった。橋の手前の右手が「吉野宮滝野外学校」で、左手が「河川交流センター」であった。

ちなみに工事中の橋は、奈良県HPによると「奈良県景観資産―吉野川が眺望できる宮滝・柴橋―」と紹介されている。

 

次の目的地は「河川交流センター」である。難なく二か所の万葉歌碑に巡り逢うことができたのである。

 

 

―その772―

●歌は「見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む」である。

 

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河川交流センター万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、吉野町宮滝 河川交流センターにある。

 

●歌は、「その771」で紹介した、柿本人麻呂の「巻一 三七」である。

 

河川交流センターの次は、吉野歴史資料館である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「吉野町HP」

★「奈良県HP」