万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その881)―北九州市小倉北区 勝山公園万葉の庭(1)―万葉集 巻十二 三一六五

●歌は、「ほととぎす飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも」である。

 

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勝山公園万葉の庭(1)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、北九州市小倉北区 勝山公園万葉の庭(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆霍公鳥 飛幡之浦尓 敷浪乃 屡君乎 将見因毛鴨

              (作者未詳 巻十二 三一六五)

 

≪書き下し>ほととぎす飛幡(とばた)の浦(うら)にしく波のしくしく君を見むよしもがも

 

(訳)時鳥(ほととぎす)が飛ぶというではないが、その飛幡の浦に繰り返し寄せる波のように、しばしば重ねてあの方にお逢いできるきっかけがあったらなあ。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ほととぎす:飛幡(とばた 北九州市)の枕詞。

(注)しきなみ【頻波・重波】名詞:次から次へと、しきりに寄せて来る波。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上三句は序。「しくしく」を起こす。

(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)

(注)もがも 終助詞《接続》体言、形容詞・断定の助動詞の連用形などに付く。:〔願望〕…があったらなあ。…があればいいなあ。 ※上代語。終助詞「もが」に終助詞「も」が付いて一語化したもの。(学研)

 

 

 巻十二の部立「羇旅発思」には、三一二七から三一三〇歌四首が「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌であり。続く三一三一から三一七九歌までが、柿本人麻呂歌集を核として収録されている。そのなかで、三一六五から三一六八歌の四首は、「旅先の女をめぐる歌」(伊藤博氏)として、三一六五歌の脚注に書かれている。

 他の三首もみてみよう。

 

 

◆吾妹兒乎 外耳哉将見 越懈乃 子難懈乃 嶋楢名君

              (作者未詳 巻十二 三一六六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)を外(よそ)のみや見む越(こし)の海(うみ)の子難(こがた)の海の島ならなくに

 

(訳)かわいいあの子をよそながら見るだけで過ごさねばならぬというのか。越路の子難の海に浮かぶ島でもないのに。(同上)

(注)子難:所在未詳。女に逢い難いの意を懸ける。

 

 

◆浪間従 雲位尓所見 粟嶋之 不相物故 吾尓所依兒等

                (作者未詳 巻十二 三一六七)

 

≪書き下し≫波の間(ま)ゆ雲居(くもゐ)に見ゆる粟島(あはしま)の逢はぬものゆゑ我(わ)に寄(よ)そる子ら

 

(訳)波の間から雲居はるかに見え隠れする粟島、その名のように逢わずにいるのに、私との仲を言い立てられているよ、あの子は。(同上)

(注)粟島:所在未詳。「粟」に「逢は」を懸ける。

 

 

◆衣袖之 真若之浦之 愛子地 間無時無 吾戀钁

               (作者未詳 巻十二 三一六八)

 

≪書き下し≫衣手(ころもで)の真若の浦の真砂(まなご)地(つち)間(ま)なく時なし我(あ)が恋ふらくは             

 

(訳)真若の浦の真砂の浜、その名のような愛子(まなご)、あのかわいい子に、のべつまくなしだ。私が恋い焦がれるのは。(同上)

(注)衣手の(読み)コロモデノ [枕]:袖に関する「手(た)」「真袖(まそで)」「ひるがえる」などの意から、「た」「ま」「わく」「かへる」「なぎ」などにかかる。(コトバンク 小学館 デジタル大辞泉

(注)まなし【間無し】形容詞:①すき間がない。②絶え間がない。とぎれることがない③間を置かない。即座である。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)ま 【真】接頭語:〔名詞・動詞・形容詞・形容動詞・副詞などに付いて〕①完全・真実・正確・純粋などの意を表す。「ま盛り」「ま幸(さき)く」「まさやか」「ま白し」。②りっぱである、美しい、などの意を表す。「ま木」「ま玉」「ま弓」(学研)

(注)まなごつち【真砂地】:細かい砂地。まさごじ。まなごじ。 (weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

この三一六八歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その737)」で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

 勝山公園については、同HPに「勝山公園は『21世紀の都心のオアシス』をテーマに道路、河川と一体的に整備し、北九州市の顔として市内外から多くの人が集まる北九州市のシンボル公園として愛されています。市民のみなさまには休息、鑑賞、散歩、遊戯、運動など総合的に利用され、またその立地、規模、敷地の内外に紫川や小倉城など様々な資源を有することから、都市の潤いや市民憩いの場、防災の機能はもとより、都市のシンボルとしての役割も担っています。また多彩な集客イベントの場としても活用されることで、中心市街地の活性化にも寄与しています。」と書かれている。

「万葉の庭」については、残念ながら、園内地図にも記されていない。

 

 「北九州市 時と風の博物館」HPの「万葉の庭:勝山公園(文学碑・巨岩碑)」には、「1000年の昔、北九州市の門司・大里から小倉、戸畑にかけての海岸は、企救の長浜または、長浜といわれ、また、洞ノ海の戸畑側の飛幡の海と呼ばれる海岸まで、白砂の海岸に美しい根上がり松が群生していました。万葉集には、大宰府に往来する貴人や防人や、旅人たちが詠んだ美しいこの地にゆかりのある名歌6首が残されています。勝山公園には、これを巨大な自然石に刻んだ最大50トンと言われる本碑6石と現代語読みの副碑6石、および建設趣旨説明碑1石を設置し、永遠に残る市民のための文化の広場として昭和46年(1971)1月に【万葉の庭】が建設されました。《出典:北九州市教育委員会、万葉の庭建設委員会出版 『万葉の庭』から》」と解説されている。

行政の垣根の為せる業か。

 

 勝山公園地下駐車場に車を止める。地上に出て見ると、小倉城が見え、北九州市役所が建っている。案内地図も何もないので、市役所をほぼ一周する。先達らのブログを頼りに、道路を渡り、中央図書館を右手に見ながら歩く。左手の道をしばらく行くと、巨石の歌碑が目に飛び込んできた。結局園内案内図は一度も見ずである。まあ、到着したのだから、終わりよければ・・・である。

 

 HPにあったように「巨大な自然石に刻んだ最大50トンと言われる本碑・・・」には驚かされた。

 ここを見るだけでも、九州まで来た甲斐があったというものである。

 

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勝山公園「万葉の庭」

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 小学館 デジタル大辞泉

★「勝山公園HP」

★「北九州市 時と風の博物館HP」

万葉歌碑を訪ねて(その879、880)―北九州市小倉北区 貴布祢神社―万葉集 巻十二 三二一九、三二二〇

―その879―

●歌は、「豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ」である。

 

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貴布祢神社万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、北九州市小倉北区 貴布祢神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆豊國乃 聞之長濱 去晩 日之昏去者 妹食序念

               (作者未詳 巻十二 三二一九)

 

≪書き下し≫豊国(とよくに)の企救(きく)の長浜(ながはま)行き暮らし日の暮れゆけば妹(いも)をしぞ思ふ

 

(訳)豊国の企救の長浜、この長々と続く浜を日がな一日歩き続けて、日も暮れ方になってゆくので、あの子のことが思われてならない。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)企救:北九州市周防灘沿岸の旧郡名。

(注)ゆきくらす【行き暮らす】他動詞:日が暮れるまで歩き続ける。一日じゅう歩く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典

 

 

―その880―

●歌は、「豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ」である。

 

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貴布祢神社鳥居横「『企救の長浜』説明案内板」(作者未詳)

貴布祢神社鳥居横の「企救の長浜」説明案内板(北九州市教育委員会)に、三二一九、三二二〇歌が記されている。三二一九歌は、「その879」で紹介しているので、ここでは三二二〇歌をみてみる。

 

●歌は、「豊国の企救の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり」である。

 

歌をみていこう。

 

◆豊國能 聞乃高濱 高ゝ二 君待夜等者 左夜深来

               (作者未詳 巻十二 三二二〇)

 

≪書き下し≫豊国の企救の高浜(たかはま)高々(たかたか)に君待つ夜(よ)らはさ夜更(よふ)けにけり

 

(訳)豊国の企救の高浜、高々と砂丘の続くその浜ではないが、高々と爪立(つまだ)つ思いであなたの帰りを待っているこの夜は、もうすっかり更けてしまいました。(同上)

(注)上二句は序。「高々に」を起こす。

 

 

豊前国府跡公園を後にして、北九州市小倉区長浜町 貴布祢神社に向かう。京都(みやこ)郡みやこ町を京都ナンバーで走るのは、なんとなくご当地ナンバー的で面白いなんて思うのは我々だけだろうな。

公園からほぼ北上、一転して都会的雰囲気に包まれる。貴布祢神社は、小倉駅の東400m、国道199号線から脇に入ったやや入り組んだ住宅地の中にあるこじんまりとした神社である。

 

鳥居横の「企救の長浜」の説明案内板には、「小倉から門司の大里にかけての海岸は、『企救の長浜』とか『企救の高浜』と呼ばれていました。この長い海岸線には白砂と美しい根上り松が群生して、遠く万葉の昔から大宰府に往来する貴人や防人たちぼ心を慰めたものでした。(中略)江戸時代、門司口橋を渡ったところに門司口門がありました。小倉城郭の門の一つで、この前の道は、大里方面に通じる九州諸大名の参勤交代の道でした。」と書かれている。

 

 国道199号線から脇に入った道は神社の近くで、少し駆け上がりになっていた。運転をしていて、なんでこんなところに駆け上がりがあるのだろうと、一瞬不思議に思ったことを思いだした。「企救の長浜」の説明案内板をみて、駆け上がりは、海岸の岸辺であったのかもしれない、と自分なりに納得したのであった。国道199号線辺りから今の海岸までは埋め立てで、神社近くの駆け上がり気味のところ辺りが海岸線で、神社の前の道を参勤交代の行列が通ったのであろう。この辺りは、万葉時代から白砂青松のの地であったのだろう。残念ながら今は見る影もないが、自然環境と経済についても考えさせられる場面でもある。

 

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貴布祢神社社殿

 

三二二〇歌は、巻十二の巻末歌である。

巻十二の構成は、

 正述心緒 二八四一~二八五〇歌

 寄物陳思 二八五一~二八六三歌 右廿三首柿本朝臣人麻呂之歌集出

 正述心緒 二八六四~二九六三歌

 寄物陳思 二九六四~三一〇〇歌

 問答歌  三一〇一~三一二六歌

 羇旅発思 三一二七~三一三〇歌 右四首柿本朝臣人麻呂歌集出

      三一三一~三一七九歌

 悲別歌  三一八〇~三二一〇歌

 問答歌  三二一一~三二二〇歌、 となっている。

 

神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)のなかで、巻十二の編纂に関して、「人麻呂歌集歌を拡大して歌の世界のひろがりをあらわし」ている、と述べておられる。

 万葉集目録には、巻十一は「古今相聞往来歌類の上」、巻十二は「古今相聞往来歌類の下」とある。これを踏まえ、「人麻呂歌集歌が『相聞』においてさまざまな主題をてんかいしたものとしてあり、それを拡大して『古今』の歌をまとめて載せたということを見るべきです。」とも述べておられる。

 

 三二一九、三二二〇歌の左注「右の二首」の脚注に、伊藤 博氏は「やはり筑紫路の歌で、これは羇旅発思の問答。この一組、人麻呂歌集の羇旅発思三一二七~三一三〇に呼応させての配列らしい。三一三〇に『豊国の企救』が詠み込まれている。」と書かれている。

 

 柿本人麻呂歌集を核にしたといえ、様々な歌集をものみこみ、体系をつくりあげていくところにも万葉集たる所以があると言えるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その878)―豊前国府跡公園万葉歌の森(10)―万葉集 巻九 一七六七 

●歌は、「豊国の香春は我家紐児にいつがり居れば香春我家」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(10)万葉歌碑(抜気大首)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(10)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その872)で紹介している。

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tom101010.hatenablog.com

 

◆豊國乃 加波流波吾宅 紐兒尓 伊都我里座者 革流波吾家

               (抜気大首 巻九 一七六七)

 

≪書き下し≫豊国(とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ)紐児(ひものこ)にいつがり居(を)れば香春は我家

 

(訳)豊の国の香春は我が家だ。かわいい紐児にいつもくっついていられるのだもの。香春は我が家だ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)いつがる【い繫る】自動詞:つながる。自然につながり合う。 ※上代語。「い」は接頭語。(学研)

 

 旅先の地を「我が家」と詠うことで、溢れんばかりの愛情を込め、「香春は我が家」と二度繰り返してその喜びを歌い上げている。

 

 反復表現て喜びを表す歌としては、何といっても藤原鎌足の歌であろう。

 こちらもみてみよう。

 

◆吾者毛也 安見兒得有 皆人乃 得難尓為云 安見兒衣多利

                 (藤原鎌足 巻二 九五)

 

≪書き下し≫我れはもや安見児得たり皆人(みなひと)の得かてにすといふ安見児得たり

 

(訳)おれはまあ安見児を得たぞ。お前さんたちがとうてい手に入れがたいと言っている、この安見児をおれは我がものとしたぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)もや 分類連語:…まあ。…よ。▽感動・詠嘆を表す。 ※上代語。 ⇒なりたち詠嘆の終助詞「も」+詠嘆の間投助詞「や」(学研)

(注)安見児:采女の名前

(注)かてに 分類連語:…できなくて。…しかねて。 ⇒なりたち 可能等の意の補助動詞「かつ」の未然形+打消の助動詞「ず」の上代の連用形(学研)

 

 

 題詞は、「内大臣藤原卿娶采女安見兒時作歌一首」<内大臣藤原卿、采女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶(めと)る時に作る歌一首>

 

 藤原鎌足の正妻は鏡王女である。

 この歌は、鏡王女との結婚後のことで、鎌足は、采女(うねめ)安見児(やすみこ)を娶って有頂天になっていることを歌っている。

 

 「采女」とは、天皇の御膳その他について奉仕する宮中の女官である。諸国の郡少領(次官)以上の娘で容姿端正なものが選ばれるのである。采女は、天皇に所属するいわば、「物体的人間」であり、恋愛はかたく禁じられていた。まさに、「皆人の得難(えかて)にす」る者であった。それを鎌足は得たのである。功臣鎌足への特別待遇の何物でもない。それだけに喜びも一入だったに違いない。

 

 この鎌足の歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その112)」で紹介している。

 ➡ 

皇族でない藤原鎌足は、鏡王女を正妻とし、後には采女も得ている(万葉歌碑を訪ねて―その112―) - 万葉集の歌碑めぐり

 

 

このような反復表現に関しての研究が、「古典和歌における反復表現の諸相」(福田智子 著 · 2002)に、万葉集からと平安以降室町時代の「新続古今集」までの勅撰集等22の歌集に載る約40,000首から、5字以上の同一文字列が2回含まれる歌を48首抽出し、分布状況、表現効果などがまとめられている。

 万葉集が23首あり約半数を占めている。時代が経つにつれ反復表現が減少していると分析されている。

 

 一方、和歌と異なり、旋頭歌の場合は、第三句と結句を繰り返すものが多い。

 次の旋頭歌をみてみよう。

 この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その39)」で紹介している。(初期のブログですので、朝食のサンドイッチやデザートの写真も載っていますがご容赦下さい)

  ➡

万葉の時代の元興寺の僧も「いいね」が欲しかったようです(万葉歌碑を訪ねて 39,40,41) - 万葉集の歌碑めぐり

 

題詞は、「十年戌寅元興寺之僧自嘆歌一首」<十年戌寅(つちのえとら)に、元興寺(ぐわんごうじ)の僧(ほふし)が自(みづか)ら嘆く歌一首>である。

 

◆白珠者 人尓不所知 不知友縦 雖不知 吾之知有者 不知友任意

               (元興寺之僧 巻六 一〇一八)

 

≪書き下し≫白玉(しらたま)は人に知らえず知らずともよし 知らずとも我(わ)れし知れらば知らずともよし

 

(訳)白玉はその真価を人に知られない。しかし、知らなくてもよい。人知らずとも、自分さえ価値を知っていたら、知らなくてもよい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)しらたま【白珠】:白色の美しい玉。また、愛人や愛児をたとえていうこともある。(学研)ここでは、自分の優れた才能の譬え。

 

 左注は、「右一首或云 元興寺之僧獨覺多智 未有顕聞 衆諸猥侮因此僧作此歌自嘆身才也」<右の一首は、或は「元興寺の僧、独覚(どくかく)にして多智(たち)なり。いまだ顕聞(けんぶん)あらねば、衆諸(もろひと)猥侮(あなづ)る。これによりて、僧この歌を作り、自ら身の才を嘆く>である。

(注)独覚(どっかく)〘名〙: 仏教語。三乗の一つ。仏の教えによらないで自力で悟りをひらき、静かに孤独を楽しんで、利他のための説法をしない聖者。縁覚。辟支仏(びゃくしぶつ)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)多智(たち)〘名〙:仏教語。 知恵にすぐれていること。知恵の多いこと。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)顕聞(けんぶん)あらねば:世間に知られていなかったので

(注)あなづる【侮る】他動詞:軽べつする。あなどる。 ※参考 現代語「あなどる」のもとになった語。(学研)

 

 旋頭歌(せどうか)については、「ブリタニカ国際大百科事典」には、「古代の歌謡,和歌の一形式。5・7・7・5・7・7音を基本とする。記紀歌謡に4首,『万葉集』に 62首収録されているが,『万葉集』も中期頃までのものがほとんどであり,それ以後はごくまれで,歌体としての生命は尽きたとみられる。それは,この歌体が歌謡の世界に生れ,歌謡独自のかけあい的対立様式を濃厚にもっており,そのため短歌のように個人の抒情詩へ転換することが困難であったためと考えられる。(後略)」と書かれている。

 

 万葉集は「口誦」から「記載」へと転換する時期の歌を収録しているので、多様性が見いだせるのである。文字の使用により、より文学意識なるものが芽生え、「口誦」のことばの「伸びやかさ」が失われてくるのである。稲岡耕二氏は、「万葉集の世界」(「別冊國文學 万葉集必携」(學燈社)の中で、「人麻呂というトンネルを抜けると、万葉集の歌が急にわかりやすくなってくる(中略)ことばが知的に散文化し、明瞭になるとともに響きの強さと情的なふくらみを失ってゆく(後略)」と書かれている。

 ここにも万葉集万葉集たる所以が隠されているように思えるのである。恐るべし万葉集である。

 

 豊前国府跡公園万葉歌の森の歌碑を見終えたので、遺跡を見学し、次の目的地、北九州市小倉北区長浜町にある貴布祢神社に向かった。

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中門址

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築地塀



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「古典和歌における反復表現の諸相」 (福田智子 著 · 2002)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「ブリタニカ国際大百科事典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その875,876,877)―豊前国府跡公園万葉歌の森(7)(8)(9)―万葉集 巻一 二〇、巻六 一〇〇九、巻八 一五三八

―その875-

●歌は、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(7)万葉歌碑(額田王

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(7)にある。

 

●歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その170)」他で紹介している。

(その170)では、額田王長歌3首、短歌10首の書き下しだけであるが、すべてを載せている。

 ➡ 

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◆茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

             (額田王 巻一 二〇)

 

≪書き下し≫あかねさす紫野行き標野(しめの)行き野守(のもり)は見ずや君が袖振る

 

(訳)茜(あかね)色のさし出る紫、その紫草の生い茂る野、かかわりなき人の立ち入りを禁じて標(しめ)を張った野を行き来して、あれそんなことをなさって、野の番人が見るではございませんか。あなたはそんなに袖(そで)をお振りになったりして。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)あかねさす【茜さす】分類枕詞:赤い色がさして、美しく照り輝くことから「日」「昼」「紫」「君」などにかかる。

(注)むらさき 【紫】①草の名。むらさき草。根から赤紫色の染料をとる。②染め色の一つ。①の根で染めた色。赤紫色。古代紫。古くから尊ばれた色で、律令制では三位以上の衣服の色とされた。

(注)むらさきの 【紫野】:「むらさき」を栽培している園。

(注)しめ【標】:神や人の領有区域であることを示して、立ち入りを禁ずる標識。また、道しるべの標識。縄を張ったり、木を立てたり、草を結んだりする。

 

 

 額田王の歌に和した大海人皇子天武天皇)の歌は次の通りである。

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その171)他で紹介している。

  ➡ 

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◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

天武天皇 巻一 二一)

 

≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも

 

(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 両歌の歌碑で紹介したいのは、滋賀県東近江市万葉の森船岡山の「蒲生野狩猟レリーフ」横の歌碑ならびに船岡山山頂付近の歌碑である。

ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その258、259)」で紹介している。

 ➡ 

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―その876―

歌は、「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」である。

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豊前国府跡公園万葉歌の森(8)万葉歌碑(聖武天皇


 

歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(8)みある。

 

歌をみていこう。

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その480)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

               (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞

①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。

②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。

③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。

④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

 

 

 

―その877―

歌は、「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(9)万葉歌碑(山上憶良

歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(9)にある。

 

歌をみていこう。

 

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花

                  (山上憶良 巻八 一五三八)

   ▼は、「白の下に八」である。「朝▼」で「あさがほ」

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(伊藤 博著「萬葉集 二」角川ソフィア文庫より)

(注)一五三八歌は旋頭歌体である。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その62改)」で、1537歌については、同(その61改)」で、奈良市春日大社境内の歌碑と共に紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その874)―豊前国府跡公園万葉歌の森(6)―万葉集 巻十六 三八七六

●歌は、「豊国の企救の池なる菱の末を摘むとや妹がみ袖濡れけむ」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(6)万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(6)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆豊國 企玖乃池奈流 菱之宇礼乎 採跡也妹之 御袖所沾計武

              (作者未詳 巻十六 三八七六)

 

≪書き下し≫豊国(とよくに)の企救(きく)の池なる菱(ひし)の末(うれ)を摘むとや妹がみ袖濡れけむ

 

(訳)豊国の企救(きく)の池にある菱の実、その実を摘もうとでもして、あの女(ひと)のお袖があんなに濡れたのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)企救(きく):北九州市周防灘沿岸の旧都名。フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の小倉市の歴史の項に「律令制下では豊前国企救郡(きくぐん)の一地域となる。」とある。

(注)袖濡れえむ:自分への恋の涙で濡れたと思いなしての表現。

 

 題詞は、「豊前國白水郎歌一首」<豊前(とよのみちのくち)の国の白水郎(あま)の歌一首>である。

(注)はくすいろう【白水郎】:《「白水」は中国の地名。水にもぐることのじょうずな者がいたというところから》漁師。海人(あま)。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉

 

ヒシは、葉の形が特徴的で、菱型という言葉はその葉の形からきているとされている。ヒシは一年生の水草で、七月頃、白い花を咲かせる。それから棘のある特徴的な実をつける。この実は食用になり、栗に似た味がするそうである。

 

 万葉集には、ヒシを詠んだ歌がもう1首収録されている。こちらもみてみよう。

 

 

◆君為 浮沼池 菱採 我染袖 沾在哉

              (作者未詳 巻七 一二四九)

 

≪書き下し≫君がため浮沼(うきぬ)の池の菱(ひし)摘むと我(わ)が染(そ)めし袖濡れにけるか

 

(訳)あの方に差し上げるために、浮沼の池の菱の実を摘もうとして、私が染めて作った着物の袖がすっかり濡れてしまいました。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

 左注に「右の四首は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」とある。

 

 

 三八七六歌は、巻十六に収録されている。巻十六は、巻頭に「有由縁幷雑歌」とある。「有由縁幷せて雑歌」ないし「有由縁、雑歌を幷せたり」と訓読され、「『由縁』(ことの由来)ある歌と雑歌」を収録している標示であると理解される。ただ、「目録」には、「幷」の文字はなく、「有由縁雑歌」であることから、「由縁有る雑歌」とする説もある。

 

 ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その116)」にも触れているが、神野志隆光氏は、その著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」(東京大学出版会)の中で、単なる「由縁ある雑歌」を収録したものではないとして「『由縁』(ことの由来)ある歌と雑歌」を収録しているとしている。その理由として、巻十六は、大きく分けて、次の五つのグループに分けられると分析されている。

 

①題詞が、物語的な内容をもち、歌物語といえるような歌のグループ(三七八六~三八〇五歌)

②題詞でなく、左注が歌物語的に述べる歌のグループ(三八〇六~三八一五歌)

③いろいろな物を詠いこまれるように題を与えられたのに応じた形の歌のグループ(三八二四~三八三四歌)(三八五五~三八五六歌)

④「嗤う歌」と題詞にいう歌のグループ(三八四〇~三八四七歌)

⑤国名を題詞に掲げる歌のグループ(三八七六~三八八四歌)

 

 巻十六は、①②のように物語的な内容を踏まえた歌、まさに「有由縁」歌であり、そのほかは他の巻とは異なる視点からの「雑歌」を集めた形をなしており、「歌物語をはじめとして、雑多な、歌においてありうるこころみを(万葉集として)つくして見せ」ていると述べておられる。

 

 三八七六歌は、上記の⑤国名を題詞に掲げる歌のグループ の先頭歌である。

 国名のある題詞を並べて見ると次の通りである。

 「豊前(とよのみちのくち)の国の白水郎の歌一首」(三八七六歌)

 「豊後(とよのみちのしり)の国の白水郎の歌一首」(三八七七歌)

 「能登(のと)の国の歌三首」(三八七八~三八八〇歌)

 「越中(こしのみちのなか)の国の歌四首」(三八八一~三八八四歌)

 

 巻十六の三八八五歌以降は、上記五グループに続いて、「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠う歌二首>(三八八五、三八八六歌)ならびに「怕物歌三首」<怕(おそ)ろしき物の歌三首(三八八七~三八八九歌)がある。

 

 「乞食者詠二首」については、

 三八八五歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その305)」で紹介している。

  ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 三八八六歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その213)」で紹介している。

  ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 (初期のブログですので、朝食のサンドイッチやデザートの写真も載っていますがご容赦下さい。)

 

しいて上記グループと並べるならば、「その他雑歌」グループとなろうか。これらは確かに異質である。

(注)ほかひびと 【乞児・乞食者】名詞:物もらい。こじき。家の戸口で、祝いの言葉などを唱えて物ごいをする人。「ほかひひと」とも。

(注)怕物歌:畏怖の対象となる物を題材とした歌。

 

万葉集は、このように多種多様な歌を集め、それなりの体系にまとめ編纂されている。ここにも、万葉集万葉集たる所以がある。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館デジタル大辞泉

★「フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

 

万葉歌碑を訪ねて(その873)―豊前国府跡公園万葉歌の森(5)―万葉集 巻六 九五九 

●歌は、「行き帰り常に我が見し香椎潟明日ゆ後には見むよしもなし」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(5)万葉歌碑(宇努首男人)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(5)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「豊前守宇努首男人歌一首」<豊前守(とよのみちのくちのかみ)宇努首男人(うののおびとをひと)が歌一首>である。

(注)宇努首男人:百済系渡来人の子孫。養老四年(720年)以来豊前守。

 

◆徃還 常尓我見之 香椎滷 従明日後尓波 見縁母奈思

               (宇努首男人 巻六 九五九)

 

≪書き下し≫行く帰り常に我(わ)が見し香椎潟(かしひかた)明日(あす)ゆ後(のち)には見むよしもなし

 

(訳)大宰府への行きにも帰りにも、いつも見馴れた香椎の潟、私にとってもそんなに懐かしい香椎潟でありますが、明日からのちは見るすべもありません。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)明日ゆ後には:遷任することが決まっていたのであろう。

 

 標題は、「冬十一月大宰官人等奉拜香椎廟訖退歸之時馬駐于香椎浦各述作懐歌」<冬の十一月に、大宰(だざい)の官人等(たち)、香椎(かしい)の廟(みや)を拝(をろが)みまつること訖(をは)りて、退(まか)り帰る時に、馬を香椎の浦に駐(とど)めて、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。

 

大伴旅人、小野老の歌もみてみよう。

 

 題詞は、「帥大伴卿歌一首」<帥大伴卿が歌一首>である。

 

◆去来兒等 香椎乃滷尓 白妙之 袖左倍所沾而 朝菜採手六

                (大伴旅人 巻六 九五七) 

 

≪書き下し≫いざ子ども香椎(かしひ)の潟(かた)に白栲(しろたへ)の袖(そで)さへ濡(ぬ)れて朝菜(あさな)摘みてむ

 

(訳)さあ皆の者、この香椎の干潟で、袖の濡れるのも忘れて、朝餉(あさげ)の藻を摘もうではないか。(同上)

(注)いざ子ども:宴席等で目下の者を呼ぶ慣用語。

(注)白妙の、以下の表現は、朝菜を採る海人娘子を見ているからであろう。

 

 

つづいて小野老の歌である。

 

題詞は、「大貳小野老朝臣歌一首」<大弐(だいに)小野老朝臣(をののおゆのあそみ)が歌一首>である。

 

◆時風 應吹成奴 香椎滷 潮干汭尓 玉藻苅而名

               (小野老 巻六 九五八)

 

≪書き下し≫時つ風吹くべくなりぬ香椎潟(かしひがた)潮干(しほひ)の浦に玉藻(たまも)刈りてな

 

(訳)海からの風が吹き出しそうな気配になってきた。香椎潟の潮の引いているこの入江で、今のうちに玉藻を刈ってしまいたい。(同上)

(注)ときつかぜ【時つ風】名詞:①潮が満ちて来るときなど、定まったときに吹く風。

②その季節や時季にふさわしい風。順風。 ※「つ」は「の」の意の上代の格助詞。

(注)ときつかぜ【時つ風】分類枕詞:決まったときに吹く風の意から「吹く」と同音を含む地名「吹飯(ふけひ)」にかかる。「ときつかぜ吹飯の浜に」(学研)

 

 この歌群に詠まれている背景や情景について、國學院大學デジタルミュージアムの「万葉神事語事典」に次のように書かれている。よくわかるので長いが引用させていただきます。

 

「香椎 Kashii:地名。福岡県福岡市東区香椎。香椎宮がある。仲哀天皇の宮として、記に『筑紫の訶志比宮』、紀に『橿日宮』。熊曽征討、新羅出兵の根拠地。香椎宮仲哀天皇神功皇后を祭神とし、応神天皇及び住吉大神を配祀する。万葉集では、728(神亀5)年冬11月、大宰の官人等、香椎廟に参拝し、終わって帰るときに馬を香椎の浦に止め、大伴旅人・小野老・宇努男人がそれぞれ胸中を述べて作った歌が記されている(6-957~959)。旅人の歌は、一行に対して、袖の濡れるのも忘れて香椎の干潟で朝菜の海藻を摘もうというもの。それを受けた老の歌は、海からの風が吹きそうになってきたから、今のうちに玉藻を刈ってしまおうというもの。香椎廟参拝を終えた後の晴れやかでくつろいだ心情が窺える。対して男人の歌は、大和へと帰任することに対する名残惜しさを詠んでおり、大宰府への行き帰りにいつも見ていた香椎潟であるけれど、明日からはもう見るすべもないと、香椎潟への惜別の情が伺える。香椎宮編年記の記事によれば、大宰帥国司郡司を率いて香椎廟に参拝することは重要な年中行事であったと思われ、その時期は11月6日であったという。『続日本紀』の737(天平9)年4月乙巳条に、対新羅関係を諸神に報告する記事中に、伊勢神宮大神神社・筑紫の住吉社・八幡社と並んで、この香椎廟が見える。万葉集や『続日本紀』に『廟』と見えることから、奈良時代には『香椎廟』が公称であったと見られ、通常の神社とは性格が異なるもののようである。記紀にみる仲哀天皇の宮がその廟所となり、仲哀天皇神功皇后の霊を祀った所であったためであると見られる。737年の記事は新羅との外交問題に関したものであるところからすれば、神功皇后新羅遠征伝承に基づいての参拝であったと思われる。『仙覚註釈』に引かれた風土記逸文には、筑紫の国に到れば先ず哿襲宮(香椎宮)に参拝することを常とする、と記している。 谷口雅博」

 

 「香椎廟」参拝の公式行事を終え、香椎潟で海人娘子たちの藻を採る光景をみて、我々も採ろうと発する旅人、老はそれに応じ、時津風が吹くまでに早く採りましょうと言い、遷任が決まっている男人が、そんなにあせらずにもっとゆっくり、とそれぞれの思いを述べあっている掛け合いが見事な歌群である。

 このような連鎖はいつの時代もうけるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語事典」 (國學院大學デジタルミュージアム

万葉歌碑を訪ねて(その872)―豊前国府跡公園万葉歌の森(4)―万葉集 巻 三 三一一

●歌は、「梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも」である。

 

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豊前国府跡公園万葉歌の森(4)万葉歌碑(くらつくり村主益人)

●歌碑は、豊前国府跡公園万葉歌の森(4)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「▼作村主益人従豊前國上京時作歌一首」<▼作村主益人(くらつくりのすぐりますひと)、豊前(とよのみちのくち)の国より京へ上(のぼ)る時に作る歌一首>である

   ※ ▼は「木(へん)+安」で「くら」である。

(注)▼作村主益人:伝未詳

(注)豊前国:福岡県東部と大分県北西部

 

◆梓弓 引豊國之 鏡山 不見久有者 戀敷牟鴨

              (▼作村主益人 巻三 三一一)

 

≪書き下し≫梓弓(あづさゆみ)引き豊国(とよくに)の鏡山(かがみやま)見ず久(ひさ)ならば恋(こひ)しけむかも

 

(訳)梓弓を引っ張って響(とよ)もすという豊の国、住み馴れた豊国の鏡山、この山を久しく見ないようになったら、恋しく思われてならないだろうな。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)あづさゆみ【梓弓】分類枕詞:①弓を引き、矢を射るときの動作・状態から「ひく」「はる」「い」「いる」にかかる。②射ると音が出るところから「音」にかかる。③弓の部分の名から「すゑ」「つる」にかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)「梓弓引き」は、序。「豊國」を起こす。引っぱって響(とよ)もすの意。

(注)鏡山:福岡県田川郡香春(かわら)の町の山

 

 「鏡山」について知りたくて検索してみると、田川広域観光協会HPの「たがわネット 田川まるごと博物館」のブログ「香春町の鏡山神社と万葉歌碑巡り」に、鏡山神社の由来や、「官道が通り、宿駅であったため、人や文化の交流が盛んで」あったと記されている。さらに、近隣の万葉歌碑七基についても書かれていた。

 豊前国府跡公園から車で20分の所である。ノーマークであった。

 機会があれば是非訪れてみたいと思った。

 

 ここに、三一一歌以外で、紹介されていた歌についてみてみよう。

題詞は、「河内王葬豊前國鏡山之時手持女王作歌三首」<河内王(かふちのおほきみ)を豊前(とよのみちのくち)の国の鏡(かがみ)の山に葬(はふ)る時に、手持女王(たもちのおほきみ)が作る歌三首>である。

(注)河内王:持統三年(689年)大宰帥。同八年四月没。

(注)豊前国:福岡県東部と大分県北西部。

(注)手持女王:伝未詳。河内王の妻か。

 

◆王之 親魄相哉 豊國乃 鏡山乎 宮登定流

               (手持女王 巻一 四一七)

 

≪書き下し≫大君(おほきみ)の和魂(にきたま)あへや豊国(とよくに)の鏡(かがみ)の山を宮と定むる

 

(訳)わが大君の御心にかなったというのであろうか。そんなはずもないのに、わが君は、

都を離れた豊国の鏡の山なんぞを常宮(とこみや)とお定めになった。(同上)

(注)にきたま=にきみたま【和御魂】名詞:柔和な徳を備えた神霊。「にきたま」とも。※「にき」は接頭語。中古以降は「にぎみたま」とも。[反対語] 荒御魂(あらみたま)。(学研)

(注)や 係助詞:《接続》種々の語に付く。活用語には連用形・連体形(上代には已然形にも)に付く。文末に用いられる場合は活用語の終止形・已然形に付く。 <文末にある場合。>①〔疑問〕…か。②〔問いかけ〕…か。③〔反語〕…(だろう)か、いや、…ない。(学研) ここでは③の意

 

 

◆豊國乃 鏡山之 石戸立 隠尓計良思 雖待不来座

               (手持女王 巻一 四一八)

 

≪書き下し≫豊国の鏡の山の岩戸(いはと)立て隠(こも)りにけらし待てど来(き)まさぬ

 

(訳)御心にかなうはずもない豊国の鏡の山の常宮(とこみや)、その石戸を閉ざして籠(こも)ってしまわれたらしい。いくらお待ちしてもおいでになっては下さらない。(同上)

 

 

◆石戸破 手力毛欲得 手弱寸 女有者 為便乃不知苦

               (手持女王 巻一 四一九)

 

≪書き下し≫岩戸破(わ)る手力(たぢから)もがも手(た)弱(よわ)き女(をみな)にしあればすべの知らなく

 

(訳)岩戸をうちくだく力がこの手にあったらな。ああ、か弱い女の身であるので、どうしてよいか手だてがわからない。(同上)

 

 この三首は、「鏡」「岩戸」「手力(手力男神)」の組み合わせによって天岩屋戸神話を踏まえた歌になっている。

 

 もう一つの歌群をみてみよう。

 

 一七六七から一七六九歌の題詞は、「抜氣大首任筑紫時娶豊前國娘子紐兒作歌三首」<抜気大首(ぬきのけだのおびと)、筑紫(つくし)に任(ま)けらゆる時に、豊前(とよのみちのくち)の国の娘子(をちめ)紐児(ひものこ)を娶(めと)りて作る歌三首>である。

(注)抜気大首:伝未詳

(注)紐児:遊行女婦の名か。

 

◆豊國乃 加波流波吾宅 紐兒尓 伊都我里座者 革流波吾家

               (抜気大首 巻九 一七六七)

 

≪書き下し≫豊国(とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ)紐児(ひものこ)にいつがり居(を)れば香春は我家

 

(訳)豊の国の香春は我が家だ。かわいい紐児にいつもくっついていられるのだもの。香春は我が家だ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)いつがる【い繫る】自動詞:つながる。自然につながり合う。 ※上代語。「い」は接頭語。(学研)

 

 旅先の地を家(家郷)ということで愛情を誇張している。しかも二度繰り返している。書き手も「加波流波吾宅」を二度目は「革流波吾家」と変はる表記をしており遊び心が感じられる。

 

 

◆石上 振乃早田乃 穂尓波不出 心中尓 戀流比日

               (抜気大首 巻九 一七六八)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ)布留(ふる)の早稲田(わさだ)の穂(ほ)には出(い)でず心のうちに恋ふるこのころ

 

(訳)石上の布留の早稲田の稲が他にさきがけて穂を出す、そんなように軽々しく表に出さないようにして、心の中で恋い焦がれているこのごろだ。(同上)

(注)いそのかみ【石の上】分類枕詞:今の奈良県天理市石上付近。ここに布留(ふる)の地が属して「石の上布留」と並べて呼ばれたことから、布留と同音の「古(ふ)る」「降る」などにかかる。「いそのかみ古き都」(学研)

(注)上二句は序。「穂に出づ」を越す。

 

 

◆如是耳志 戀思度者 霊剋 命毛吾波 惜雲奈師

               (抜気大首 巻九 一七六九)

 

≪書き下し≫かくのみし恋ひしわたればたまきはる命(いのち)も我(わ)れは惜しけくもなし

 

(訳)こんなにただひたすらに恋い焦がれてばかりいるのでは、このたいせつな命あえ、私は惜しいとは思わない。(同上)

 

 

 奈良県天理市の「石上の布留の」と詠んだ歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その51改,52改,54改)で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「たがわネット 田川まるごと博物館」 (田川広域観光協会

 

※20230519 リンク訂正