万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1201)ー和歌山市加太 城ケ崎海岸―万葉集 巻七 一一九九

●歌は、「藻刈り舟沖漕ぐ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ」である。

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和歌山市加太 城ケ崎海岸万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、和歌山市加太 城ケ崎海岸にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆藻苅舟 奥榜来良之 妹之嶋 形見之浦尓 鶴翔所見

                  (巻七 一一九九)

 

≪書き下し≫藻刈(もか)り舟沖漕(こ)ぎ来(く)らし妹(いも)が島形見(かたみ)の浦に鶴(たづ)翔(かけ)る見(み)ゆ(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

 

(訳)海藻(も)を刈り取る海人の舟が沖を漕いでやってくるらしい。今しも、妹が島の形見の浦に鶴が飛び交(か)っている。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)もかりぶね【藻刈り舟】名詞:海藻を刈るのに用いる小舟。「藻舟」「めかりぶね」とも(学研)

(注)妹が島:所在未詳

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城ケ崎海岸説明案内板

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崎の先端部にある歌碑と説明案内板

 

 海藻ならびに藻刈り舟に関して、廣野 卓氏は、その著「食の万葉集 古代の食生活を科学する」(中公新書)の中で、「海藻は、潮間帯岩礁に着生するものが多く採集も容易である。まして、引き潮どきには、ほとんどの海藻が鎌で刈り取れる範囲にあり、あちこちの磯で採集風景が見られただろう。深場の海藻は竿に鎌を海中を手操(たぐ)るようにして刈り取る。この動作から『玉藻刈る』という表現が生まれる。藻刈舟もあるので、干潮時に波間に頭を出す深場の海藻を舟から刈り取ることもあった。この作業は現代も変わらない。」と書いておられる。

(注)たまもかる【玉藻刈る】分類枕詞:玉藻を刈り採っている所の意で、海岸の地名「敏馬(みぬめ)」「辛荷(からに)」「乎等女(をとめ)」などに、また、海や水に関係のある「沖」「井堤(ゐで)」などにかかる。

(注の注)たまも【玉藻】名詞:藻の美称。 ※「たま」は接頭語。

 

海藻を詠んだ歌をいくつかみてみよう。

 

■なのりそ「ホンダワラ

題詞は、「山部宿祢赤人歌六首」<山部宿禰赤人が歌六首>である。

 

◆美沙居 石轉尓生 名乗藻乃 名者告志弖余 親者知友

               (山部赤人 巻三 三六二)

 

≪書き下し≫みさご居(ゐ)る磯(いそ)みに生(お)ふるなのりその名は告(の)らしてよ親は知るとも

 

(訳)みさごの棲んでいる荒磯に根生えているなのりそではないが、名告ってはいけない名前、その名は大切だろうが名告っておくれ。たとえ親御は気付いても。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みさご【鶚・雎鳩】名詞:鳥の名。猛禽(もうきん)で、海岸・河岸などにすみ、水中の魚を捕る。岩壁に巣を作り、夫婦仲がよいとされる。(学研)

(注)上三句は序。「名」を起こす。

(注)なのりそ 名詞:海藻のほんだわらの古名。正月の飾りや、食用・肥料とする。(学研)➡「勿告りそ」の意を懸ける。

(注)名は告らしてよ:旅先の女に求婚したことを意味する。三六一歌を承けたかたち。

 

この歌ならびに他の首および、題詞「或本歌曰」<或る本の歌に日はく>の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その614)」で紹介している。

➡ 

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■あらめ「アラメ」

 いかにあらめ(どうなることでしょう)を、書き手が遊び心で「あらめ」を「荒海藻」と記したのである。それだけ身近な存在だったのであろう。

 

◆豫 人事繁 如是有者 四恵也吾背子 奥裳何如荒海藻

              (大伴坂上郎女 巻四 六五九)

 

≪書き下し≫あらかじめ人言(ひとごと)繁(しげ)しかくしあらばしゑや我(わ)が背子(せこ)奥(おく)もいかにあらめ

 

(訳)今のうちから人の噂がいっぱいです。こんなだったら、ああいやだ、あなた、この先もどうなることでしょう、まっくらです。(同上)

(注)あらかじめ【予め】副詞:前もって。かねて。

(注)しゑや 感動詞:えい、ままよ。※物事を思い切るときに発する語。(同上)

(注)おく【奥】名詞:①物の内部に深く入った所。②奥の間。③(書物・手紙などの)最後の部分。④「陸奥(みちのく)」の略。▽「道の奥」の意。⑤遠い将来。未来。行く末。

⑥心の奥(同上) ※ここでは、⑤の意

 

 

■みる「ミル」 ここでは「なのりそ」も詠われている。

 

  題詞は、「過敏馬浦時山部宿祢赤人作歌一首 幷短歌」<敏馬(みぬめ)の浦を過ぐる時に、山部宿禰赤人が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆御食向 淡路乃嶋二 直向 三犬女乃浦能 奥部庭 深海松採 浦廻庭 名告藻苅 深見流乃 見巻欲跡 莫告藻之 己名惜三 間使裳 不遣而吾者 生友奈重二

                   (山部赤人 巻六 九四六)

 

≪書き下し≫御食(みけ)向(むか)ふ 淡路(あはじ)の島に 直(ただ)向(むかふ 敏馬の浦の 沖辺(おきへ)には 深海松(ふかみる)採(と)り 浦(うら)みには なのりそ刈る 深海松の 見まく欲(ほ)しけど なのりその おのが名惜しみ 間使(まつかひ)も 遣(や)らずて我(わ)れは 生けりともなし

 

(訳)大御食(おおみけ)に向かう粟(あわ)ではないが、その淡路(あわじ)の島にまともに向き合っている敏馬の浦、その浦の、沖の方では深海松(ふかみる)を採り、浦のあたりではなのりそを刈っている。その深海松の名のように、あの方を見たいと思うけれど、なのりその名のように、我が名の立つのが惜しいので、使いの者すら遣(や)らずにいて、私はまったく生きた心地もしない。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)みけむかふ【御食向かふ】分類枕詞:食膳(しよくぜん)に向かい合っている「䳑(あぢ)」「粟(あは)」「葱(き)(=ねぎ)」「蜷(みな)(=にな)」などの食物と同じ音を含むことから、「味原(あぢふ)」「淡路(あはぢ)」「城(き)の上(へ)」「南淵(みなぶち)」などの地名にかかる。(学研)

(注)深海松:海中深く生える海松

(注)間使:二人の間を行き来する使い。

 

■わかめ「ワカメ」

 

◆比多我多能 伊蘇乃和可米乃 多知美太要 和乎可麻都那毛 伎曽毛己余必母

                   (作者未詳 巻十四 三五六三) 

 

≪書き下し≫比多潟(ひたがた)の礒(いそ)のわかめの立ち乱(みだ)え我(わ)をか待つなも昨夜(きそ)も今夜(こよひ)も

 

(訳)比多潟(ひたがた)の礒に入り乱れて茂り立つわかめのように、門に立ち身も心も千々に乱れて私を待っているのであろうか、あの子は。夕べに引き続き今夜も。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「立ち乱え」を起こす。

(注)なも 助動詞特殊型:《接続》動詞型活用語の終止形、ラ変型活用語には連体形に付く。 ※上代の東国方言。助動詞「らむ」に相当する。(学研)

 

 

和歌山市加太 田倉崎燈台➡同 城ケ崎海岸

 

 加太湾沿いに北上、城ケ崎にでる。ここも近くには駐車場がない。少し余裕のありそうな場所にぎりぎりに車を停め、雨がパラ付く中、小走りで先端部へ。

 ここら辺は磯釣りのメッカであるようだ。竿を担いだ釣り人が海岸の方から歩いてくる。何が釣れるかなど聞きたかったが、車が気になるので急ぐことに。

 番所公園のように突端までほぼ平らなところに出るが、草ぼうぼうである。

 歌碑と城ケ崎の説明案内板を撮影すると、小走りで車に向かう。体力勝負である。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「食の万葉集 古代の食生活を科学する」 廣野 卓氏 著 (中公新書

 

万葉歌碑を訪ねて(その1200)―和歌山市加太 田倉崎燈台下―万葉集 巻十一 二七九五

●歌は、「紀伊の国の飽等の浜の忘れ貝我れは忘れじ年は経ぬとも」である。

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和歌山市加太 田倉崎燈台下万葉歌碑(作者未詳)




●歌碑は、和歌山市加太 田倉崎燈台下にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆木國之 飽等濱之 忘貝 我者不忘 年者経管

                (作者未詳 巻十一 二七九五)

 

≪書き下し≫紀伊の国(きのくに)の飽等の浜の忘れ貝我れは忘れじ年は経ぬとも

 

(訳)紀伊の国(きのくに)の飽等(あくら)の浜の忘れ貝、その貝の名のように、私はあなたを忘れたりはすまい。年は過ぎ去って行っても。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。「忘れ」を起こす。

(注)飽等の浜:所在未詳

(注)わすれがひ【忘れ貝】名詞:手に持つと、恋の苦しさを忘れさせる力があるという貝。和歌では「忘る」の序詞(じよことば)を構成することが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

二七九五から二七九九歌は、貝に寄せる恋の歌である。他の三首もみてみよう。

 

◆水泳 玉尓接有 礒貝之 獨戀耳 年者經管

                  (作者未詳 巻十一 二七九六)

≪書き下し≫水(みづ)くくる玉に交(ま)じれる磯貝(いそかひ)の片恋(かたこひ)のみに年は経につつ

 

(訳)水中にひそむ玉に交っている磯貝のように、片思いに明け暮れるばかりで年は過ぎ去ってしまって・・・。(同上)

(注)上三句は序。「片恋」を起こす。

(注)くくる【潜る】自動詞:①物の間のすきまを通り抜ける。水が漏れ流れる。②(水中に)潜(もぐ)る。 ※後に「くぐる」。(学研)

(注)いそがひ【磯貝】:① 磯辺に打ち上げられた貝殻。特に、二枚貝が一片となって磯辺にあるもの。② アワビの別名。③ スズメガイの別名。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

◆住吉之 濱尓縁云 打背貝 實無言以 余将戀八方

                    (作者未詳 巻十一 二七九七)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の浜に寄るといふうつせ貝(がひ)実(み)なき言(こと)もち我(あ)れ恋ひめやも

 

(訳)住吉の浜に寄ってくるといううつせ貝、その貝のように、実のないうつろな気持ちで私は恋い慕っているのではありません。(同上)

(注)上三句は序。「実なき」を起こす。

(注)うつせがひ【空貝/虚貝】:① 海岸に打ち寄せられた、からになった貝。貝殻。和歌では「実なし」「むなし」「あはず」や同音の反復で「うつし心」などを導く序詞に用いられる。②ツメタガイ・ウズラガイの別名。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

◆伊勢乃白水郎之 朝魚夕菜尓 潜云 鰒貝之 獨念荷指天

                  (作者未詳 巻十一 二七九八)

 

≪書き下し≫伊勢の海女(あま)の朝な夕なに潜(かづ)くといふ鰒(あはび)の貝の片思(かたもひ)にして

 

(訳)伊勢の海女が朝夕の食べ物のためにいつも潜って採るという、その鰒(あわび)の貝と同じくいつも片思いのままで・・・。(同上)

(注)上四句は序。「片思」をおこす。

 

 

 

 「忘れ貝」が詠われた歌は五首、また「恋忘れ貝」も五首収録されている。これらについては、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その740)」で紹介している。

 ➡ 

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 「忘れ貝」同様「忘れ草」もあるが、これについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その334)」で紹介している。

 ➡ 

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 「忘れ貝」を詠った他の四首をみてみよう。

 

◆大伴乃 美津能濱尓有 忘貝 家尓有妹乎 忘而念哉

               (身人部王 巻一 六八)

 

≪書き下し≫大伴の御津の浜にある忘れ貝(がひ)家なる妹(いも)を忘れて思へや

 

(訳)大伴の御津の浜にある忘れ貝、その忘れ貝の名のように、家に待つあの人のことを何で忘れたりしようか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)おほともの【大伴の】分類枕詞:「大伴の御津(みつ)(=難波津(なにわづ))」の地名から、同音の「見つ」にかかる。(学研)

(注)忘れて思ふ:忘れることを思い方の一つと見なした表現。

(注)身人部王:むとべのおほきみ。奈良朝風流侍従の一人。

 

 

◆海處女 潜取云 忘貝 代二毛不忘 妹之容儀者

               (作者未詳 巻十二 三〇八四)

 

≪書き下し≫海人(あま)娘子(をとめ)潜(かづ)き採(と)るといふ忘れ貝世にも忘れじ妹(いも)が姿は

 

(訳)海人の娘子が海にもぐって採るという忘れ貝、その忘れというではないが、決して忘れはすまい。かわいいあの子の姿は。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上三句は序。「忘る」を起こす。

 

 

◆安伎左良婆 和我布祢波弖牟 和須礼我比 与世伎弖於家礼 於伎都之良奈美

               (作者未詳 巻十五 三六二九)

 

≪書き下し≫秋さらば我(わ)が船泊(は)てむ忘れ貝(がひ)寄せ来て置けれ沖つ白波

 

(訳)秋になったら、われらの船はまたここに停(と)まろう。忘れ貝、憂さを忘れさせるその貝を寄せて来て置いておくれ。沖の白波よ。(同上)

 

 

◆若乃浦尓 袖左倍沾而 忘貝 拾杼妹者 不所忘尓 <或本歌末句云 忘可祢都母>

                (作者未詳 巻十二 三一七五)

 

≪書き下し≫若の浦(わかのうら)に袖(そで)さへ濡れて忘れ貝拾(ひり)へど妹は忘らえなくに <或本の歌の末句には「忘れかねつも」という>

 

(訳)若の浦で袖まで濡らして、忘れ貝、そいつを拾うのだが、拾っても拾ってもあの子のことはいっこうに忘れられない。<忘れようにも忘れられない>(同上)

 

 植物同様、貝の特徴をとらえて歌にする観察力や応用力に驚かされる。

 

 

番所庭園➡加太 田倉崎燈台

 

 番所庭園を後にしてほぼほぼ海岸線を約40分のドライブである。

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田倉崎燈台下付近のマップ


 雛流しで有名な淡嶋神社の横を通過して海際を走る。海岸沿いの道が行き止まりになる辺りに駐車スペースがあり3台車が止められている。友ヶ島の方に目をやると5,6人のサーファーが波と戯れている。

 燈台への石段の脇に歌碑が建てられている。歌碑の周りの雑草はきれいに刈られていた。地元の方が手入れしてくださっているのだろう。ありがたいことである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「グーグルマップ」

万葉歌碑を訪ねて(その1199)―和歌山市雑賀崎番所鼻 番所庭園―万葉集 巻七 一一九四

●歌は、「紀伊の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ」である。

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和歌山市雑賀崎番所鼻 番所庭園万葉歌碑(藤原卿)



●歌碑は、和歌山市雑賀崎番所鼻 番所庭園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆木國之 狭日鹿乃浦尓 出見者 海人之燎火 浪間従所見

               (藤原卿 巻七 一一九四)

 

≪書き下し≫紀伊の国(きのくに)の雑賀(さひか)の浦に出(い)で見れば、海人(あま)の燈火(ともしび)波の間(ま)ゆ見ゆ

 

(訳)紀伊の国(きのくに)の雑賀(さいか)の浦に出て見ると、海人のともす漁火(いさりび)が波の間から見える。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)雑賀の浦:和歌山市雑賀崎の海岸

(注)ゆ 格助詞:《接続》体言、活用語の連体形に付く。①〔起点〕…から。…以来。②〔経由点〕…を通って。…を。③〔動作の手段〕…で。…によって。④〔比較の基準〕…より。 ※参考 上代の歌語。類義語に「ゆり」「よ」「より」があったが、中古に入ると「より」に統一された。(学研)

 

一二一八から一一九五歌までの歌群の左注は、「右七首者藤原卿作 未審年月」<右の七首は、藤原卿(ふぢはらのまへつきみ)が作 いまだ年月審(つばひ)らかにあらず>である。

(注)伊藤 博氏の巻七 題詞「羇旅作」の脚注に、「一一六一から一二四六に本文の乱れがあり、それを正した。そのため歌番号の順に並んでいない所がある。」と書かれている。 この歌群もそれに相当している。

 この歌並びに他の六首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その732)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 この歌の作者について、伊藤 博氏は、脚注に「不比等か。」と書かれている。

 「番所庭園案内板」には、神亀元年(724年)の聖武天皇行幸に随伴した「藤原卿」が詠ったとしているが、大宝元年(701年)の行幸時の歌の収録等から考えても「右七首者藤原卿作 未審年月」とあるのは、それ以前と考えられるのではないだろうか。

 

 

 小雨パラつく中、番所庭園(ばんどこていえん)に到着。完全貸し切り状態でゆっくり見て周ることができた。

 入園料と駐車所代を支払い庭園に入る。すぐに歌碑プレートが迎えてくれる。

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番所庭園万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂



歌をみてみよう。

 

◆三熊野之 浦乃濱木綿 百重成 心者雖念 直不相鴨

               (柿本人麻呂 巻四 四九六)

 

≪書き下し≫み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ)百重(ももへ)なす心は思(も)へど直(ただ)に逢はぬかも

 

(訳)み熊野(くまの)の浦べの浜木綿(はまゆう)の葉が幾重にも重なっているように、心にはあなたのことを幾重にも思っているけれど、じかには逢うことができません。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)み熊野:紀伊半島南部一帯

(注)はまゆふ【浜木綿】名詞:浜辺に生える草の名。はまおもとの別名。歌では、葉が幾重にも重なることから「百重(ももへ)」「幾重(いくかさ)ね」などを導く序詞(じよことば)を構成し、また、幾重もの葉が茎を包み隠していることから、幾重にも隔てるもののたとえともされる。よく、熊野(くまの)の景物として詠み込まれる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)上三句は「心は思へど」の譬喩

 

 この歌を含む「柿本朝臣人麻呂歌四首」については直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1187)」で紹介している。

 ➡ 

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園内には、同じプレートがもう一箇所に建てられていた。

 

 よく手入れされた松がそして芝生が雨の中ゆえそのグリーンさをいっそう輝かせている。

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大島、中ノ島遠望

 番所庭園は、江戸時代より紀州藩の見張り番所が置かれた場所であった。そこから「番所の鼻」と呼ばれ、突端には大島(男島)、中ノ島(女島)、双子島が景色をなし、眼下の磯に打ち寄せる白波が景色に花を添えている。

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「黒船の見張所跡 番所庭園」の碑


平坦で海に長く鼻のように突き出た地形になっており、紀州藩は海の見張りのためここにも遠見番所を設けたという。ペリー来航(嘉永六年、1853年)を機に紀州藩も本格的な海防に取り組んだという

 

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番所庭園入口説明案内板



 番所庭園を端的に表現しているのが、入口の門扉の説明板である。「黒船の見張所跡」・「万葉ゆかりの地」、これに尽きる。

 

 

海南市下津町方「粟島神社」➡和歌山市雑賀崎番所鼻「番所庭園」

 

 番所庭園に近づくにつれ、廃墟になったホテルや飲食店が目立つ。かつてはにぎわったのであろうが寂れが目立つ地域である。これは決してコロナ禍によるものだけではなく、それ以前から人気が落ちていたのだろう。

 周りの景色に雨が重なり、気持ちを重たくさせる。

 しかし、庭園に到着、手入れの行き届いた緑の広大な庭園が別世界を演出している。これにはホッとした。

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番所庭園歌の解説案内板



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1198)―海南市下津町方 粟嶋神社―万葉集 巻七 一二一六

●歌は、「潮満たばいかにせむとか海神の神が手渡る海人娘子ども」である。

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海南市下津町方 粟嶋神社万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、海南市下津町方 粟嶋神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆塩満者 如何将為跡香 方便海之 神我手渡 海部未通女等

                   (作者未詳 巻七 一二一六)

 

≪書き下し≫潮満(み)たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人(あま)娘子(をとめ)ども

 

(訳)潮が満ちてきたら、いったいどうするつもりなのか。海神の支配する恐しい難所を渡っている海人の娘子(おとめ)らは。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かみ【神】が 手(て):海神の手。また、海神の手中にあること。転じて、おそろしい荒海。⇒[補注] 万葉例「神我手」の「手」を、「戸」の誤写とし、「神が戸」(海神の支配する瀬戸の意)とする説もある。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

和歌山県神社庁HPに「社伝によると、景行天皇2年、当時21戸の村民により、少名毘古那神が漂着された粟嶋の硯浦の森に宮居を造り、鎮め祀ったのを創祀とする。

その21戸の子孫が、明神講(大頭講)として宮座を今日まで守り継いでいる。

当時の粟嶋は海中に在り、干潮時に干潟を渡って詣でた様子が、『万葉集』に読まれている。

『潮満たばいかにせむとか 方便海の 神戸渡る 海未通女ども』(1216)(境内に歌碑あり)(後略)」と書かれている。

 

一二一六歌の「方便海之」を「海神(わたつみ)の」と詠ませることについて、次のように触れられている。

新日本古典文学大系 萬葉集索引」(岩波書店)によると、「(前略)万葉集と仏教思想の関係は殆ど顧慮されることがありませんでした。 山上憶良大伴旅人の作品、巻十六の戯笑歌など一部を除いて、万葉集と仏教との関係は深くはないという先入観が強かったようで。 たしかに中世の歌集に詠まれたような形で、仏教は万葉集に影を投じてはいません。 しかし、『世の中』を『世間』と書く表記が仏教に由来するものであることは言うまでもありません。 内容的に仏教と関係のない歌でも、『わたつみ』を『方便海』(1216)と書いたりもします。 『方便海』は『華厳経』に頻出する文字です。 この歌の書き手の仏教的教養を窺わせる一例でしょう。 『常ならぬ』(1345)という言葉が『人』の枕詞として使用された背後には、勿論、仏教の無常観があったでしょう。 『むろの木』を「天木香樹」(446)・『天木香』(3830)などと書くことも、経典から学んだものでしょう。 歌に直接反映したものは少なくても、仏教の知識は万葉集の随所にその跡を留めています。(後略)」と書かれている。

 

「この歌の書き手の仏教的教養を窺わせる一例でしょう。」と書かれているが、書き手は仏教的な教養を持って万葉集の読み手にいわば、大げさに言えば、挑戦状を突き付けたともいえるのである。

 

万葉集の書き手の遊び心として「戯書」がとりあげられる。

weblio辞書 精選版日本国語大辞典」によると、【戯書】(ぎしょ)とは、「 上代文献、特に「万葉集」の用字法の一つ。義訓の一種で、漢字の意義を遊戯的、技巧的に用いたもの。『出』字は、『山』字を重ねたものと解して『出でば』を『山上復有山者』と書き、掛け算の九九を利用して、『獅子(しし)』を『十六』と書くようなものをいう。釈春登が『万葉用字格』で用いはじめた語」と書かれている。

(注)しゅんとう【春登】:[1769〜1836]江戸後期の国学者時宗(じしゅう)の僧。武蔵あるいは甲斐の人。音韻学に通じた。著「万葉用字格」「五十音摘要」など。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

 

■御坊➡海南市下津町方「粟嶋神社」

 ホテルで朝食を済ませ「粟嶋神社」に向かう。湯浅御坊道路を走り海南ICから引き返す感じである。神社は高台にあり裾野にはミカン畑が広がっている。

 この歌碑がなぜ粟嶋神社にあるのか不思議に思っていたが、和歌山県神社庁HPに「(万葉)当時の粟嶋海中に在り、干潮時に干潟を渡って詣でた」旨が記されており納得がいったのである。

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粟嶋神社歌碑と参道石段

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神社名碑とミカン畑




 

島根県万葉歌碑巡り

 10月12日から13日の2泊3日で島根県の万葉歌碑を巡ってきたのである。

 12日は、益田市高津町の県立万葉公園と柿本神社である。

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万葉公園の碑

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万葉公園人麻呂展望広場歌碑群

 県立万葉公園は敷地面積48.4haと東京ドーム10個分ある広大な公園である。

オートキャンプ場、子供の広場、石の広場などがあり、万葉植物園や人麻呂展望広場もある。人麻呂広場には、人麻呂が宮廷歌人として大和で詠った歌や旅の途中で詠った十七首の歌碑がある「大和・旅の広場」と人麻呂が石見を詠った歌や島根にちなんだ十八首の歌碑がある「石見の広場」がある。

 

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高津柿本神社参道

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扁額

 高津柿本神社は、全国にある柿本神社の本社と言われている。

 益田に生まれ益田で亡くなったといわれる柿本人麻呂。今日一日は柿本人麻呂一色であった。少し時間に余裕ができたので、萩・石見空港へ行った。駐車場にも人麻呂の歌碑が建てられていたのである。

 

 

13日は、江津市波子町島根県立海浜公園Fゾーン花の中央広場駐車場、野津町柿本神社二宮町神主君寺、二宮交流センター、高角山公園、江津駅パレット広場、島の星町人丸神社、湯抱温泉「鴨山柿本人麻呂終焉地碑」、三瓶町浮布池、魚津海岸静の窟などを見て周った。

 高角山公園には、柿本人麻呂と依羅娘子の銅像があるが、何と現地に所用で来られていた、その銅像を制作された地元彫刻家田中俊晞氏にいろいろとご高説を窺うことができたのである。この時はご本人であるとは露しらず、ご親切な方と思っていただけであった。

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歌碑と依羅娘子像(田中俊晞氏作)

 手持の資料で、これまで見て来た歌碑、これからの予定等をお話しすると、江津駅前パレット広場にも歌碑があると、単車で誘導してもらったのである。駅前の歌碑の横に建てられている依羅娘子の銅像制作への思いやこだわりを熱っぽく語られ、ここで初めて自己紹介していただいたのである。(後でネット検索し、根付作家としても活躍されていると知り驚いたのである)

 「角の里夢語り 人麻呂とよさみ姫」と題する絵本(絵:佐々木恵未/文:江津市万葉の絵本制作委員会)まで、「これも何かのご縁」といただけたのである。(ご本人はもちろん制作委員会メンバーでいらっしゃる)

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高角山公園の依羅娘子の銅像

 高角山公園の依羅娘子の銅像は台座部分を回すことができるようになっている。人麻呂と向き合ったり、同じ方向を見たりと自由なアングルになる。これも他にない銅像を作りたいとの思いだと語られた。

 この「ご縁」には感謝・感動以外のなにものでもない。ありがとうございました。

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江津市観光協会前「甦がえる」(田中俊晞氏作)



廻って来た歌碑の歌の解説等は後日のブログで行う予定です。

 



 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「新日本古典文学大系 萬葉集索引」(岩波書店

★「weblio辞書 精選版日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「和歌山県神社庁HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1197)―日高郡美浜町 三尾海岸―万葉集 巻七 一二二八

●歌は、「風早の三穂の浦みを漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも」である。

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日高郡美浜町 三尾海岸万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は日高郡美浜町 三尾海岸にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆風早之 三穂乃浦廻乎 榜舟之 船人動 浪立良下

                  (作者未詳 巻七 一二二八)

 

≪書き下し≫風早(かざはや)の三穂(みほ)の浦(うら)みを漕ぐ舟の舟人(ふなびと)騒(さわ)く波立つらしも

 

(訳)風早の三穂の浦のあたりを漕いでいる舟の舟人たちが大声をあげて動き廻っている。波が立ちはじめたらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かざはや【風早/風速】:風が強く吹くこと。多く「かざはやの」の形で、風の激しい土地の形容として用いる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)美穂の浦:和歌山県美浜町三尾付近の海岸。

 

 伊藤 博氏は、その著「万葉集 二」(角川ソフィア文庫)のこの歌の脚注で、(一二二六から一二二八歌)「三首連鎖し、紀州の歌としてまとまる。時間的には前歌群の舟が、夜半磯に寄り着き、明けて朝出で立つ趣。」と書いておられる。

 

 

 前歌二首をみてみよう。

 

◆神前 荒石毛不所見 浪立奴 従何處将行 与奇道者無荷

                 (作者未詳 巻七 一二二六)

 

≪書き下し≫三輪(みわ)の崎(さき)荒磯(ありそ)も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避(よ)き道(ぢ)はなしに

 

(訳)三輪の崎の荒磯も見えないほど、波が高く立ってきた。どこを通って行ったらよいのか。避(よ)けて行く道もないのに。(同上)

(注)三輪の崎:新宮市三輪崎か。

 

 

 「神之埼」と書いて「みわのさき」と読む例は、長忌寸奥麻呂の二六五歌にもみられる。日本最古の神社である「大神神社」は「おおみわじんじゃ」と読む。三輪の神は、神の神と言ったところからかかる読み方が定着したのであろう。

 二六五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その92改)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 次をみてみよう。

 

◆礒立 奥邊乎見者 海藻苅舟 海人榜出良之 鴨翔所見

                (作者未詳 巻七 一二二七)

 

≪書き下し≫礒に立ち沖辺(おきへ)を見れば藻刈(めか)り舟(ぶね)海人(あま)漕(こ)ぎ出(づ)らし鴨(かも)翔(かけ)る見ゆ

 

(訳)岩の多い海岸に立ってはるか沖の方(かた)を見やると、海藻を刈る舟の海人たちが漕ぎ出したのであるらしい、鴨が群れて飛び交っている。(同上)

 

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歌の解説案内板

 道路を挟んだ海岸線の反対側切通しの雑草に埋もれていた歌碑説明板には、「万葉集には、三穂の地にかかわりある歌が六首あり、この歌はその一首である。古来三穂の沖合は風波が甚だしく、そのため三穂の地名には「風早」という枕詞がついた。歌の作者は明らかではないが、詠まれた風景は一三〇〇年を経た今も変わらない。(後略)」と書かれている。



 海岸にある巨大な岩に歌のプレートをはめ込んだ実に豪快な歌碑である。

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歌碑全体像



 

 「三穂の地」に関わりのある歌をみてみよう。

 

題詞は、「博通法師徃紀伊國見三穂石室作歌三首」<博通法師(はくつうほふし)、紀伊の国(きのくに)に徃き、三穂(みほ)の石室(いはや)を見て作る歌三首>である。

 

◆皮為酢寸 久米能若子我 伊座家留 <一云 家牟> 三穂乃石室者 雖見不飽鴨 <一云 安礼尓家留可毛>

                 (博通法師 巻三 三〇七)

 

≪書き下し≫はだ薄(すすき)久米の若子(わくご)がいましける<一には「けむ」といふ>三穂(みほ)の石室(いはや)は見れど飽(あ)かぬかも<一には「荒れにけるかも」といふ>

 

(訳)久米の若子がその昔おられたという三穂の岩屋、この岩屋は、見ても見ても見飽きることがない。<今やまったく人気がなくなってしまった>(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注) はだすすき【はだ薄】分類枕詞:すすきの穂の意から「穂」「末(うれ)(=穂の先)」「うら」にかかる。(学研)

(注の注)ここでは久米に懸っている。穂が隠(こも)る意か。

(注)久米の若子:伝説上の人物。

(注)います【坐す・在す】自動詞:①いらっしゃる。おいでになる。▽「あり」の尊敬語。②おでかけになる。おいでになる。▽「行く」「来(く)」の尊敬語。(学研)ここでは①の意

(注)美穂:和歌山県日高郡美浜町三尾

 

この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(953)」で紹介している。

➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

あとの二首もみてみよう。

 

常磐成 石室者今毛 安里家礼騰 住家類人曽 常無里家留

                 (博通法師 巻三 三〇八)

 

≪書き下し≫常磐(ときは)なす石室(いはや)は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける

 

(訳)岩屋は、常盤のように常に変わらず今もあり続けているけれども、ここに住んでいたという人は常住不変ではあり得なかった。(同上)

(注)住みける人:久米の若子のこと。

 

◆石室戸尓 立在松樹 汝乎見者 昔人乎 相見如之

                  (博通法師 巻三 三〇九)

 

≪書き下し≫石室戸(いはやと)に立てる松の木汝(な)を見れば昔の人を相見(あひみ)るごとし

 

(訳)岩屋の戸口に立っている松の木よ、お前を見ると、ここに住んでいた昔の人と向かい合っているような気がする。(同上)

(注)昔の人:久米の若子のこと。

 

 

 もう一首をみてみよう。

 

題詞は、「和銅四年辛亥河邊宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首」<和銅四年辛亥(かのとゐ)に、河辺宮人(かはへのみやひと)、姫島(ひめしま)の松原の美人(をとめ)の屍(しかばね)を見て、哀慟(かな)しびて作る歌四首>である。

(注)和銅四年:711年

(注)姫島:ここは、紀伊三穂の浦付近の島

 

 

◆加座皤夜能 美保乃浦廻之 白管仕 見十方不怜 無人念者 <或云見者悲霜 無人思丹>

               (河辺宮人 巻三 四三四)

 

≪書き下し≫風早(かざはや)の美穂(みほ)の浦みの白(しら)つつじ見れどもさぶしなき人思へば <或いは「見れば悲しもなき人思ふに」といふ>

 

(訳)風早の三穂(みほ)の海辺に咲き匂う白つつじ、このつつじは、いくら見ても心がなごまない。亡き人のことを思うと。<見れば見るほどせつない。亡き人を思うにつけて>(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)かざはや【風早】:風が激しく吹くこと。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)三穂:和歌山県日高郡美浜町三尾

 

 

 この歌ならびに他の三首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その707)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 四三五歌にも「久米の若子」が出て来るが、三〇七歌と同一人物かどうか残念ながら調べようがない。「いましける」と詠われているのはそれなりの身分の高い者であるとは思われる。

 

 

■はし長水産直販部駐車場➡日高郡美浜町「三尾海岸」

 

 はし長水産直販部は、いけすもあり、魚介類がショーケースに今にもはねそうな感じで並べられている。果物や農産物のコーナーもある。その奥にフィッシュテラスがあり、そこで食事ができる。海が見えるテーブル席に座れた。刺身定食をゲット。こちらのテラスへの入口の駐車場の所に歌碑が建っている。

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イサキ刺身定食

 歌碑と刺身定食を満喫し「三尾海岸」に向かう。

 

ここも事前にストリートビューで確認しておいた。

現物は見れば見るほど惚れ惚れするスケールの歌碑である。

イソヒヨドリが歌碑の先端に止まってくれ、そのあと車の近くまで遊びに来てくれたのである。歌碑巡りを祝福してくれているみたいであった。

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歌碑先端にイソヒヨドリ

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傍まで飛んできてくれたイソヒヨドリ




 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

 

※20230422三尾海岸の住所訂正

万葉歌碑を訪ねて(その1195,1196)―日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺、御坊市名田町はし長水産直売所ー万葉集 巻三 四一二、巻一 一二

―その1195―

●歌は、「いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに」である。

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日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺万葉歌碑(市原王)

●歌碑は、日高郡印南燈印南原 おたき瀧法寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「市原王歌一首」<市原王(いちはらのおおきみ)が歌一首>である。

 

◆伊奈太吉尓 伎須賣流玉者 無二 此方彼方毛 君之随意

                 (市原王 巻三 四一二)

 

≪書き下し≫いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに

 

(訳)頭上に束ねた髪の中に秘蔵しているという玉は、二つとない大切な物です。どうぞこれをいかようにもあなたの御心のままになさって下さい。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)いなだき 〘名〙:いただき (コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)きすむ【蔵む】他動詞:大切に納める。秘蔵する。隠す。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かにもかくにも 副詞:とにもかくにも。どうであれ。(学研)

(注の注)かくにも君がまにまに:いかようにもご随意に。大切にしてほしい意がこもる。

 

 大伴駿河麻呂大伴坂上郎女の二嬢(おといらつめ)を娉(つまど)ふ歌のやり取りをしている時に、市原王が、玉(二嬢の譬え)を大切にしてほしいと坂上郎女に成り代わって和(こた)、思いやりの気持ちがこもる心優しい歌である。

 

 

市原王(いちはらのおほきみ)について、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」に次のように書かれている。

「生没年不詳。奈良時代歌人。『万葉集』に短歌8首を残す。曽祖父(そうそふ)志貴皇子(しきのみこ)、祖父春日王(かすがのおおきみ)、父安貴王(あきのおおきみ)も万葉歌人。玄蕃頭(げんばのかみ)、備中守(びっちゅうのかみ)、治部大輔(じぶのたいふ)その他を歴任。位は正五位下、生存は763年(天平宝字7)まで確認できる(続日本紀(しょくにほんぎ))。作歌は733年(天平5)ごろから758年(天平宝字2)までのもの。全体に宴席などでの身辺に題材をとった穏やかな歌風だが、ひとりっ子であることを悲しむ歌や、平安朝には多いが『万葉集』では唯一の、梅の香を歌った歌など、特異な素材の作もある。なお『市原』と署名のある自筆の書状が正倉院に残っている。[遠藤 宏]」

 

 

 歌碑以外の市原王の歌七首をみてみよう。

 

題詞は、「市原王歌一首」である。

 

◆網兒之山 五百重隠有 佐堤乃埼 左手蝿師子之 夢二四所見

                  (市原王 巻四 六六二)

 

≪書き下し≫網児(あご)の山五百重(いほへ)隠せる佐堤(さで)の崎さで延(は)へし子が夢(いめ)にし見ゆる

 

(訳)かわいいあの子のいる網児(あご)、その山を幾重にも重なった向こうに隠している佐堤(さで)の崎、その名を聞くと、網児の地でさで網(あみ)を広げていたあの海人(あま)おとめの姿が夢にまで見えてくる。(同上)

(注)網児(あご)の山:三重県志摩市阿児町の海岸近くの山か。「網児」に「吾子」の意を懸けつつ、第四句と響き合う。

(注)上三句は序。「さで延へし」を起こす。

(注)佐堤(さで)の崎:所在未詳。

(注)さで【叉手・小網】名詞:魚をすくい取る網。さであみ。(学研)

 

 

 題詞は、「市原王宴祷父安貴王歌一首」<市原王、宴(うたげ)にして父安貴王(あきのおおきみ)を祷(ほ)ぐ歌一首>

 

◆春草者 後波落易 巌成 常磐尓座 貴吾君

                   (市原王 巻六 九八八)

 

≪書き下し≫春草は後(のち)はうつろふ巌(いはほ)なす常盤(ときは)にいませ貴(たふと)き我(あ)が君

 

(訳)春草はどんなに生い茂ってものちには枯れて変わり果ててしまいます。どうか巌(いわお)のように、いつまでも変わらずにいて下さい。貴い我が父君よ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 

 題詞は、「市原王悲獨子歌一首」<市原王、独(ひと)り子にあることを悲しぶる歌一首>である。

 

 

◆言不問 木尚妹與兄 有云乎 直獨子尓 有之苦者

                  (市原王 巻六 一〇〇七)

 

≪書き下し≫言(こと)とはぬ木すら妹(いも)と兄(せ)とありといふをただ独り子にあるが苦しさ

 

(訳)物言わぬ非情の木にさえ、妹と兄があるというのに、私は、ただ一人子であるのがつらい。(同上)

 

 

 題詞は、「同月十一日登活道岡集一株松下飲歌二首」<同じ月の十一日に、活道の岡(いくぢのおか)に登り、一株(ひともと)の松の下(した)に集ひて飲む歌二首>である。

(注)活道の岡:京都府相楽郡和束町に「活道が丘公園」がある。

 

◆一松 幾代可歴流 吹風乃 聲之清者 年深香聞

                (市原王 巻六 一〇四二)

 

≪書き下し≫一つ松幾代(いくよ)か経(へ)ぬる吹く風の声(おと)の清きは年深みかも

 

(訳)この一本(ひともと)の松は幾代を経ているのであろうか。吹き抜ける風の音がいかにも清らかなのは、幾多の年輪を経ているからなのか。(同上)

 

 左注は、「右一首市原王作」<右の一首は市原王(いちはらのおほきみ)が作>である。

 

 一〇四三歌は家持の歌である。家持とも親交があったことがうかがえる。

 

 この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その263)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 題詞は、「市原王七夕歌一首」<市原王が七夕の歌一首>である。

 

◆妹許登 吾去道乃 河有者 附目緘結跡 夜更降家類

                  (市原王 巻八 一五四六)

 

≪書き下し≫妹(いも)がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける

 

(訳)あの子のもとへと私が行く道、その道筋には川があるので、つくめを結んでいるうちに、夜が更けてしまった。(同上)

(注)がり【許】名詞:…のもと(へ)。…の所(へ)。▽多くは人を表す名詞・代名詞に格助詞「の」が付いた形に続く。 ⇒参考 上代では「がり」は接尾語の用法のみであったが、中古になると接尾語から変化した名詞の用法が生じた。これをも接尾語とみる説もあるが、格助詞「の」を伴った連体修飾語によって修飾されているところから名詞ととらえる方が自然であろう。(学研)

(注)つくめ【付目】;語義未詳。梶を舷に結びつける突起した部分の名か。→かじつくめ。(日本国語大辞典

 

 

 題詞は、「市原王歌一首」である。

 

◆待時而 落鍾礼能 雨零収 開朝香 山之将黄變

                 (市原王 巻八 一五五一)

 

≪書き下し≫時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝(あした)か山のもみたむ

 

(訳)時節を待ち受けて降ったしぐれの雨が今日やんだ。明日の朝には、山がさぞかし見事にもみじすることであろう。(同上)

(注)もみづ【紅葉づ・黄葉づ】自動詞:紅葉・黄葉する。もみじする。 ※上代は「もみつ」。(学研)

 

 

◆宇梅能波奈 香乎加具波之美 等保家杼母 己許呂母之努尓 伎美乎之曽於毛布

                  (市原王 巻二十 四五〇〇)

 

≪書き下し≫梅の花香(か)をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ

 

(訳)お庭の梅の花、その漂う香りの高さに、遠く離れてはおりますけれども、心一途(いちず)に御徳をお慕い申しているのです。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 左注は、「右一首治部大輔市原王」<右の一首は治部大輔(ぢぶのだいふ)市原王>である。

 

 父を敬った歌や、四五〇〇歌のように宴の主人を敬慕するなど目上の人への心遣い、時間軸のスパンが普通の人より長い感じの歌が多い。一人っ子であることの苦しさを詠ってはいるが、逆に何一つ苦労したことがない、ある意味贅沢な気持ちの裏返しの歌であるように思えるのである。

 

 

 おたき滝法寺については同寺HPに、「二千年の歴史と天智天皇ゆかりの宝参り霊場」と書かれており、「紀伊之国十三仏霊場第十三番御札所、伊奈瀧大宝院神宮寺萬徳山瀧法寺は霊験あらたかなる宝の玉の輝く日本唯一の宝参り霊場でございます。日高郡内の熊野古道の要衝であり、後白河院さま、後鳥羽上皇さま他、熊野路を往来する多くの方々が宝参りをなされております。伊奈瀧を中心にお山全体を御佛(神)体と仰ぎ礼拝します。」と書かれている。

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参道の幟



 

 

■「有間皇子結松記念碑➡日高郡印南燈印南原「おたき瀧法寺」

 

 海岸線を離れ山手に向かう。「紀伊の国十三佛霊場」と書かれた赤い幟が立並ぶ参道を上って行く。上がり切ったすぐ右手に歌碑があった。

 歌碑の表面は風化と苔むした影響で文字の判読がしづらい。

 目を凝らして文字を探す。碑の左下部に「市原王」の文字がかろうじて見えた。歌の書き出しの「伊」の字も判読できた。あとは先達の歌碑の写真から形状判定である。

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歌碑と「天智天皇勅願宝参場 龍法寺」の石柱



 隣の石柱は「天智天皇・・・霊場」の文字が書かれているのは確認できたが。

 

 

 

―その1196-

歌は、「我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ」である。

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はし長水産直販部駐車場万葉歌碑



歌碑は、はし長水産直販部駐車場にある。

 

歌をみていこう。

 

◆吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾  <或頭云 吾欲 子嶋羽見遠>

              (斉明天皇 巻一 一二)

 

≪書き下し≫我(わ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ  <或いは頭に「我が欲りし子島は見しを」といふ>

 

(訳)私が見たいと待ち望んでいた野島は見せていただきました。しかし、そこ深い阿胡根の浦の珠(たま:魂)はまだ拾っていません。<私が見たいと待ち望んでいた子島は見ましたが>(同上)

(注)野島:和歌山県御坊市南部の島。見通しのきく、航海の安全を祈る地

(注)阿胡根の浦:野島付近だが所在未詳

(注)子島:所在未詳

 

左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云ゝ」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検(ただ)すに、日はく、「天皇の御製歌云ゝ」といふ>である。

(注)天皇斉明天皇

 

 この歌については、直近では、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1194)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

日高郡印南燈印南原「おたき瀧法寺」➡はし長水産直販部駐車場

 

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はし長水産直販部

 瀧法寺から次の目的地、歌碑と昼食という一石二鳥の「はし長水産直販部」を目指す。予定時間をかなりオーバーしているので遅い昼食になる。

海岸縁を走っているのに海が見えない。ナビでは、到着予定時刻1分前である。不安に駆られる。

峠のような感じで、突然目の前にはし長の建物が現れる。やれやれである。

 駐車場ではサーファーの人たちが寛いでいた。

 歌碑よりもまず腹ごしらえである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集の心を読む」 上野 誠 著 (角川文庫)

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」

万葉歌碑を訪ねて(その1192、1193、1194、番外岩代)―国民宿舎「紀州路みなべ」、みなべ町西岩代 光照寺、有間皇子結松記念碑―万葉集 巻九 一六六九、巻二 一四一、巻一 一〇、

―その1192―

●歌は、「南部の浦潮な満ちそね鹿島にある釣りする海人を見て帰り来む」である。

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みなべ町国民宿舎紀州路みなべ」駐車場脇万葉歌碑(作者未詳)



●歌碑は、みなべ町国民宿舎紀州路みなべ」駐車場脇にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆三名部乃浦 塩莫満 鹿嶋在 釣為海人乎 見變来六

               (作者未詳 巻九 一六六九)

 

≪書き下し≫南部(みなべ)の浦潮な満ちそね鹿島(かしま)にある釣りする海人(あま)を見て帰り来(こ)む

 

(訳)南部(みなべ)の浦、この浦に潮よそんなに満ちないでおくれ。向かいの鹿島で釣りする海人(あま)を、見て帰って来たいから。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)南部:和歌山県日高郡みなべ町

(注)鹿島:南部の約1キロ沖にある島

 

 題詞は、「大寳元年辛丑冬十月太上天皇大行天皇紀伊國時歌十三首」<大宝(だいほう)元年辛丑(かのとうし)の冬の十月に、太上天皇(おほきすめらみこと)・大行天皇(さきのすめらみこと)、紀伊の国(きのくに)に幸(いでま)す時の歌十三首>である。

(注)ここでは太上天皇持統天皇大行天皇文武天皇をさす。

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歌の解説案内板



 この歌並びに「十三首」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その742)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 駐車場の一角に、「みなべ町指定文化財 鹿島 万葉の故郷」と題する説明案内板、万葉歌碑、和歌山県朝日・夕陽百選の碑、吉野熊野国立公園・南部海岸の碑とずらりと並んでいる。

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吉野熊野国立公園・南部海岸の碑



 「鹿島」については、「みなべ町指定文化財 鹿島 万葉の故郷」と題する説明案内板に「鹿島は、紀州路みなべから約0.6kmの海上にある無人島で、周囲約1,5km、面積2.6       ha、最高標高27mである。南島南端には、万葉時代より鹿島神社(祭神タケミカヅチノ神)が鎮座、神が降臨したとき坐られたという要石(かなめいし)のお蔭で、古来より地震津波の被害が軽微であったという。(後略)」と書かれている。

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鹿島の遠望



 

 

田辺市秋津町「宝満禅寺」➡日高郡みなべ町国民宿舎紀州路みなべ」

 山を下り、再び海岸線へ。

 国民宿舎は少し高台にある。駐車場からの眺めも素晴らしい。歌碑やら説明案内板やらが建っている。曇りがちでどんよりしていたのが残念である。

 歌に詠まれている鹿島も一望できる。

 

 次の目的地は、今回最も行きたかった「有間皇子結松記念碑」である。

 

 

 

―その1193―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

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みなべ町西岩代 光照寺万葉歌碑(有間皇子



●歌碑は、みなべ町西岩代 光照寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

             (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌については、直近ではブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1188)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

何故「有間皇子結松記念碑でなく、光照寺が先になったかは後程。

 

 

―その1194―

●歌は、「君が代も我が予も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな」である。

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みなべ町西岩代 光照寺万葉歌碑(中皇命)



●歌碑は、みなべ町西岩代 光照寺にある。

 

●歌をみていこう。

 

一〇から一二歌の、題詞は、「中皇命徃于紀温泉之時御歌」<中皇命(なかつすめらみこと)、紀伊の温泉に徃(いでま)す時の御歌>である。

 

◆君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名

               (中皇命 巻一 一〇)

 

≪書き下し≫君が代(よ)も我(わ)が代(よ)も知るや岩代(いはしろ)の岡の草根(くさね)をいざ結びてな

 

(訳)我が君の命も私の命をも支配している、岩代の岡の草根、この草根を結びましょう。(結んで互いの命の幸を祈りましょう。)(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

(注)君:男性への尊称。ここでは中大兄皇子をさす。

(注)しる【知る】他動詞:治める。統治する。(学研)

(注)岩代:和歌山県日高郡みなべ町岩代

 

 他の二首もみてみよう。

 

◆吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核

              (中皇命 巻一 一一)

 

≪書き下し≫我(わ)が背子(せこ)は仮廬(かりいほ)作らす草(かや)なくは小松(こまつ)が下(した)の草(かや)を刈らさね

 

(訳)我が君は仮廬(かりいお)をお作りになる。佳(よ)きかやがないのなら、小松の下のかや、あのかやをお刈りなさい。(そうすればけがれなきめでたき一夜を過ごし得ましょう。)(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)は 係助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、助詞など種々の語に付く。〔順接の仮定条件〕…ならば。▽形容詞型活用の語および打消の助動詞「ず」の連用形に付く。(学研)

 

 

◆吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾  <或頭云 吾欲 子嶋羽見遠>

              (斉明天皇 巻一 一二)

 

≪書き下し≫我(わ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底深き阿胡根(あごね)の浦の玉ぞ拾(ひり)はぬ  <或いは頭に「我が欲りし子島は見しを」といふ>

 

(訳)私が見たいと待ち望んでいた野島は見せていただきました。しかし、そこ深い阿胡根の浦の珠(たま:魂)はまだ拾っていません。<私が見たいと待ち望んでいた子島は見ましたが>(同上)

(注)野島:和歌山県御坊市南部の島。見通しのきく、航海の安全を祈る地

(注)阿胡根の浦:野島付近だが所在未詳

(注)子島:所在未詳

 

左注は、「右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 天皇御製歌云ゝ」<右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検(ただ)すに、日はく、「天皇の御製歌云ゝ」といふ>である。

(注)天皇斉明天皇

 

 「みなべ町指定文化財 万葉の故郷(岡と結<むすび>)題する説明案内板に「斉明四(六五八)年十月、斉明天皇の一行が紀の湯旅をされた。そのとき中皇命(なかつすめらみこと)<宝皇女・間人(はしひと)皇女・倭姫説あり>が、この地(岡)付近で二首の和歌を詠まれた。同年十一月には、謀反の罪で斉明天皇の旅先の紀の湯に護送される途次の有間皇子が、当地の南二〇〇mの結の地で、自分の平安無事を祈って二首の和歌を詠まれたが、皇子の願い空しく帰途十九歳で処刑された。(後略)」と書かれている。

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みなべ町指定文化財 万葉の故郷(岡と結<むすび>)題する説明案内板



 光照寺には、まだ真新しい一四一歌と一〇歌の解説案内板が建てられている。

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一四一歌と一〇歌の解説案内板

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光照寺山門

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歌碑や解説板など



 

―その番外岩代―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む  (巻二 一四一)

  「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る(巻二 一四二)である。

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有間皇子結松記念碑

●歌碑(プレート)は、有間皇子結松記念碑解説板にある。

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有間皇子結松記念碑解説板歌碑プレート(有間皇子



 

 

日高郡みなべ町国民宿舎紀州路みなべ」➡日高郡みなべ町西岩代「光照寺

 

 当初は、「有間皇子結松記念碑」に行くつもりであった。事前にストリートビューで確認はしておいたのであるが、実際に走っていると見落してしまったようである。またまた行過ごし、引き返すはめに。

再挑戦する。それらしきところに白い看板があり「万葉歌碑・・・」の文字がちらっと見えた。しかし、国道である。車を急に止められる状況ではない。再々挑戦を余儀なくされる。その説明板の反対側のスペースに車を停める。「万葉歌碑は、熊野古道・岡の地に移設」といったことが書かれていた。移設先等検索してみるが、直近の情報は得られない。

熊野古道」では車は無理だろう。諦めねばならないのかと思いつつ、検索していると、有間皇子結松記念碑の写真と共に「問い合わせ先:みなべ町教育委員会」とあったので、問い合わせてみた。

 平成十六年の合併の事業として「光照寺」に歌碑を移設した、旨の回答をいただきた。お寺への行き方、「有間皇子結松記念碑」はカーブの所にあり見落としがちであると、親切に教えていただく。感謝感激である。ストリートビューで確認ができても実際に走ってみると見落していたのである。

 

 

日高郡みなべ町西岩代「光照寺」➡有間皇子結松記念碑

 

光照寺」正門前に「有間皇子結松記念碑200m」の案内指示板があった。そこを下ると目の前に見落していた「有間皇子結松記念碑」があった。確かにカーブになっており、完全に死角に入っている。

光照寺正面から国道に出る道は非常に狭く、すぐそこに国道というところで急な左直角の下り道となる。何度も何度も切り返しをするが危うく脱輪するところであった。(迂回がおすすめです。)

 

 有間皇子の歌については、これまでも何度となく紹介してきている。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その747)」では、藤白神社境内社有間皇子神社や有間皇子の墓とともに紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 有間皇子の謀反の背景と皇子に対する同情歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 椎の葉にのせてお供えする習慣が和歌山県日高郡みなべ町一帯にあることから風土と結びつけた歌の解釈等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その217)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 「笥」は、おそらく土師器のかわらけのようなものであろう。やきものに関する歌についてブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1145)」で紹介している。

 ➡ 

tom101010.hatenablog.com

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「『みなべ町指定文化財 鹿島 万葉の故郷』と題する説明案内板」

★「『みなべ町指定文化財 岡と結 万葉の故郷』と題する説明案内板」