万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1324)<柿本人麻呂行幸従駕の歌>―島根県益田市 県立万葉植物園(P35)―万葉集 巻二 二四一

●歌は、「大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海をなすかも」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P35)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P35)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆皇者 神尓之坐者 真木乃立 荒山中尓 海成可聞

      (柿本人麻呂 巻二 二四一)

 

≪書き下し≫大君は神にしませば真木(まき)の立つ荒山中(あらやまなか)に海を成すかも

 

(訳)わが大君は神であらせられるので、杉や檜の茂り立つ人気のない山中に海をお作りになっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 (注)まき【真木・槇】:杉や檜(ひのき)などの常緑の針葉樹の総称。多く、檜にいう。 ※「ま」は接頭語(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)あらやま【荒山】:人けのない、さびしい山。(学研)

(注)海:猟路の池を、皇子の力によってできた海とみてこう言った。(伊藤脚注)

 

 二三九、二四〇歌の題詞は、「長皇子遊獦路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首幷短歌」<長皇子(ながのみこ)、猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

(注)かりぢのいけ【猟路池】:奈良県桜井市鹿路(ろくろ)付近にあった池。猟道池。(コトバンク  精選版 日本国語大辞典

 

 二四一歌ならびに二三九、二四〇歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その111改)」で紹介している。

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 二三九歌を改めてみてみよう。

 

◆八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而 三獦立流 弱薦乎 獦路乃小野尓 十六社者 伊波比拜目 鶉己曽 伊波比廻礼 四時自物 伊波比拜 鶉成 伊波比毛等保理 恐等 仕奉而 久堅乃 天見如久 真十鏡 仰而雖見 春草之 益目頬四寸 吾於富吉美可聞

     (柿本人麻呂 巻二 二三九)

 

≪書き下し≫やすみしし 我が大君(おほきみ) 高光(たかひか)る 我が日の御子(みこ)の 馬並(うまな)めて 御狩(みかり)立たせる 若薦(わかこも)を 猟路(かりぢ)の小野(おの)に 鹿(しし)こそば い匐(は)ひ拝(をろが)め 鶉(うづら)こそ い匐(は)ひ廻(もとほ)れ 鹿(しし)じもの い匐(は)ひ拝(をろが)み 鶉(うづら)なす い匐(は)ひ廻(もとほ)り 畏(かしこ)みと 仕(つか)へまつりて にさかたの 天(あめ)見るごとく まそ鏡 仰(あふ)ぎて見れど 春草(はるくさ)の いやめづらしき 我が大君かも

 

(訳)あまねく天下を支配せられるわが主君、高々と天上に光ろ輝く日の神の皇子、このわが皇子が、馬を勢揃いして御狩りに立っておられる猟路野(かりじの)の御猟場では、鹿は膝を折って匍(は)うようにしてお辞儀をし、鶉はうろうろとおそばを匍(は)いまわっているが、われらも、その鹿のように匍(は)って皇子をうやまい、その鶉のように匍(は)いまわって皇子のおそばを離れず、恐れ多いことだと思いながらお仕え申し上げ、はるか天空を仰ぐように皇子を仰ぎ見るけれども、春草のようにいよいよお慕わしく心ひかれるわが大君でいらっしゃいます。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(学研)

(注)たかひかる【高光る】分類枕詞:空高く光り輝くの意で、「日」にかかる。   (学研)                    

(注)わかごもを【若菰を】分類枕詞:若菰を刈る意から同音を含む地名「猟路(かりぢ)」にかかる。(学研)

(注)まそかがみ【真澄鏡】名詞:「ますかがみ」に同じ。 ※「まそみかがみ」の変化した語。 上代語。 

(注の注)ますかがみ【真澄鏡】名詞:よく澄んで、くもりのない鏡。 ※「ますみのかがみ」の変化した語。中古以後の語で、古くは「まそかがみ」。(学研)

(注)まそかがみ【真澄鏡】分類枕詞:鏡の性質・使い方などから、「見る」「清し」「照る」「磨(と)ぐ」「掛く」「向かふ」「蓋(ふた)」「床(とこ)」「面影(おもかげ)」「影」などに、「見る」ことから「み」を含む地名「敏馬(みぬめ)」「南淵山(みなぶちやま)」にかかる。(学研)

 

 長皇子が「猟路(かりぢ)の池に遊(いでま)す時」に柿本人麻呂が、皇子を讃えて作った歌である。

 

 柿本人麻呂の讃歌には、軽皇子、新田部皇子に対する歌がある。これもみてみよう。

 

 題詞は、「軽皇子宿干安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」<軽皇子、安騎(あき)の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>である。

 

◆八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而

                (柿本人麻呂 巻一 四五)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 高照らす 日の御子(みこ) 神ながら 神さびせすと 太(ふと)敷(し)かす 都を置きて こもくりの 泊瀬(はつせ)の山は 真木(まき)立つ 荒山道(あらやまみち)を 岩が根 禁樹(さへき)押しなべ 坂鳥(さかとり)の 朝越えまして 玉かぎる 夕(ゆふ)さりくれば み雪降る 安騎(あき)の大野(おほの)に 旗(はた)すすき 小竹(しの)を押しなべ 草枕 旅宿(たびやど)りせす いにしへ思ひて

 

(訳)あまねく天の下を支配せられるわれらが大君、天上高く照らしたまう日の神の皇子(みこ)は、神であられるままに神々しく振る舞われるとて、揺るぎなく治められている都さえもあとにして、隠り処(こもりく)の泊瀬の山は真木の茂り立つ荒々しい山道なのに、その山道を岩や遮(さえぎ)る木々を押し伏せて、朝方、坂鳥のように軽々とお越えになり、光かすかな夕方がやってくると、み雪降りしきる安騎の荒野(あらの)で、旗のように靡くすすきや小竹(しん)を押し伏せて、草を枕に旅寝をなさる。過ぎしいにしえのことを偲んで。(同上)

(注)やすみしし【八隅知し・安見知し】分類枕詞:国の隅々までお治めになっている意で、「わが大君」「わご大君」にかかる。(学研)

(注)たかてらす【高照らす】分類枕詞:空高く照るの意で、「日」にかかる。(学研)

(注)ふとしく【太敷く】他動詞:居を定めてりっぱに統治する。(宮殿を)りっぱに造営する。(柱を)しっかり立てる。(学研)

(注)こもりくの【隠り口の】分類枕詞:大和の国の初瀬(はつせ)の地は、四方から山が迫っていて隠れているように見える場所であることから、地名の「初(=泊)瀬」にかかる。(学研)

(注)さへき【禁樹】名詞:通行の妨げになる木。(学研)

(注)さかどりの【坂鳥の】分類枕詞:朝早く、山坂を飛び越える鳥のようにということから「朝越ゆ」にかかる。(学研)

(注)たまかぎる【玉かぎる】分類枕詞:玉が淡い光を放つところから、「ほのか」「夕」「日」「はろか」などにかかる。また、「磐垣淵(いはかきふち)」にかかるが、かかり方未詳。(学研)

(注)はたすすき【旗薄】名詞:長く伸びた穂が風に吹かれて旗のようになびいているすすき。(学研)

(注)いにしへ:亡き父草壁皇子の阿騎野遊猟のこと。

 

 四五から四九歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1064)」で紹介している。

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 次は、新田部皇子への讃歌である。この歌は、人麻呂の長歌の中では最小である。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首 幷短歌」<柿本朝臣人麻呂、新田部皇子(にひたべのみこ)に献(たてまつ)る歌一首 幷せて短歌>である。

 

◆八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 茂座 大殿於 久方 天傳来 白雪仕物 徃来乍 益及常世

       (柿本人麻呂 巻三 二六一)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君(おほきみ) 高光(たかひか)る 日(ひ)の御子(みこ) 敷きいます 大殿(おほとの)の上(うへ)に ひさかたの 天伝(あまづた)ひ来(く)る 雪じもの 行き通(かよ)ひつつ いや常世(とこよ)まで

 

(訳)あまねく天下を支配せられる我が主君、天上高く光給う日の神の御子、この我らの皇子が統(す)べていらっしゃる大殿の上に、天空から降りしきる白雪(しらゆき)、その白雪のように行き通い続けて奉仕しよう、いついつまでも永遠に。(同上)

(注)敷きいます:主人として住んでおられる。(伊藤脚注)

(注)ゆきじもの【雪じもの】副詞:雪のように。雪めいて。 ※一説に「ゆき」にかかる枕詞(まくらことば)とも。「じもの」は接尾語。(学研)

(注の注)-じもの 接尾語:名詞に付いて、「…のようなもの」「…のように」の意を表す。※上代語。(学研)

 

 皇子への讃歌は「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃」(長皇子:二三九歌)、「八隅知之 吾大王 高照 日之皇子」(軽皇子;四五歌)、「八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子」(新田部皇子;二六一歌)とほぼ同様の詠い出しになっている。

 

 四五歌の場合は、結句が「いにしへ思ひて」とあり、短歌も「いにしへ思ふに」とか「日並皇子」と軽皇子の父草壁皇子を相当に意識した歌となっており、単純に軽皇子の讃歌であるとは言い難い歌になっている。

二三九歌では、「鹿(しし)じもの い匐(は)ひ拝(をろが)み 鶉(うづら)なす い匐(は)ひ廻(もとほ)り 畏(かしこ)みと 仕(つか)へまつり」と、二六一歌でも。「ひさかたの 天伝(あまづた)ひ来(く)る 雪じもの 行き通(かよ)ひつつ」と「・・・じもの」(・・・のように)と奉仕する姿に言及し皇子への讃歌としている。

 高市皇子の挽歌(一九九歌)においても、「あかねさす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆうへ)になれば 大殿(おほとの)を 振り放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍(は)ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど」と奉仕する姿を詠っている。

 「・・・じもの」と、雪や動物・鳥の姿を譬えにつかった人麻呂の創造性が見られるのである。

 

 

 柿本人麻呂は、持統天皇の吉野行幸に従駕し持統天皇の讃歌を作っている。

 

題詞は、「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麿作歌」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、柿本朝臣人麿が作る歌>である

 

◆八隅知之 吾大王之 所聞食 天下尓 國者思毛 澤二雖有 山川之 清河内跡 御心乎 吉野乃國之 花散相 秋津乃野邊尓 宮柱 太敷座波 百磯城乃 大宮人者 船並弖 旦川渡 舟竟 夕河渡 此川乃 絶事奈久 此山乃 弥高良思珠 水激 瀧之宮子波 見礼跡不飽可聞

                             (柿本人麻呂 巻一 三六)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大王(おほきみ)の きこしめす 天(あめ)の下(した)に 国はしも さはにあれども 山川(やまかは)の 清き河内(かうち)と 御心(みこころ)を 吉野の国の 花散(ぢ)らふ 秋津(あきづ)の野辺(のへ)に 宮柱(みやはしら) 太敷(ふとし)きませば ももしきの 大宮人(おほみやひち)は 舟(ふな)並(な)めて 朝川(あさかは)渡る 舟競(ぎそ)ひ 夕川(ゆふかは)渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知(たかし)らす 水(みな)激(そそ)く 滝(たき)の宮処(みやこ)は 見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)あまねく天の下を支配されるわれらが大君のお治めになる天の下に、国はといえばたくさんあるけれども、中でも山と川の清らかな河内として、とくに御心をお寄(よ)せになる吉野(よしの)の国の豊かに美しい秋津の野辺(のべ)に、宮柱をしっかとお建てになると、ももしきの大宮人は、船を並べて朝の川を渡る。船を漕ぎ競って夕の川を渡る。この川のように絶えることなく、この山のようにいよいよ高く君臨したまう、水流激しきこの滝の都は、見ても見ても見飽きることはない。

(注)きこしめす【聞こし召す】他動詞:お治めになる。(政治・儀式などを)なさる。 ▽「治む」「行ふ」などの尊敬語。(学研)

(注)さはに【多に】副詞:たくさん。 ※上代語。(学研)

(注)かふち【河内】名詞:川の曲がって流れている所。また、川を中心にした一帯。 ※「かはうち」の変化した語。

(注)みこころを【御心を】分類枕詞:「御心を寄す」ということから、「寄す」と同じ音を含む「吉野」にかかる。「みこころを吉野の国」(学研)

(注)ちらふ【散らふ】分類連語:散り続ける。散っている。 ※「ふ」は反復継続の助動詞。上代語。(学研) 花散らふ:枕詞で「秋津」に懸る、という説も。

(注)たかしる【高知る】他動詞:立派に治める。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その771)」で紹介している。

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◆安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 芳野川 多藝津河内尓 高殿乎 高知座而 上立 國見乎為勢婆 疊有 青垣山 ゝ神乃 奉御調等 春部者 花挿頭持 秋立者 黄葉頭刺理 <一云 黄葉加射之> 逝副 川之神母 大御食尓 仕奉等 上瀬尓 鵜川乎立 下瀬尓 小網刺渡 山川母 依弖奉流 神乃御代鴨

       (柿本人麻呂 巻一 三八)

 

≪書き下し≫やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと 吉野川 たぎつ河内(かふち)に 高殿(たかとの)を 高知(たかし)りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山(あをかきやま) 山神(やまつみ)の 奉(まつ)る御調(みつき)と 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉(もみち)かざせり <一には「黄葉かざし」といふ> 行き沿(そ)ふ 川の神も 大御食(おほみけ)に 仕(つか)へ奉(まつ)ると 上(かみ)つ瀬に 鵜川(うかは)を立ち 下(しも)つ瀬に 小網(さで)さし渡す 山川(やまかは)も 依(よ)りて仕(つか)ふる 神の御代(みよ)かも

 

(訳)安らかに天の下を支配されるわれらが大君、大君が神であるままに神らしくなさるとて、吉野川の激流渦巻く河内に、高殿を高々とお造りのなり、そこに登り立って国見をなさると、幾重にも重なる青垣のような山々の、その山の神が大君に捧(ささ)げ奉る貢物(みつぎもの)として、春の頃おいには花を髪にかざし、秋たけなわの時ともなるとになると色づいをかざしている<色づいた葉をかざし>、高殿に行き沿うて流れる川、その川の神も、大君のお食事にお仕え申そうと、上の瀬に鵜川(うかわ)を設け、下の瀬にすくい網を張り渡している。ああ、われらが大君の代は山や川の神までも心服して仕える神の御代であるよ。(同上)

(注)「神ながら 神さびせすと」:神のままに神らしくなさるとて。(伊藤脚注)

(注)せす【為す】分類連語:なさる。あそばす。 ※上代語。 ⇒なりたち サ変動詞「す」の未然形+上代の尊敬の助動詞「す」(学研)

(注)たたなはる【畳なはる】自動詞:①畳み重ねたような形になる。重なり合って連なる。②寄り合って重なる。 ⇒参考 ①の用例の「たたなはる」は、「青垣山」にかかる枕詞(まくらことば)とする説もある。(学研)ここでは①の意

(注)かざす【挿頭す】[動]《「かみ(髪)さ(挿)す」の音変化という》:① 草木の花や枝葉、造花などを髪や冠にさす。② 物の上に飾りつける。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)おほみけ【大御食】名詞:召し上がり物。▽神・天皇が食べる食べ物の尊敬語。 ※「おほみ」は接頭語(学研)

(注)うかは【鵜川】名詞:鵜(う)の習性を利用して魚(多く鮎(あゆ))をとること。鵜飼い。また、その川。(学研)

(注)さで【叉手・小網】名詞:魚をすくい取る網。さであみ。(学研)

 

左注は、「右日本紀曰 三年己丑正月天皇幸吉野宮 八月幸吉野宮 四年庚寅二月幸吉野宮 五月幸吉野宮 五年辛卯正月幸吉野宮 四月幸吉野宮者 未詳知何月従駕作歌」<右は、日本紀には「三年 己丑(つちのとうし)の正月に、天皇吉野の宮に幸(いでま)す。 八月に、吉野の宮に幸(いでま)す。 四年庚寅(かのえとら)の二月に、吉野の宮に幸す。 五月に、吉野の宮に幸す。 五年辛卯(かのとう)の正月に、吉野の宮に幸す。 四月に、吉野の宮に幸す」といふ。いまだ詳(つばひ)らかにいづれの月の従駕(おほみとも)にして作る歌なるかを知らず>である。

(注)持統天皇の吉野行幸は在位中三一回。そのうち初めの五年までが記されている。

 

 「やすみしし 我(わ)が大君 神(かむ)ながら 神(かむ)さびせすと」と詠い出し、「山川(やまかは)も 依(よ)りて仕(つか)ふる 神の御代(みよ)かも」と結んでいる。

 山の神も川の神も天皇に仕えるという柿本人麻呂天皇絶対礼賛の心が込められている。

 

 これほどまでに持統天皇を讃えた人麻呂であるが、持統天皇の挽歌を詠っていない。さらには、持統天皇を讃えるも、影で着々と権力を手中に収めつつあった藤原不比等との間には微妙な距離感があったようである。

 

梅原 猛氏の考え方によれば、ここらあたりからの乖離が人麻呂の悲劇につながる伏線になっているというのである。

 万葉集自体が反藤原氏的グループによる編纂と考えていくと柿本人麻呂をめぐる悲劇も真実性をおびてくる。

 万葉集の歌に魅せられ、万葉歌碑を巡るようになり、歌を楽しんできたが、当時の時代的背景を踏まえ、万葉集をみて行くことになるとは微塵も思っていなかった。しかし、そこに万葉集万葉集としての歌の面白さが見えてくるのであり、これからはもっといろいろな角度からじっくりと万葉集を眺めて行きたいものである。

 ますます遠く、深く、姿も変える万葉集

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 上下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク  精選版 日本国語大辞典

 

万葉歌碑を訪ねて(その1323)<虎を詠んだ歌は三首収録されている>―島根県益田市 県立万葉植物園(P34)―万葉集 巻十六 三八八五

●歌は、「いとこ汝背の君居り居りて物にい行くとは韓国の虎といふ神を生け捕りに八つ捕り持ち来その皮を畳に刺し八重畳平群の山に四月と五月との間に薬猟仕ふる時にあしひきのこの片山に二つ立つ櫟が本に梓弓八つ手挟みひめ鏑八つ手挟み鹿待つと我が居る時にさを鹿の来立ち嘆かく・・・」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P34)万葉歌碑<プレート>(乞食者の詠う歌)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P34)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠ふ歌二首>の一首である。

左注は「右の歌は、鹿のために痛みを述べて作る」である。

 

◆伊刀古 名兄乃君 居々而 物尓伊行跡波 韓國乃 神乎 生取尓 八頭取持来 其皮乎 多ゝ弥尓刺 八重疊 平群乃山尓 四月 与五月間尓 藥獦 仕流時尓 足引乃 此片山尓 二立 伊智比何本尓 梓弓 八多婆佐弥 比米加夫良 八多婆左弥 完待跡 吾居時尓 佐男鹿乃 来立嘆久 頓尓 吾可死 王尓 吾仕牟 吾角者 御笠乃婆夜詩 吾耳者 御墨坩 吾目良波 真墨乃鏡 吾爪者 御弓之弓波受 吾毛等者 御筆波夜斯 吾皮者 御箱皮尓 吾完者 御奈麻須波夜志 吾伎毛母 御奈麻須波夜之 吾美義波 御塩乃波夜之 耆矣奴 吾身一尓 七重花佐久 八重花生跡 白賞尼 白賞尼

     (乞食者の詠 巻十六 三八八五)

 

≪書き下し≫いとこ 汝背(なせ)の君 居(を)り居(を)りて 物にい行くとは 韓国(からくに)の といふ神を 生(い)け捕(ど)りに 八つ捕り持ち来(き) その皮を 畳(たたみ)に刺(さ)し 八重(やへ)畳(たたみ) 平群(へぐり)の山に 四月(うづき)と 五月(さつき)との間(ま)に 薬猟(くすりがり) 仕(つか)ふる時に あしひきの この片山(かたやま)に 二つ立つ 櫟(いちひ)が本(もと)に 梓弓(あづさゆみ) 八(や)つ手挟(たばさ)み ひめ鏑(かぶら) 八つ手挟み 鹿(しし)待つと 我が居(を)る時に さを鹿(しか)の 来立ち嘆(なげ)かく たちまちに 我(わ)れは死ぬべし 大君(おほきみ)に 我(わ)れは仕(つか)へむ 我(わ)が角(つの)は み笠(かさ)のはやし 我(わ)が耳は み墨(すみ)坩(つほ) 我(わ)が目らは ますみの鏡 我(わ)が爪(つめ)は み弓の弓弭(ゆはず) 我(わ)が毛らは み筆(ふみて)はやし 我(わ)が皮は み箱の皮に 我(わ)が肉(しし)は み膾(なます)はやし 我(わ)が肝(きも)も み膾(なます)はやし 我(わ)がみげは み塩(しほ)のはやし 老い果てぬ 我(あ)が身一つに 七重(ななへ)花咲く 八重(やへ)花咲くと 申(まを)しはやさに 申(まを)しはやさに

 

(訳)あいやお立ち合い、愛(いと)しのお立ち合い、じっと家に居続けてさてさてどこかへお出かけなんてえのは、からっきし億劫(おつくう)なもんだわ、その韓(から)の国の虎、あの虎というおっかない神を、生け捕りに八頭(やつつ)もひっ捕らまえて来てわさ、その皮を畳に張って作るなんぞその八重畳、その八重の畳を隔てて繰り寄せ編むとは平群(へぐり)のあのお山で、四月、五月の頃合、畏(かしこ)の薬猟(かり)に仕えた時に、ここな端山(はやま)に並び立つ、二つの櫟(いちい)の根っこのもとで、梓弓(あずさゆみ)八(やつ)つ手狭み、ひめ鏑(かぶら)八(やつ)つ手狭み、このあっちが獲物を待ってうずくまっていたとしなされ、その時雄鹿が一つ出て来てひょこっとつっ立ってこう嘆いたわいさ、「射られてもうすぐ私は死ぬはずの身。どうせ死ぬなら大君のお役に立ちましょう。私の角はお笠の材料(たね)、私の耳はお墨の壺(つぼ)、私の両目は真澄(ますみ)の鏡、私の爪はお弓の弓弭(ゆはず)、私の肌毛はお筆の材料(たね)、私の皮はお手箱の覆い、私の肉はお膾(なます)の材料(たね)、私の肝もお膾の材料(たね)、私の胃袋(ゆげ)はお塩辛の材料(たね)。そうそう、今や老い果てようとするこの私めの身一つに、七重も八重も花が咲いた花が咲いたと、賑々(にぎにぎ)しくご奏上下され、賑々しくご奏上下され」とな。(伊藤 博 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)いとこ【愛子】名詞:いとしい人。▽男女を問わず愛(いと)しい人を親しんで呼ぶ語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)「いとこ 汝背(なせ)の君」:相手を親しんでの呼びかけ。聴衆あての表現。(伊藤脚注)

(注)をり【居り】:<自動詞>①座っている。腰をおろしている。②いる。存在する。 

補助動詞>(動詞の連用形に付いて)…し続ける。…している。(学研)

(注)もの【物】名詞:①物。衣服・飲食物・楽器など形のある存在。▽前後の関係からそれとわかるので明示せずにいう。②物事。もの。芸能・音楽・行事など形のない存在。▽前後の関係からそれとわかる事柄を明示せずにいう。③もの。こと。▽思ったり話したりすることの内容。④人。者。◇「者」とも書く。⑤ある所。⑥怨霊(おんりよう)。鬼神。物の怪(け)。超自然的な恐ろしい存在。(学研)ここでは⑤の意

(注)「居り居いて 物にい行くとは」は序。「韓国(からくに)」を起こす。辛くつらいの意。(伊藤脚注)

(注)「韓国」から「畳に刺し」までは、「八重畳」の序。(伊藤脚注)

(注)やへだたみ【八重畳】①( 名 ):幾重にも重ねて敷いた敷物。神座として用いる。 ②( 枕詞 ):幾重にも重ねるところから、「へ(重)」と同音の地名「平群(へぐり)」にかかる。 (学研)

(注)くすりがり【薬狩】名詞:陰暦四、五月ごろ、特に五月五日に、山野で、薬になる鹿(しか)の若角や薬草を採取した行事。[季語] 夏。薬猟(学研)

(注)はやし:栄えさせる意の「栄す」の名詞形

(注)ゆはず【弓筈・弓弭】名詞:弓の両端の弦をかけるところ。上の弓筈を「末筈(うらはず)」、下を「本筈(もとはず)」と呼ぶ。※「ゆみはず」の変化した語。(学研)

(注)なます【鱠・膾】名詞:魚介・鳥獣の生肉を細かく刻んだもの。後世では、それを酢などであえた料理。さらに後には、大根・人参などを混ぜたり、野菜のみのものにもいう。(学研)

 

 この歌は、最初に読んだときは、読みづらかったが、読み返してみると、リズミカルでそのテンポの良さに改めて驚かされたのである。

 「八つ捕り持ち来」、「八重畳」、「四月」、「五月」、「二つ立つ」、「櫟が本に」、「八つ手挟み」、「八つ手挟み」、「鹿(しし)→十六?」、「我が身一つに」、「七重花咲く」、「八重花咲く」と、数字や数字的要素を含む語彙が多用され心地良い響きを醸し出している。

 後半の「たちまちに」以後は鹿の言葉に置き換わり、「我(わ)が角(つの)は み笠(かさ)のはやし」、「我(わ)が耳は み墨(すみ)坩(つほ)」、「我(わ)が目らは ますみの鏡」、「我(わ)が爪(つめ)は み弓の弓弭(ゆはず)」、「我(わ)が毛らは み筆(ふみて)はやし」、「我(わ)が皮は み箱の皮」、「我(わ)が肉(しし)は み膾(なます)はやし」、「我(わ)が肝(きも)も み膾(なます)はやし」、「我(わ)がみげは み塩(しほ)のはやし」の対比の連続が、次はどうなると巻き込まれるので飽きさせない。

 「み」の響きも「三」の連想になっているのだろう。

 

 「乞食者が詠ふ歌二首」のもう一首、三八八六歌ならびに、巻十六のグループ別代表歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1087)」で紹介している。

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 今年は「寅年」である。この歌にも「虎」が出てくるが、「虎」を詠んだ歌は他に二首収録されている。これらもみてみよう。一九九と三八三三歌である。

 

 一九九歌の題詞は、「高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 幷短歌」<高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 幷(あは)せて短歌>である。

 

◆挂文 忌之伎鴨 <一云 由遊志計礼抒母> 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 背友乃國之 真木立 不破山越而 狛劔 和射見我原乃 行宮尓 安母理座而 天下 治賜 <一云 掃賜而> 食國乎 定賜等 鶏之鳴 吾妻乃國之 御軍士乎 喚賜而 千磐破 人乎和為跡 不奉仕 國乎治跡 <一云 掃部等> 皇子随 任賜者 大御身尓 大刀取帶之 大御手尓 弓取持之 御軍士乎 安騰毛比賜 齊流 鼓之音者 雷之 聲登聞麻▼ 吹響流 小角乃音母 <一云 笛之音波> 敵見有 可▼2吼登 諸人之 恊流麻▼尓 <一云 聞或麻▼> 指擧有 幡之靡者 冬木成 春去来者 野毎 著而有火之 <一云 冬木成 春野焼火乃> 風之共 靡如久 取持流 弓波受乃驟 三雪落 冬乃林尓<[一云 由布乃林> 飃可毛 伊巻渡等 念麻▼ 聞之恐久 <一云 諸人 見或麻▼尓> 引放 箭之繁計久 大雪乃 乱而来礼 <一云 霰成 曽知余里久礼婆> 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久 去鳥乃 相競端尓 <一云 朝霜之 消者消言尓 打蝉等 安良蘇布波之尓> 渡會乃 齋宮従 神風尓 伊吹或之 天雲乎 日之目毛不令見 常闇尓 覆賜而 定之 水穂之國乎 神随 太敷座而 八隅知之 吾大王之 天下 申賜者 萬代尓 然之毛将有登 <一云 如是毛安良無等> 木綿花乃 榮時尓 吾大王 皇子之御門乎 <一云 刺竹 皇子御門乎> 神宮尓 装束奉而 遣使 御門之人毛 白妙乃 麻衣著 埴安乃 門之原尓 赤根刺 日之盡 鹿自物 伊波比伏管 烏玉能 暮尓至者 大殿乎 振放見乍 鶉成 伊波比廻 雖侍候 佐母良比不得者 春鳥之 佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未不盡者 言左敝久 百濟之原従 神葬 々伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 萬代跡 所念食而 作良志之 香来山之宮 萬代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文

      (柿本人麻呂 巻二 一九九)

 ▼は、「亻に弖」⇒「麻▼」=「まで」  

▼2は、「口偏にリ」⇒「虎可▼2吼登」=「虎か吼(ほ)ゆると」

 

≪書き下し≫かけまくも ゆゆしきかも <一には「ゆゆしけれども」といふ> 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神(まかみ)の原に ひさかたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて 神(かむ)さぶと 磐隠(いはがく)ります やすみしし 我(わ)が大君の きこしめす 背面(そもと)の国の 真木(まき)立つ 不破山(ふはやま)超えて 高麗剣(こまつるぎ) 和射見(わざも)が原の 行宮(かりみや)に 天降(あも)りいまして 天(あめ)の下(した) 治めたまひ <一には「掃ひたまひて」といふ> 食(を)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東(あづま)の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと <一には「掃へと」といふ> 皇子(みこ)ながら 任(よさ)したまへば 大御身(おほみみ)に 大刀(たち)取り佩(は)かし 大御手(おほみて)に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率(あども)ひたまひ 整(ととのふ)ふる 鼓(つづみ)の音は 雷(いかづち)の 声(こゑ)と聞くまで 吹き鳴(な)せる 小角(くだ)の音も <一には「笛の音は」といふ> 敵(あた)見たる か吼(ほ)ゆると 諸人(もろひと)の おびゆるまでに <一には「聞き惑ふまで」といふ> ささげたる 旗(はた)の靡(なび)きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の <一には「冬こもり 春野焼く火の」といふ> 風の共(むた) 靡(なび)くがごとく 取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒き み雪降る 冬の林に <一には「木綿の林」といふ> つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏(かしこ)く <一には「諸人の 見惑ふまでに」といふ> 引き放つ 矢の繁(しげ)けく 大雪の 乱れて来(きた)れ <一には「霰なす そちより来れば」といふ> まつろはず 立ち向(むか)ひしも 露霜(つゆしも)の 消(け)なば消(け)ぬべく 行く鳥の 争ふはしに <一には「朝霜の 消なば消とふに うつせみと 争ふはしに」といふ> 渡会(わたらひ)の 斎(いつ)きの宮ゆ 神風(かむかぜ)に い吹き惑(まと)はし 天雲(あまくも)を 日の目も見せず 常闇(とこやみ)に 覆(おほ)ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神(かむ)ながら 太敷(ふとし)きまして やすみしし 我(わ)が大君の 天の下 奏(まを)したまへば 万代(よろづよ)に しかしもあらむと <一には「かくしもあらむと」といふ> 木綿花(ゆふばな)の 栄ゆる時に 我(わ)が大君 皇子(みこ)の御門(みかど)を <一には「刺す竹の 皇子の御門を」といふ> 神宮(かむにや)に 装(よそ)ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲(しろたへ)の 麻衣(あさごろも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿(しし)じもの い匍(は)ひ伏しつつ ぬばたまの 夕(ゆうへ)になれば 大殿(おほとの)を 振り放(さ)け見つつ 鶉(うづら)なす い匍(は)ひ廻(もとほ)り 侍(さもら)へど 侍ひえねば 春鳥(はるとり)の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言(こと)さへく 百済(くだら)の原ゆ 神葬(かむはぶ)り 葬りいまして あさもよし 城上(きのへ)の宮を 常宮(とこみや)と 高く奉(まつり)りて 神(かむ)ながら 鎮(しづ)まりましぬ しかれども 我(わ)が大君の 万代(よろづよ)と 思ほしめして 作らしし 香具山(かぐやま)の宮 万代に 過ぎむと思へや 天(あめ)のごと 振り放(さ)け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏(かしこ)くあれども

 

(訳)心にかけて思うのも憚(はばか)り多いことだ。<憚り多いことであるけれども、>ましてや口にかけて申すのも恐れ多い、明日香の真神(まかみ)の原に神聖な御殿を畏(かしこ)くもお定めになって天の下を統治され、今は神として天の岩戸にお隠れ遊ばしておられる我が天皇(すめらみこと)(天武)が、お治めになる北の国の真木生い茂る美濃(みの)不破山を越えて、高麗剣和射見(わざみ)が原の行宮(かりみや)に神々しくもお出ましになって、天の下を治められ<掃(はら)浄(きよ)められて>国中をお鎮めになろうとして、鶏が鳴く東の国々の軍勢を召し集められて、荒れ狂う者どもを鎮めよ、従わぬ国を治めよと<掃い浄めよと>、皇子であられるがゆえにお任せになったので、わが皇子は成り代わられた尊い御身に太刀(たち)を佩(は)かれ、尊い御手(おんて)に弓をかざして軍勢を統率されたが、その軍勢を叱咤(しった)する鼓の音は雷(いかずち)の声かと聞きまごうばかり、吹き鳴らす小角笛(つのぶえ)の音<笛の音は>も敵に真向かう虎がほえるかと人びとが怯(おび)えるばかりで<聞きまどうばかり>、兵士(つわもの)どもが捧(ささ)げ持つ旗の靡くありさまは、春至るや野という野に燃え立つ野火が<冬明けて春の野を焼く火の>風にあおられて靡くさまさながらで、取りかざす弓弭(ゆはず)のどよめきは、雪降り積もる冬の林<まっしろな木綿(ゆう)の林>に旋風(つむじかぜ)が渦巻き渡るかと思うほどに<誰しもが見まごうほどに>恐ろしく、引き放つ矢の夥(おびただ)しさといえば大雪の降り乱れるように飛んでくるので<霰(あられ)のように矢が集まってくるので>、ずっと従わず抵抗した者どもも、死ぬなら死ねと命惜しまず先を争って刃向かってきたその折しも<死ぬなら死ねというばかりに命がけで争うその折りしも>、度会(わたらい)に斎(いつ)き奉(まつ)る伊勢の神宮(かむみや)から吹き起こった神風で敵を迷わせ、その風の呼ぶ天雲で敵を日の目も見せず真っ暗に覆い隠して、このようにして平定成った瑞穂(みずほ)の神の国、この尊き国を、我が天皇(すめらみこと)(天武・持統)は神のままにご統治遊ばされ、我が大君(高市)は天の下のことを奏上なされたので、いついつまでもそのようにあるだろうと<かくのごとくであるだろうと>、まさに木綿花のようにめでたく栄えていた折も折、我が大君(高市)その皇子の御殿を<刺し出る竹のごとき皇の御殿を>御霊殿(みたまや)としてお飾り申し、召し使われていた宮人たちも真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の広場に、昼は日がな一日、鹿でもないのに腹這(はらば)い伏し、薄暗い夕方になると、大殿を振り仰ぎ見ながら鶉(うずら)のように這いまわって、御霊殿にお仕え申しあげるけれども、何のかいもないので、春鳥のむせび鳴くように泣いていると、その吐息(といき)もまだ消えやらぬのに、その悲しみもまだ果てやらぬのに、百済(くだら)の原を通って神として葬り参らせ、城上(きのえ)の殯宮(あらき)を永遠の御殿として高々と営み申し、ここに我が大君はおんみずから神としてお鎮まりになってしまわれた。しかしながら、我が大君が千代万代(よろずよ)にと思し召して造られた香具山の宮、この宮はいついつまでも消えてなくなることなどあるはずがない。天(あま)つ空(ぞら)を仰ぎ見るように振り仰ぎながら、深く深く心に懸けてお偲びしてゆこう。恐れ多いことではあるけれども。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)かけまくも 分類連語:心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。 ⇒なりたち 動詞「か(懸)く」の未然形+推量の助動詞「む」の古い未然形「ま」+接尾語「く」+係助詞「も」(学研)

(注)まかみがはら【真神原】:現在の奈良県明日香村飛鳥の中央部にあった原野をさす古代地名。《万葉集》に,〈大口の真神の原〉とうたわれているから,かつては真神すなわちオオカミのすむような原野と意識されていたらしい。(後略)(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

(注)天つ御門:清御原宮に対する神話的表現。(伊藤脚注)

(注)神さぶ:今は神として天上におられる。(伊藤脚注)

(注)背面(そとも)の国:北の国。近江のかなた美濃の国。(伊藤脚注)

(注の注)そとも 名詞:【背面】(山の)北側。北。日光を受ける側の背面、日の当たらない方。◇上代語。[反対語] 影面(かげとも)。(学研)

(注)不破山:不破関址の西伊増峠あたりか。(伊藤脚注)

(注)こまつるぎ【高麗剣】分類枕詞:高麗(こま)伝来の剣は、柄頭(つかがしら)に輪があるところから、輪と同音の「わ」にかかる。(学研)

(注)あんぐう【行宮】名詞:天皇の旅行の際、その地に一時的に設けられる御所。行在所(あんざいしよ)。(学研)伊藤氏は「行宮」を「かりみや」と読まれている。

(注)天降り:アマオリの約。天武の行幸を神話的にいったもの。(伊藤脚注)

(注)とりがなく【鳥が鳴く・鶏が鳴く】分類枕詞:東国人の言葉はわかりにくく、鳥がさえずるように聞こえることから、「あづま」にかかる。(学研)

(注)おほみみ【大御身】名詞:天皇のおからだ。 ※「おほみ」は接頭語。(学研)

(注の注)おほみ-【大御】接頭語」主として神・天皇に関する語に付いて、最大級の尊敬を表す。 ⇒参考 尊敬の意を表す「おほ」と「み」を重ねた語。(学研)

(注)くだのふえ【管の笛/小角】古代の軍楽器の一。大角(はらのふえ)とともに戦場で用いた、管の形をした小さい笛。くだ。(学研)

(注)ふゆごもり【冬籠り】分類枕詞:「春」「張る」にかかる。かかる理由は未詳。 ※古くは「ふゆこもり」。(学研)

(注)ゆはず【弓筈・弓弭】名詞:弓の両端の弦をかけるところ。上の弓筈を「末筈(うらはず)」、下を「本筈(もとはず)」と呼ぶ。 ※「ゆみはず」の変化した語。(学研)

(注)「そち」は未詳。「さち(矢)」か。(伊藤脚注)

(注の注)さち【幸】名詞:①(山海の)獲物をとるための道具。弓矢・釣り針の類にいう。②漁や狩りで獲物があること。また、その獲物。③幸福。しあわせ。(学研)ここでは①の意

(注)まつろふ【服ふ・順ふ】自動詞:服従する。つき従う。仕える。 ⇒参考 動詞「まつ(奉)る」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」が付いた「まつらふ」の変化した語。貢ぎ物を献上し続けるの意から。(学研)

(注)定めてし:このようにして平定の成った。(伊藤脚注)

(注)木綿花の:「栄ゆ」の枕詞(伊藤脚注)

(注)ししじもの【鹿じもの・猪じもの】分類枕詞:鹿(しか)や猪(いのしし)のようにの意から「い這(は)ふ」「膝(ひざ)折り伏す」などにかかる。(学研)

(注)ことさへく【言さへく】分類枕詞:外国人の言葉が通じにくく、ただやかましいだけであることから、「韓(から)」「百済(くだら)」にかかる。「ことさへく韓の」 ※「さへく」は騒がしくしゃべる意。(学研)

(注)あさもよし【麻裳よし】分類枕詞:麻で作った裳の産地であったことから、地名「紀(き)」に、また、同音を含む地名「城上(きのへ)」にかかる。(学研)

 

 壬申の乱の場面がドラマチックに歌われている。

 

 

 三八三三歌をみてみよう。

 

題詞は、「境部王詠數種物歌一首 穂積親王之子也」<境部王(さかひべのおほきみ)、数種の物を詠む歌一首 穂積親王の子なり>である。

 

尓乗 古屋乎越而 青淵尓 鮫龍取将来 劒刀毛我

      (境部王 巻十六 三八三三)

 

≪書き下し≫(とら)に乗り古屋(ふるや)を越えて青淵(あをふち)に蛟龍(むつち)捕(と)り来(こ)む剣太刀(つるぎたち)もが

 

(訳)虎にまたがり、古屋の屋根を飛び越えて行って、薄気味悪い青渕で、その主の蛟龍(みずち)を捕らえて来られるような、そんな剣大刀があればよいのに。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)ふるや【古屋】名詞:古くなった家。(学研)

(注の注)古屋の漏り:動物昔話の一種。爺婆が雨の夜に、唐土の虎よりも古屋の雨漏りが怖いと話すのを虎が聞き、逃げて行くといった筋。東洋に広く分布し、日本でも広い分布をもつ。「秘密のもれることは恐ろしい」といういましめの意味にも用いられる。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)みづち【蛟/虬/虯/螭】:《古くは「みつち」。「み」は水、「つ」は「の」、「ち」は霊の意》想像上の動物。蛇に似て長く、角と4本の足がある。水中にすみ、毒気を吐いて人を害するという。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この歌は「恐ろしいもの」を歌っている。

 「はじめての万葉集 vol.46」(奈良県HP)にこの歌の解説が載っているので引用させていただきます。

 「(前略)古屋は、古くなって鬼が住みついたような家を指すとされます。青淵は、青々とした水淵のことで、『枕草子』にも恐ろしいものとして記述されています。鮫龍は、蛇のような姿の想像上の動物で、『日本書紀』仁徳紀に、淵に住む虬(みづち)(鮫龍)が毒を吐いて人々を苦しめたとあります。鮫龍が住む所が淵とされたため、「青淵」にも恐ろしいイメージがついたのでしょうか。

 乗り物として歌われている虎もまた、恐ろしい動物でした。虎は、日本には生息していませんが、古代にも虎の毛皮や虎にまつわる逸話が中国・朝鮮半島から日本に入ってきていました。虎の大きさや力強さなどは、よく知られていたことでしょう。(後略)」

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「はじめての万葉集 vol.46」 (奈良県HP)

万葉歌碑を訪ねて(その1322)―島根県益田市 県立万葉植物園(P33)―万葉集 巻十七 三九二一

●歌は、「かきつはた衣に摺り付けますらをの着襲ひ猟する月は来にけり」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P33)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P33)にある。

 

●歌をみていこう。

 

加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曽比獦須流 月者伎尓家里

       (大伴家持 巻十七 三九二一)

 

≪書き下し≫かきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付けますらをの着(き)襲(そ)ひ猟(かり)する月は来にけり

 

(訳)杜若(かきつばた)、その花を着物に摺り付け染め、ますらおたちが着飾って薬猟(くすりがり)をする月は、今ここにやってきた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)きそふ【着襲ふ】他動詞:衣服を重ねて着る。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 題詞は、「十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首」<十六年の四月の五日に、独り平城(なら)の故宅(こたく)に居(を)りて作る歌六首>である。

 

左注は、「右六首天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作」<右の六首の歌は、天平十六年の四月の五日に、独り平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)に居(を)りて、大伴宿禰家持作る。>である。

 

 題詞、左注の「独り平城(なら)に居り」、「平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)」から、安積親王の喪に服していたと考えられるのである。家持は、天平十年から十六年、内舎人(うどねり)であった。

(注)天平十六年:744年

(注)うどねり【内舎人】名詞:律令制で、「中務省(なかつかさしやう)」に属し、帯刀して、内裏(だいり)の警護・雑役、行幸の警護にあたる職。また、その人。「うとねり」とも。 ※「うちとねり」の変化した語。(学研)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1126)」で紹介している。

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「かきつばた」の語源は、「書付花(かきつけばな)」で、衣服を染めるのに利用されたことによるという。「かきつはた衣に摺り付け」は、まさにこのことを物語っている。

「かきつばた」を詠んだ歌は七首収録されている。これらをみてみよう。

 

 

◆常不 人國山乃 秋津野乃 垣津幡鴛 夢見鴨

      (作者未詳 巻七 一三四五)

 

≪書き下し≫常ならぬ人国山(ひとくにやま)の秋津野(あきづの)のかきつはたをし夢(いめ)に見しかも

 

(訳)人国山の秋津野に咲くかきつばた、美しいそのかきつばたの花を、昨夜、私は夢に見ました。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)つねならず【常ならず・恒ならず】分類連語:変わりやすい。無常である。はかない。 ⇒なりたち 名詞「つね」+断定の助動詞「なり」の未然形+打消の助動詞「ず」(学研)

(注)「常ならぬ」から「かきつはた」まで人妻の譬え。(伊藤脚注)

(注)人国山:他国の山。和歌山県の山の名とも。(伊藤脚注)

(注の注)人国山を詠んだもう一首は一三〇五歌である。

 

◆雖見不飽 人國山 木葉 己心 名著念

    (柿本人麻呂歌集 巻七 一三〇五)

 

≪書き下し≫見れど飽(あ)かぬ人国山(ひとくにやま)の木の葉をし我(わ)が心からなつかしみ思ふ

 

(訳)いくら見ても見飽きることのない人国山の木の葉よ、この木の葉が、私としたことが自身の心の底から懐かしく思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)人国山:他国の山。和歌山県の山の名とする説も。(伊藤脚注)

(注)木の葉:人妻あるいは他の部落の女の譬え(伊藤脚注)

(注)をし:略体歌では、「助辞」が省略されることから考えると、目的+強調で「を」「し」か。「をぞ」と読んでいる本もあり、「を+し」で目的を強調。

(注の注)「万葉歌碑を訪ねて(その713)」で「をし」を「形容詞:①【惜し】残念だ。心残りだ。手放せない。惜しい。②【愛し】いとしい。かわいい。(学研)」としていたが、間違いで、原文に書かれていない以上「助辞」とみるのが正しいと思う。

 

 一三〇五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その713)」で紹介している。

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◆墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓揩著 将衣日不知毛

      (作者未詳 巻七 一三六一)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の浅沢小野(あささはをの)のかきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付け着む日知らずも

 

(訳)住吉の浅沢小野に咲くかきつばた、あのかきつばたの花を。私の衣の摺染めにしてそれを身に付ける日は、いったいいつのことなのやら。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)浅沢小野:住吉大社東南方の低湿地。(伊藤脚注)

(注)かきつはた:年ごろの女の譬え(伊藤脚注)

(注)「着る」は我が妻とする意。(伊藤脚注)

 

一般財団法人 大阪市コミュニティ協会 住吉区支部協議会HPによると、「かきつばた」は、大阪市住吉区の区の花に指定されているそうである。住吉大社の南東、細江川北岸・浅沢神社周辺は古代、浅沢沼と呼ばれていた、書かれている。

 藤原定家の「いかにして浅沢沼のかきつばた紫ふかくにほひ染めけん」 また、明治10年明治天皇行幸された時の歌、「むかし見し浅沢小野の花あやめいまも咲くらむ葉がくれにして」が紹介されている。

 

 

◆吾耳哉 如是戀為良武 垣津旗 丹頬合妹者 如何将有

      (作者未詳 巻十 一九八六)

 

≪書き下し≫我(あ)れのみやかく恋すらむかきつはた丹(に)つらふ妹(いも)はいかにかあるらむ

 

(訳)私だけがこんなにせつなく恋い焦がれているのであろうか。かきつばたのように紅(あか)い頬をしたあの子は、いったいどんな気持ちでいるのであろうか。(同上)

(注)かきつはた【枕詞】① 花の美しさから、「にほふ」「丹(に)つらふ」にかかる。② 花が咲くところから、「さき」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)につらふ【丹つらふ】自動詞:紅(くれない)に照り映えて美しい。 ※上代語。(学研)

 

 

垣幡 丹頬経君▼ 率自尓 思出乍 嘆鶴鴨

      (作者未詳 巻十一 二五二一)

  ▼は「口偏に『リ』」である。「君▼」で「きみを」

 

≪書き下し≫かきつはた丹(に)つらふ君をいささめに思ひ出(い)でつつ嘆きつるかも

 

(訳)かきつばたのように顔立ちの立派なあなた、そんなあなただものだから、ふっと思い出しては、溜息ばかりついています。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)いささめに 副詞:かりそめに。いいかげんに。(学研)

 

 「丹つらふ」は、「紅に照り映えて美しい」意であるが、「丹頬合」と書かれているのは、書き手の遊び心であろうか。

 

 

 次の二八一八、二八一九歌は「問答歌」になっている。

 

垣津旗 開沼之菅乎 笠尓縫 将著日乎待尓 年曽経去来

      (作者未詳 巻十一 二八一八)

 

≪書き下し≫かきつはた佐紀沼(さきぬ)の菅(すげ)を笠(かさ)に縫(ぬ)ひ着む日を待つに年ぞ経(へ)にける

 

(訳)かきつばたが美しく咲くという、その佐紀沼の菅を笠に縫い上げて、身に着ける日をいつのことかと待っているうちに、年が経ってしまった。(同上)

(注)佐紀沼:奈良市佐紀町の沼か。

(注)着む日:女を妻と定めて結婚する日。(伊藤脚注)

 

 

◆臨照 難波菅笠 置古之 後者誰将著 笠有莫國

      (作者未詳 巻十一 二八一九)

 

≪書き下し≫おしてる難波(なには)菅笠(すがかさ)置き古(ふる)し後(のち)は誰(た)が着む笠ならなくに

 

(訳)おしてる難波の名物の菅笠、それを放ったらかしにして古びさせておいて、まあ、時が経ったとて、どこのどなたがかぶる笠でえもないのに、まあ。(同上)

(注)おしてる【押し照る】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(学研)

(注)難波菅笠:女自身の譬え。(伊藤脚注)

(注)「置き古(ふる)し後(のち)は誰(た)が着む」:私を放ったらかしにして古びさせておいて、の意。男の怠慢への詰問。(伊藤脚注)

 

 

垣津旗 開澤生 菅根之 絶跡也君之 不所見頃者

      (作者未詳 巻十二 三〇五二)

 

≪書き下し≫かきつはた佐紀沢(さきさは)に生(お)ふる菅(すが)の根の絶ゆとや君が見えぬこのころ

 

(訳)佐紀沢に生い茂っている菅の根でも絶えるというが、これっきりで仲が絶えるというのか、あの方がいっこうにおみえにならぬ今日この頃だ。(同上)

(注)上三句は序。「絶ゆ」を起こす。(伊藤脚注)

 

 一九八六、二五二一歌の「かきつばた」は「「丹(に)つらふ」にかかる、二八一八、三〇五二歌の場合は「咲き」と同音の「佐紀」にかかる枕詞である。

 「かきつはた」の美しいが故に、「菅」と組み合わせ、「すげないあなた」と訴えているのであろう。

 

「かきつはた」七首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その794-6)」で、書き下しと訳とを紹介しているが、本稿では原文をも紹介し、関連事項を追記した。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「一般財団法人 大阪市コミュニティ協会 住吉区支部協議会HP」

★「みんなの趣味の園芸」(NHK出版HP)

万葉歌碑を訪ねて(その1320,1321)―島根県益田市 県立万葉植物園(P31、32)―万葉集 巻十六 三八三四、巻十 一八一四

―その1320―

●歌は、「梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P31)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P31)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆成棗 寸三二粟嗣 延田葛乃 後毛将相跡 葵花咲

       (作者未詳 巻十六 三八三四)

 

≪書き下し≫梨(なし)棗(なつめ)黍(きみ)に粟(あは)つぎ延(は)ふ葛(くず)の後(のち)も逢(あ)はむと葵(あふひ)花咲く

 

(訳)梨、棗、黍(きび)、それに粟(あわ)と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のようにのちにでも逢うことができようと、葵(逢ふ日)の花が咲いている。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)はふくずの「延(は)ふ葛(くず)の」枕詞:延びていく葛が今は別れていても先で逢うことがあるように、の意で「後も逢はむ」の枕詞になっている。

 

 この歌には、植物の名前にかけた言葉遊びが隠されている。「黍(きみ)」は「君(きみ)」に、「粟(あは)」は「逢(あ)ふ」に、そして「葵(あふひ)」には「逢(あ)ふ日(ひ)」の意味が込められている。このような言葉遊びは、後の時代に「掛詞(かけことば)」という和歌の技法として発展していくのである。

 

 ここに歌われている、梨、棗、黍、粟、葛、葵について万葉集で収録されている歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1138)」で紹介している。

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―その1321―

●歌は、「いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P32)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P32)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆古 人之殖兼 杉枝 霞霏▼ 春者来良之

      (柿本人麻呂 巻十 一八一四)

 ▼は、漢字が見当たらない。「雨かんむり+微」である。「霞霏▼」=「霞たなびく」

 

≪書き下し≫いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし

 

(訳)遠く古い世の人が植えて育てたという、この杉木立の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春はやってきたらしい。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 「杉」を詠んだ歌十二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その521)」で紹介している。

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 神社にご神木が必ずあるのは、社殿などのない時代にはこの神木を中心に祭りが営まれていたからである。

 神木については、「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」によると、「神が依りつくとして神聖視される樹木。古くから、神は何か物に依りついて具現化すると考えられていた (→依代 ) 。そこで神木を神の表徴とみなしたり、樹木に神霊が宿ると考え、畏怖し、神聖視してきた。普通神木になる木には、松,すぎ,くすのきなどが多い(後略)」とある。

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「巳の神杉(みのかみすぎ)」 大神神社HP(境内マップ)より引用させていただきました。

 万葉歌でも、「杉」は「神」や「祝(はふり)」とともに配して詠まれる歌が多いのである。

 ピックアップしてみてみよう。

 

◆三諸之 神須疑 巳具耳矣自得見監乍共 不寝夜叙多

       (高市皇子 巻二 一五六)

 

≪書き下し≫みもろの神の神杉(かむすぎ)巳具耳矣自得見監乍共(第三、四句、訓義未詳)寝(い)ねる夜(よ)ぞ多き

 

(注)第三、四句は訓義未詳ではあるが、次のような説がある

           ①こぞのみをいめにはみつつ

           ②いめにだにみむちすれども

           ③よそのみをいめにはみつつ

           ④いめにのみみえつつともに

 

(訳)神の籠(こも)る聖地大三輪の、その神のしるしの神々しい杉、巳具耳矣自得見監乍共、いたずらに寝られない夜が続く(伊藤 博著「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)

(注)みもろ【御諸・三諸・御室】名詞:神が降臨して宿る神聖な所。磐座(いわくら)(=神の御座所)のある山や、森・岩窟(がんくつ)など。特に、「三輪山(みわやま)」にいうこともある。また、神座や神社。「みむろ」とも。 ※「み」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 

  題詞「十市皇女薨時高市皇子尊御作歌三首」<十市皇女(といちのひめみこ)の薨(こう)ぜし時に、高市皇子尊(たけちのみこのみこと)の作らす歌三首>のうちの一首である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その944)」で紹介している。

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◆何時間毛 左備祁留鹿 香山之 鉾之本尓 薜生左右二

       (鴨君足人 巻三 二五九)

 

≪書き下し≫いつの間(ま)も神(かむ)さびけるか香具山(かぐやま)の桙杉(ほこすぎ)の本(もと)に苔生(こけむ)すまでに(巻三 二五九)

 

(訳)いつの間にこうも人気がなく神さびてしまったのか、香具山のとがった杉の大木の、その根元に苔が生(む)すほどに。(同上)

(注)ほこすぎ【矛杉・桙杉】:矛のようにまっすぐ生い立った杉。(広辞苑無料検索)

 

 

◆味酒呼 三輪之我 忌 手觸之罪歟 君二遇難寸

        (丹波大女娘子 巻四 七一二)

 

≪書き下し≫味酒(うまさけ)を三輪の祝(はふり)が斎(いは)ふ杉手(て)触(ふ)れし罪か君に逢ひかたき

 

(訳)三輪の神主(かんぬし)があがめ祭る杉、その神木の杉に手を触れた祟(たた)りでしょうか。あなたになかなか逢えないのは(「同上)

(注)うまさけ【味酒・旨酒】分類枕詞:味のよい上等な酒を「神酒(みわ)(=神にささげる酒)」にすることから、「神酒(みわ)」と同音の地名「三輪(みわ)」に、また、「三輪山」のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにかかる。 ※ 参考枕詞としては「うまさけの」「うまさけを」の形でも用いる。(学研)

(注)はふり【祝】名詞:神に奉仕することを職とする者。特に、神主(かんぬし)や禰宜(ねぎ)と区別する場合は、それらの下位にあって神事の実務に当たる職をさすことが多い。祝(はふ)り子。「はうり」「はぶり」とも。(学研)

(注)か 係助詞《接続》種々の語に付く。「か」が文末に用いられる場合、活用語には連体形(上代には已然形にも)に付く。(一)文中にある場合。(受ける文末の活用語は連体形で結ぶ。)①〔疑問〕…か。②〔反語〕…か、いや…ではない。(二)文末にある場合。①〔疑問〕…か。②〔反語〕…か、いや…ではない。▽多く「かは」「かも」「ものか」の形で。(学研)

(注)手触れし罪か:手を触れたはずはないのにの気持ちがこもる。(伊藤脚注)

 

  題詞「丹波大女娘子歌三首」<丹波大女娘子(たにはのおほめをとめ)が歌三首>の一首である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その950)」で紹介している。

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◆三幣帛取 神之我 鎮齋原 燎木伐 殆之國 手斧所取奴

       (作者未詳 巻七 一四〇三)

 

≪書き下し≫御幣(みぬさ)取り三輪(みわ)の祝(はふり)が斎(いは)ふ杉原 薪伐(たきぎこ)りほとほとしくに手斧(てをの)取らえぬ

 

(訳)幣帛(へいへく)を手に取って三輪の神官(はふり)が斎(い)み清めて祭っている杉林よ。その杉林で薪を伐(き)って、すんでのところで大切な手斧(ておの)を取り上げられるところだったよ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)三輪の祝(はふり):三輪の社の神職。女の夫の譬え。(伊藤脚注)

(注)ほとほとし【殆とし・幾とし】形容詞:もう少しで(…しそうである)。すんでのところで(…しそうである)。極めて危うい。(学研)

(注)斎(いは)ふ杉原:人妻の譬え。上三句は親が大切にする深窓の女性の譬えとも解せる。(伊藤脚注)

(注)「薪伐(たきぎこ)りほとほとしくに手斧(てをの)取らえぬ」:手を出してひどい目にあいかけたの意を喩える。(伊藤脚注)

 

 

◆石上 振乃神杉 神備西 吾八更ゝ 戀尓相尓家留

       (作者未詳 巻十 一九二七)

 

≪書き下し≫石上(いそのかみ)布留(ふる)の神杉(かむすぎ)神(かむ)びにし我(あ)れやさらさら恋にあひにける

 

(訳)石上の布留の社(やしろ)の年経た神杉ではないが、老いさらばえてしまった私が、今また改めて、恋の奴(やっこ)にとっつかまってしまいました。(同上)

(注)上二句は序。「神(かむ)びにし」を起こす。

 

(注)さらさら【更更】副詞:①ますます。改めて。②〔打消や禁止の語を伴って〕決して。(学研) →今また新たに。(伊藤脚注)

(注)神び<かむぶ【神ぶ】(動):年月を経て神々しくなる。また、年老いる。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 

◆石上 振神杉 成 戀我 更為鴨 

      (作者未詳 巻十一 二四一七)

 

(書き下し)石上 布留の神杉(かむすぎ) 神さびて 恋をも我(あ)れは さらにするかも

 

(訳)石上の布留の年古りた神杉、その神杉のように古めかしいこの年になって、私はあらためて苦しい恋に陥っている。(「万葉集 三」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「神(かむ)さびて」を起こす。(伊藤脚注)

(注)かむさぶ【神さぶ】自動詞:①神々(こうごう)しくなる。荘厳に見える。②古めかしくなる。古びる。③年を取る。(学研)ここでは③の意。

 

 一九二七ならびに二四一七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その54改)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

★「大神神社HP」

万葉歌碑を訪ねて(その1319)<橘諸兄、大伴家持そして田辺福麻呂>―島根県益田市 県立万葉植物園(P30)―万葉集 巻二十 四〇三五

万葉歌碑を訪ねて(その1319)

●歌は、「ほととぎすいとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P30)万葉歌碑<プレート>(田辺福麻呂・誦)



●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P30)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 

◆保等登藝須 伊等布登伎奈之 安夜賣具左 加豆良尓勢武日 許由奈伎和多礼

      (田辺福麻呂<誦> 巻十八 四〇三五)

 

≪書き下し≫ほととぎすいとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ

 

(訳)時鳥よ、来てくれていやな時などありはせぬ。だけど、菖蒲草(あやめぐさ)を縵(かうら)に着ける日、その日だけはかならずここを鳴いて渡っておくれ。(同上)

 

 四〇三二から四〇五一歌の題詞は、「天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒」<天平二十年の春の三月の二十三日に、左大臣橘家の使者、造酒司(さけのつかさ)の令史(さくわん)田辺福麻呂(たなべのさきまろ)に、守(かみ)大伴宿禰家持が館(たち)にして饗(あへ)す。ここに新(あらた)しき歌を作り、幷(あは)せてすなわち古き詠(うた)を誦(うた)ひ、おのもおのも心緒(おもひ)を述ぶ。>である。

 

 四〇三五歌は、題詞にあるように、「古き詠(うた)」すなわち「巻十 一九五五」を「誦(うた)」ったものである。

 従って、四〇三五歌の作者名のところは、「田辺福麻呂<誦>」としてあります。

 

 宴会は、二十三日から二十五日まで開かれたのである。

 

 他の三首をみてみよう。

奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出(い)でて波立ち来(く)やと見て帰り来(こ)む               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三二)

(訳)あの奈呉の海に乗り出すのに、どなたか、ほんのしばし舟を貸してください。沖合に漕ぎ出して行って、波が立ち寄せて来るかどうか見て来たいものです。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

波立てば奈呉の浦廻(うらみ)に寄る貝の間(ま)なき恋にぞ年は経(へ)にける               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三三)

(訳)波が立つたびに奈呉の入江に絶え間なく寄って来る貝、その貝のように絶え間もない恋に明け暮れているうちに、時は年を越してしまいました。(同上)

奈呉の海に潮の早干(はやひ)ばあさりしに出でむと鶴(たづ)は今ぞ鳴くなる               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三四)

(訳)この奈呉の海で、潮が引いたらすぐに餌を漁(あさ)りに出ようとばかりに、鶴(たず)は、今しきりに鳴き立てています。(同上)

 

 四〇三二から四〇三五歌の左注は、「右四首田邊史福麻呂」<右の四首は田辺史福麻呂(たなべのふびとさきまろ)>である。

 

四〇三二から四〇三五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その843)」で紹介している。

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 続く四〇三六から四〇四三歌の題詞は、「于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌」<時に、明日(あくるひ)に将布勢(ふせ)の水海(みづうみ)に遊覧せむことを期(ねが)ひ、よりて述懐(おもひ)を述べておのもおのも作る歌>である。

 

いかにある布勢(ふせ)の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留(とど)むる             (田辺福麻呂 巻十八 四〇三六)

(訳)どんなところなのでしょう。布勢の浦というのは。これほど熱心に、あなたが見せようと私をお引き留めになるとは。(同上)

乎布(をふ)の崎(さき)漕(こ)ぎた廻(もとほ)りひねもすに見とも飽(あ)くべき浦にあらなくに  <一には「君が問はすも」といふ>大伴家持 巻十八 四〇三七)

(訳)乎布の崎、その﨑を漕ぎめぐって、日がな一日みても見飽きるような浦ではないのですぞ。ここは。(同上)

玉櫛笥(たまくしげ)いつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾(ひり)はむ               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三八)

(訳)玉櫛笥を開けるというではないが、いつになったら夜が明けるのでしょう。一刻も早く、布勢の海の入江を行きめぐりながら、家づとに小石の玉なんぞも広いたいものです。(同上)

音(おと)のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上(のぼ)らじ年は経(へ)ぬとも               (田辺福麻呂 巻十八 四〇三九)

(訳)評判に聞くばかりでこの目でまだ見たことのない布勢の浦、その布勢の浦を見ない限りは都に上りますまい。たとえ年は改まっても。(同上)

布勢の浦を行(ゆ)きてし見てばももしきの大宮人(おほみやひと)に語り継(つ)ぎてむ田辺福麻呂 巻十八 四〇四〇)

(訳)布勢の浦、その浦へ行ってこの目でみたなら、そのすばらしさを、かならず大宮人たちに語り伝えましょう。(同上)

梅の花咲き散る園(その)に我れ行かむ君が使(つかひ)を片待(かたま)ちがてら              (田辺福麻呂 巻十八 四〇四一)

(訳)梅の花が咲いては散る園、その美しい園に、私は行きましょう。あの方からのお使いを心待ちしながら。(同上)

藤波(ふづなみ)の咲き行く見ればほととぎす鳴くべき時に近(ちか)づきにけり               (田辺福麻呂 巻十八 四〇四二)

(訳)藤の花房が次々と咲いてゆくのを見ると、季節は、時鳥の鳴き出す時にいよいよちかづいたのですね。(同上)

明日(あす)の日の布勢の浦廻(うらみ)の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも <一には頭に「ほととぎす」といふ>(大伴家持 巻十八 四〇四三)

(訳)明日という日の、布勢の入江の藤の花には、おそらく時鳥は来て鳴かないまま、散るにまかせてしまうのではないでしょうか。(「同上)

左注は、「前件十首歌者廿四日宴作之」<前(さき)の件(くだり)の十首の歌は、二十四日の宴(うたげ)にして作る>である。

(注)前件十首:四〇三六以下八首をさす。四〇三六の題詞の前に二首あったのが、脱落したものか。(伊藤脚注)

 

 四〇三六から四〇四三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その815)」で紹介している。

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 四〇四四、四〇四五歌の題詞は、「廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首」<二十五日に、布勢の水海(みづうみ)に徃(ゆ)くに、道中、馬の上にして口号(くちずさ)ぶ二首>である。

 

浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟大伴家持 巻十八 四〇四四)

(訳)浜辺を通って、われらが馬打ち繰り出して行ったなら、沖から海辺へと迎えに来てくれないものか、海人の釣舟が。(同上)

沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ大伴家持 巻十八 四〇四五)

(訳)沖の彼方(かなた)からひたひたと満ちてくる潮のように、いよいよ増さって慕わしさのつのるあなたのお乗りになるお船でしょうか、あれは。(同上)

 

 

四〇四六から四〇五一歌の題詞は、「至水海遊覧之時各述懐作歌」<水海に至りて遊覧する時に、おのもおのも懐(おもひ)を述べて作る歌>である。

 

(かむ)さぶる垂姫(たるひめ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(めぐ)り見れども飽(あ)かずいかに我れせむ田辺福麻呂 巻十八 四〇四六)

(訳)何とも神々しい垂姫の﨑、この崎を漕ぎめぐって、見ても見ても見飽きることがない。ああ、私はどうしたらよいのか。(同上)

垂姫(たるひめ)の浦を漕ぎつつ今日(けふ)の日は楽しく遊べ言ひ継(つ)ぎにせむ               (遊行女婦土師 巻十八 四〇四七)

(訳)この垂姫の浦を漕ぎめぐって、今日一日は楽しく遊んで下さい。今日の楽しさをのちのちまで言い伝えてまいりましょう。(同上)

垂姫の浦を漕ぐ舟梶間(かぢま)にも奈良の我家(わぎへ)を忘れて思へや              (大伴家持 巻十八 四〇四八)

(訳)垂姫の浦を漕ぐ舟、その舟の櫓(ろ)を一引きするほどのほんのわずかの間にも、奈良の我が屋を忘れたりすることがあろうか。(同上)

おろかにぞ我れは思ひし乎布(をふ)の浦の荒礒(ありそ)の廻(めぐ)り見れど飽(あ)かずけり(田辺福麻呂 巻十八 四〇四九)

(訳)私はよい加減に思っておりました。仰せのとおり、乎布の浦の荒磯のあたりは、見ても見ても見飽きることのない所なのでした。(同上)

めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山ほととぎす何か来鳴かぬ(久米朝臣廣縄 巻十八 四〇五〇)          

(訳)珍しいお方がおいでになったら鳴け、と言いつけておいたのに、山時鳥よ、どうして今来て鳴かないのか。(同上)

多祜(たこ)の﨑(さき)木(こ)の暗茂(くらしげ)にほととぎす来鳴き響(とよ)めばはだ恋ひめやも大伴家持 巻十八 四〇五一)

(訳)多祜の﨑、この崎の木蔭の茂みの中に、時鳥がやって来て鳴きたててくれたら、こうもひどく恋しがることなどありますまいに。(同上)

 

 左注は、「前件十五首歌者廿五日作之」<前(さき)の件(くだり)の十五首の歌は、二十五日に作る>である。

(注)四〇四六以下六首しかない。ここも脱落があるのであろう。

 

四〇四六から四〇五一歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その817)」で紹介している。

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 田辺福麻呂は、元正太上天皇(四〇五八歌)・左大臣橘諸兄(四〇五六歌他)・河内女王(四〇五九歌)・粟田女王(四〇六〇歌)らの歌を家持に伝誦している。

 これらの歌ならびに橘諸兄が、大伴家持のところへ田辺福麻呂を遣わした理由等についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その982)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴家持 波乱にみちた万葉歌人の生涯」 藤井一二 著 (中公新書

 

 

万葉歌碑を訪ねて(その1318)<大伴旅人の望郷抒情>―島根県益田市 県立万葉植物園(P29)―万葉集 巻三 三三四

●歌は、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P29)万葉歌碑<プレート>(大伴旅人



●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P29)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為

       (大伴旅人 巻三 三三四)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付く香具山の古りにし里を忘れむがため

 

(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)わすれぐさ【忘れ草】名詞:草の名。かんぞう(萱草)の別名。身につけると心の憂さを忘れると考えられていたところから、恋の苦しみを忘れるため、下着の紐(ひも)に付けたり、また、垣根に植えたりした。歌でも恋に関連して詠まれることが多い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

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ヤブカンゾウ  植物データベース (熊本大学薬学部 薬草園HP)より引用させていただきました。

「忘れ草」を紐に付けてでも忘れてしまいたい。裏を返せば、奈良の都や香具山に対する望郷の念が強いのである。

 この歌は、三二八歌から三三七歌の歌群のなかでの歌である。

この歌群は、伊藤 博氏が、三二八歌(あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり)の脚注に「以下三三七まで、小野老が従五位上になったことを契機とする同じ宴席の歌らしい(後略)。」と書かれている。

 

この歌群のメンバーは、小野老人、大伴四綱、大伴旅人、沙弥満誓、山上憶良である。

 

小野老の歌に続いて、大伴四綱が、「やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の敷きませる国の中(うち)には都し思ほゆ(三二九歌)」と、国々の中で、奈良の都が一番懐かしい、と詠い、続いて、四綱は、「藤波(ふぢなみ)の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君(三三〇歌)」で、旅人に「奈良の都、あの都を懐かしく思われますか、あなたさまも。」と問いかけるのである。

 場のメンバーには、小野老の歌で、一気に郷愁をそそられたのであろう。

 

 四綱の問いかけに、五首の歌でもって答えているのである。

 

我(わ)が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ―私の盛りの時がまた返ってくるだろうか、いやそんなことは考えられない、ひょっとして、奈良の都、あの都を見ないまま終わってしまうのではなかろうか。(三三一歌)」

我(わ)が命(いのち)も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むためー私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川、あの清らかな流れを、もう一度行って見るために。(三三二歌)」

浅茅(あさぢ)原(はら)つばらつばらにもの思(も)へば古(ふ)りにし里し思ほゆるかもー浅茅原(あさじはら)のチハラではないが、つらつらと物思いに耽っていると、若き日を過ごしたあのふるさと明日香がしみじみと想い出される。(三三三歌)」

忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付く香具山の古りにし里を忘れむがためー忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(三三四歌)」

我(わ)が行きは久(ひさ)にはあらじ夢(いめ)のわだ瀬にはならずて淵(ふち)しありこそー私の筑紫在任はそんなに長くはあるまい。あの吉野のわだよ、浅瀬なんかにならず深い淵のままであっておくれ。(三三五歌)」

(注)訳は、「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫によっています。

 

 気の許せる仲間内ならではの、奈良の都に戻りたいという本音の吐露どころか、弱弱しい面までさらけだしているような歌である。大宰帥ではなく旅人その人の歌である。

 

 同じような問いかけに、大宰帥として和(こた)えた歌がある。こちらをみてみよう。

 

大宰少貮(だざいのせうに)の石川朝臣足人(いしかはのあそみたるひと)が、問いかけた歌。

さす竹の大宮人(おほみやひと)の住む佐保(さほ)の山をば思(おも)ふやも君(九五五歌)―奈良の都の大宮人たちが、自分の家として住んでいる佐保の山、その山のあたりを懐かしんでおられますか、あなたは。(同上)

 

 これに対して、旅人が答えた歌。

やすみしし我(わ)が大君(おほきみ)の食(を)す国は大和(やまと)もここも同(おな)じとぞ思ふ―あまねく天下を支配されるわれらの大君がお治めになる国、その国は、大和もここ筑紫(つくし)も変わりはないと思っています。(九五六歌)」

(注)訳は、「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫によっています。

 

 大宰帥としての威厳を感じさせる歌である。

 

この問答ならびに三二八歌から三三七歌の歌群についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その921)」で紹介している。

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 大伴旅人大宰帥に任命されたのは、神亀四年(727年)十月頃で、同五年初めにかけて九州に赴いている。同五年四月頃、着任後ほどなくして、九州に同行してきた妻大伴郎女が病死したのである。

 都では藤原氏の勢力が台頭し、旅人の赴任も藤原氏の策略と言われている。大伴氏ら旧氏族は、律令政治を推し進める藤原氏にとっては抵抗勢力であったのである。

 公的には、大伴氏の長としてありながら「天離る鄙」大宰府に追いやられ、大伴氏の凋落の危機にみまわれ、私的には妻を亡くしているのである。

 旅人にとって、大宰府時代というものは、公私に渡る精神的圧迫感の渦中にあったのである。

 このような状況を踏まえた旅人の大宰府時代の歌について、中西 進氏は、その著「古代史で楽しむ万葉集」(角川ソフィア文庫)の中で、「われわれはその大宰府の歌から、彼がどのような心情でその地にあったかを、つぶさに知ることができるが、それらを通してもっとも大きなひびきを伝えて来ることは、彼の心がつねに現実にはない、ということである。」と書かれている。そして「過去を回想するにしろ未来をねがうにしろ、旅人の現実感はとぼしい。だから心はつねに望京の念にさいなまれる。」と書かれている。

 旅人の歌は、大宰府以前は万葉集に収録されているのは二首のみである(巻三 三一五・三一六歌)。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その974)」で紹介している。

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 大伴旅人の歌は七十首ほど収録されているが、そのほとんどが大宰府で作られている。

 体制からの疎外感、妻の死、そういった絶望・断絶感から逆に自分を見失わないためにも内に秘めた確固たる信念をもって歌に没頭していったのであろう。或は、年齢的に考えてももう失うものは無いといった極限から現実感が乏しい、逃避的な歌の世界を切り開いていったのかもしれない。望郷への凄まじいまでの思い、気を許す仲間には、もろくも崩れる己、さもなくば毅然たる態度を貫く必要性からの砂上の楼閣のごとき己の演出、なまじの職業的歌人からは感じられない、するどさともろさを醸し出している。感情のままと言ってよいほどに素直に泣き、涙している。そこには大伴氏の長たる大宰帥の姿と疎外感にさいなまれた旅人の二面性が歌に結実して心に響く名歌を生み出しているように思えるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「大伴旅人―人と作品」 中西 進 編 (祥伝社

★「古代史で楽しむ万葉集」 中西 進 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「植物データベース」 (熊本大学薬学部 薬草園HP

万葉歌碑を訪ねて(その1317)―島根県益田市 県立万葉植物園(P28)―万葉集 巻十一 二七八六

●歌は、「山吹のにほえる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ」である。

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島根県益田市 県立万葉植物園(P28)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県益田市 県立万葉植物園(P28)にある。

 

●歌をみていこう。

 

山振之 尓保敝流妹之 翼酢色乃 赤裳之為形 夢所見管

      (作者未詳 巻十一 二七八六)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)のにほえる妹(いも)がはねず色の赤裳(あかも)の姿夢(いめ)に見えつつ

 

(訳)咲き匂う山吹のように美しいあでやかな子の、はねず色の赤裳を着けた姿、その姿が夢に見え見えして・・・。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)山吹の:「におふ」の枕詞。(伊藤脚注)

(注)にほふ【匂ふ】自動詞:①美しく咲いている。美しく映える。②美しく染まる。(草木などの色に)染まる。③快く香る。香が漂う。④美しさがあふれている。美しさが輝いている。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 山吹、はねず、赤と艶やかな彩りの歌である。

 

 「はねず色」と詠まれた歌は万葉集には三首、植物の「はねず」が一首収録されている。この四首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1168)」で紹介している。この稿では、京都随心院のはねず踊りについてもふれている。

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山吹  「みんなの趣味の園芸」(NHK出版HP)より引用させていただきました。

 

 「山吹」を詠んだ歌は万葉集では十七首収録されている。すべてみてみよう。

 

山振之 立儀足 山清水 酌尓雖行 道之白鳴

       (高市皇子 巻二 一五八)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の立ちよそひたる山清水(やましみず)汲(く)みに行かめど道の知らなく

 

(訳)黄色い山吹が、咲き匂っている山の清水、その清水を汲みに行きたいと思うけれど、どう行ってよいのか道がわからない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)「山吹」に「黄」を「山清水」に「泉」を匂わせる。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その141)」で紹介している。この稿の歌碑は、奈良県高市郡明日香村 犬養万葉記念館にある。

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◆河津鳴 甘南備河尓 陰所見而 今香開良武 山振乃花

      (厚見王 巻八 一四三五)

 

≪書き下し≫かはづ鳴く神なび川に影見えて今か咲くらむ山吹の花

 

(訳)河鹿の鳴く神なび川に、影を映して、今頃咲いていることであろうか。岸辺のあの山吹の花は。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)神なび川:神なびの地を流れる川。飛鳥川とも竜田川ともいう。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その185)」で紹介している。

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山振之 咲有野邊乃 都保須美礼 此春之雨尓 盛奈里鶏利

      (高田女王 巻八 一四四四)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の咲きたる野辺(のへ)のつほすみれこの春の雨に盛(さか)りなりけり

 

(訳)山吹の咲いている野辺のつぼすみれ、このすみれは、この春の雨にあって、今が真っ盛りだ。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1148)」で紹介している。

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◆花咲而 實者不成登裳 長氣 所念鴨 山振之花

       (作者未詳 巻十 一八六〇)

 

≪書き下し≫花咲きて実(み)はならねども長き日(け)に思ほゆるかも山吹(やまぶき)の花

 

(訳)花が咲くだけで実はならないとは知っているけれども、咲く日までが日数長く思われて仕方がない。山吹の花は。(同上)

 

 

◆如是有者 何如殖兼 山振乃 止時喪哭 戀良苦念者

      (作者未詳 巻十 一九〇七)

 

≪書き下し≫かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば

 

(訳)こんなことであったら、何で植えたのであろうか。吹というその名のように、やむ時もなく恋しくてならぬことを思うと。(同上)

(注)かく:男の訪れのないことをさす。(伊藤脚注)

(注)山吹の:植えた山吹を枕詞に用いたもの(伊藤脚注)

 

 

◆宇具比須能 伎奈久夜麻夫伎 宇多賀多母 伎美我手敷礼受 波奈知良米夜母

      (大伴池主 巻十七 三九六八)

 

≪書き下し≫うぐひすの来(き)鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも

 

(訳)鶯がやって来ては鳴く山吹の花、よもやあなたが手を触れずにその花をよもやあなたが手をお触れにならぬまま、この花が散ってしまったりすることはありますまい。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)うたがたも 副詞:①きっと。必ず。真実に。②〔下に打消や反語表現を伴って〕決して。少しも。よもや。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その959)」で紹介している。

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夜麻扶枳能 之氣美登眦久ゝ 鸎能 許恵乎聞良牟 伎美波登母之毛

      (大伴家持 巻十七 三九七一)

 

≪書き下し≫山吹の茂み飛(と)び潜(く)くうぐひすの声を聞くらむ君は羨(とも)しも

 

(訳)山吹の茂みを飛びくぐって鳴く鴬(うぐいす)の、その声を聞いておられるあなたは、何と羨(うらや)ましいことか。(同上)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その854)」で紹介している。

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夜麻夫枳波 比尓ゝゝ佐伎奴 宇流波之等 安我毛布伎美波 思久ゝゝ於毛保由

      (大伴池主 巻十七 三九七四)

 

≪書き下し≫山吹は日(ひ)に日(ひ)に咲きぬうるはしと我(あ)が思(も)ふ君はしくしく思ほゆ

 

(訳)山吹は日ごとに咲き揃います。すばらしいと私が思うあなたは、やたらしきりと思われてなりません。(同上)

(注)うるはし【麗し・美し・愛し】形容詞:①壮大で美しい。壮麗だ。立派だ。②きちんとしている。整っていて美しい。端正だ。③きまじめで礼儀正しい。堅苦しい。④親密だ。誠実だ。しっくりしている。⑤色鮮やかだ。⑥まちがいない。正しい。本物である。(学研)ここでは①の意

(注)しくしく(と・に)【頻く頻く(と・に)】副詞:うち続いて。しきりに。(学研)

 

 

◆佐家理等母 之良受之安良婆 母太毛安良牟 己能夜万夫吉乎 美勢追都母等奈

      (大伴家持 巻十七 三九七六)

 

≪書き下し≫咲けりとも知らずしあらば黙(もだ)もあらむこの山吹(やまぶき)を見せつつもとな

 

(訳)咲いてはいても、そうとは知らずにいたならかかわりなしに平静でいられたでしょう。なのにこの山吹の花は心なく私にお見せになったりして・・・・(同上)

(注)もだ【黙】名詞:黙っていること。何もしないでじっとしていること。▽「もだあり」「もだをり」の形で用いる。(学研)

 

 

題詞は、「従京師贈来歌一首」<京師(みやこ)贈来(おこ)する歌一首>である。

(注)贈来する歌:家持の妻大嬢に贈ってきた歌。(伊藤脚注)

 

 左注は、「右四月五日従留女之女郎所送也」<右は、四月の五日に留女(りうぢよ)の女郎(いらつめ)より送れるぞ>である。

(注)留女の女郎:家刀自である大嬢の留守中家を守っている女性、の意か。家持の妹。(伊藤脚注)

 

山吹乃 花執持而 都礼毛奈久 可礼尓之妹乎 之努比都流可毛

       (留女之女郎 巻十九 四一八四)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の花取り持ちてつれもなく離(か)れにし妹(いも)を偲ひつるかも

 

(訳)私は山吹の花を手に取り持っては、私の気持ちなどにお構いなく別れて行ってしまったあなた、そのあなたをはるかにお慕いしております。(同上)

 

 

題詞は、「詠山振花歌一首 幷短歌」<山吹の花を詠(よ)む歌一首 せて短歌>である。

 

◆宇都世美波 戀乎繁美登 春麻氣氐 念繁波 引攀而 折毛不折毛 毎見 情奈疑牟等 繁山之 谿敝尓生流 山振乎 屋戸尓引殖而 朝露尓 仁保敝流花乎 毎見 念者不止 戀志繁母

      (大伴家持 巻十九 四一八五)

 

≪書き下し≫うつせみは 恋を繁(しげ)みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀(よ)ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心なぎむと 茂山(しげやま)の 谷辺(たにへ)に生(お)ふる 山吹を やどに引き植ゑて 朝露(あさつゆ)に にほへる花を 見るごとに 思ひはやまず 恋し繁しも

 

(訳)生きてこの世にある人はとかく人恋しさに悩みがちなもので、春ともなるととりわけ物思いがつのるものだから、手許(てもと)に引き寄せて手折(たお)ろうと手折るまいと、見るたびに心がなごむだろうと、木々茂る山の谷辺に生えている山吹を、家の庭に移し植え、朝露に照り映えている花、その花を見るたびに、春の物思いは止むことなく、人恋しさが激しくなるばかりです。(同上)

(注)恋を繁みと:とかく人恋しさに悩むもので。(伊藤脚注)

(注の注)しげし【繁し】形容詞:①(草木が)茂っている。②多い。たくさんある。③絶え間がない。しきりである。④多くてうるさい。多くてわずらわしい。(学研)

(注)春まけて:季節が春になって、という意味(weblio辞書 季語・季題辞典)

 

 

山吹乎 屋戸尓殖弖波 見其等尓 念者不止 戀己曽益礼

      (大伴家持 巻十九 四一八六)

 

≪書き下し≫山吹をやどに植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ

 

(訳)山吹を庭に移し植えては見る、が、見るたびに、物思いは止むことなく、人恋しさがつのるばかりです。(同上)

 

 

題詞は、「贈京人歌二首」<京人(みやこひと)の贈る歌二首>である。

 

◆妹尓似 草等見之欲里 吾標之 野邊之山吹 誰可手乎里之

      (大伴家持 巻十九 四一九七)

 

≪書き下し≫妹(いも)に似る草と見しより我が標(しめ)し野辺(のへの山吹(やまぶき)誰れか手折(たを)りし

 

(訳)いとしいお方に似る草と見てすぐに、私が標縄(しめなわ)を張っておいた野辺の山吹、あの山吹をいったい誰が手折ったりしたのでしょうか。(同上)

 

 左注は、「右為贈留女之女郎所誂家婦作也  女郎者即大伴家持之妹」<右は、留女(りうぢよ)の女郎(いらつめ)に贈らむために、所家婦(かふ)に誂(あとら)へられて作る。  女郎はすなはち大伴家持が妹(いもひと)>である。

(注)四一八四歌の「留女之女郎」が説明されている。

 

 

題詞は、「三月十九日家持之庄門槻樹下宴飲歌二首」<三月の十九日に、家持が庄(たどころ)も門(かど)の槻(つき)の樹(き)の下にして宴飲(うたげ)する歌二首>である。

 

夜麻夫伎波 奈埿都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都ゝ 可射之多里家利

     (置始連長谷 巻二十 四三〇二)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)は撫(な)でつつ生(お)ほさむありつつも君来(き)ましつつかざしたりけり

 

(訳)この山吹の花はこれからもいつくしんで育てましょう。このように変わらずに咲いているからこそ、あなたがここにおいでになって、髪飾りにして下さったのですから。

(注)おほす【生ほす】他動詞①生育させる。伸ばす。生やす。②養育する。(学研)

(注)ありつつも【在りつつも】[連語]:いつも変わらず。このままでずっと。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

左注は、「右一首置始連長谷」<右の一首は置始連長谷(おきそめのむらじはつせ)>である。

 

 

◆和我勢故我 夜度乃也麻夫伎 佐吉弖安良婆 也麻受可欲波牟 伊夜登之能波尓

       (大伴家持 巻二十 四三〇三)

 

≪書き下し≫我が背子(せこ)がやどの山吹咲きてあらばやまず通(かよ)はむいや年のはに

 

(訳)あなたのお庭の山吹、その花がいつもこんなにも美しく咲いているなら、これから先もしょっちゅうここをお訪ねしましょう。来る年も来る年も。(同上)

(注)としのは【年の端】分類連語:毎年。(学研)

 

左注は、「右一首長谷攀花提壷到来 因是大伴宿祢家持作此歌和之」<右の一首は、長谷、花を攀(よ)ぢ壺(つぼ)を提(と)りて到来す。これによて、大伴宿禰家持この歌を作りて和(こた)ふ。>である。

 

 

 

題詞は、「同月廿五日左大臣橘卿宴于山田御母之宅歌一首」<同じき月の二十五日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、山田御母(やまだのみおも)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌一首>である。

(注)橘卿:橘諸兄

(注)山田御母:山田史比売島。孝謙天皇の乳母。故に「御母」という。(伊藤脚注)

 

 

夜麻夫伎乃 花能左香利尓 可久乃其等 伎美乎見麻久波 知登世尓母我母

       (大伴家持 巻二十 四三〇四)

 

≪書き下し≫山吹(やまぶき)の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年(ちとせ)にもがも

 

(訳)山吹の花のまっ盛りの時に、このように我が君にお目にかかることは、千年も長く続いてほしいものです。(同上)

 

左注は、「右一首少納言大伴宿祢家持矚時花作 但未出之間大臣罷宴而不擧誦耳」<右の一首は、少納言(せうなごん大伴宿禰家持、時の花を矚(み)て作る。ただし、いまだ出(い)ださぬ間に、大臣宴を罷(や)めて、挙げ誦(うた)はなくのみ。>である。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「weblio辞書 季語・季題辞典」