万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1542、1543、1544)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P31、P32、P33)―万葉集 巻十七 三九一〇、巻五 七九八、巻十六 三八八六

―その1542―

●歌は、「玉に貫く楝を家に植ゑたらば山ほととぎす離れず来むかも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P31)万葉歌碑<プレート>(大伴書持)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P31)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆珠尓奴久 安布知乎宅尓 宇恵多良婆 夜麻霍公鳥 可礼受許武可聞

      (大伴書持 巻十七 三九一〇)

 

≪書き下し≫玉に貫(ぬ)く楝(あふち)を家に植ゑたらば山ほととぎす離(か)れず来(こ)むかも

 

(訳)薬玉(くすだま)として糸に貫く楝、その楝を我が家の庭に植えたならば、山に棲む時鳥がしげしげとやって来て鳴いてくれることだろうか。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1348表①)」で紹介している。

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題詞は、「詠霍公鳥歌二首」<霍公鳥(ほととぎす)を詠(よ)む歌二首>である。

三九〇九歌もみてみよう。

 

◆多知婆奈波 常花尓毛歟 保登等藝須 周無等来鳴者 伎可奴日奈家牟

      (大伴書持 巻十七 三九〇九)

 

≪書き下し≫橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

 

(訳)橘は、年中咲き盛りの花であったらなあ。そうなれば取り合わせの時鳥が橘に棲みつこうとしてやって来るはず、そうなったら、時鳥の声を聞かない日はないだろう。(同上)

 

左注は、「右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持」<右は、四月の二日に、大伴宿禰書持、奈良(なら)の宅(いへ)より兄家持に贈る>である。

 

 弟書持の「霍公鳥を詠む歌二首」に対して家持は短い前文を添えて、三首書持に送っている。これもみてみよう。

 

「前文」は、「橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候詎不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳」<橙橘(たうきつ)初めて咲き、霍鳥(くわくてう)飜(かけ)り嚶(な)く。この時候に対(むか)ひ、あに志を暢(の)べざらめや。よりて、三首の短歌を作り、もちて欝結(うつけつ)の緒(こころ)を散らさまくのみ>である。

(注)橙橘(たうきつ):橘を漢語風に言ったもの。「橙」はだいだいで、「橘」の一種。(伊藤脚注)

(注)霍鳥(くわくてう):霍公鳥の略。(伊藤脚注)

(注)この時期:家持は、春から夏にかけて特に感じやすい人であった。(伊藤脚注)

(注)うつけつ【鬱結】[名]:① ふさがり滞ること。② 気分が晴れ晴れしないこと。鬱屈。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 

◆安之比奇能 山邊尓乎礼婆 保登等藝須 木際多知久吉 奈可奴日波奈之

       (大伴家持 巻十七 三九一一)

 

≪書き下し≫あしひきの山辺(やまへ)に居(を)ればほととぎす木(こ)の間(ま)立ち潜(く)き鳴かぬ日はなし

 

(訳)山の麓(ふもと)で暮らしているので、こちらは、時鳥、仰せのその時鳥が木々のあいだをくぐって、鳴かない日は一日とてありません。(同上)

(注)たちくく【立ち潜く】自動詞:(間を)くぐって行く。 ※「たち」は接頭語。(学研)

 

 

◆保登等藝須 奈尓乃情曽 多知花乃 多麻奴久月之 来鳴登餘牟流

      (大伴家持 巻十七 三九一二)

 

≪書き下し≫ほととぎす何(なに)の心ぞ橘の玉貫(ぬ)く月し来鳴き響(とよ)むる

 

(訳)そうはいっても、この時鳥はいったいどういうつもりなのか。橘の花を薬玉に通す月頃にばかりやって来て、声響かせて鳴きわたるとは。(同上)

 

 

◆保登等藝須 安不知能枝尓 由吉底居者 花波知良牟奈 珠登見流麻泥

       (大伴家持 巻十七 三九一三)

 

≪書き下し≫ほととぎす楝(あふち)の枝に行きて居(ゐ)ば花は散らむな玉と見るまで

 

(訳)時鳥、この時鳥が、仰せの楝の枝に飛んで行って留まったら、花は、さぞかしほろほろと散りこぼれることだろう。こぼれ落ちる玉のように。(同上)

 

左注は、「右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持」<右は、四月三日に、内舎人(うどねり)大伴宿禰家持、久邇(くに)の京より報送弟(おとひと)書持に報(こた)へ送る>である。

(注)うどねり【内舎人】名詞:律令制で、「中務省(なかつかさしやう)」に属し、帯刀して、内裏(だいり)の警護・雑役、行幸の警護にあたる職。また、その人。「うとねり」とも。 ※「うちとねり」の変化した語。(学研)

 

 家持が勤務した恭仁京は、造営が始まったのは天平十二年(740年)である。天平十六年(744年)に難波宮を都に定められたので恭仁京は、わずか三年余という短い期間であった。

 

 恭仁京跡についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その182改)」で紹介している。

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―その1543―

●歌は、「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P32)万葉歌碑<プレート>(山上憶良

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P32)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陁飛那久尓

      (山上憶良 巻五 七九八)

 

≪書き下し≫妹(いも)が見し棟(あふち)の花は散りぬべし我(わ)が泣く涙(なみた)いまだ干(ひ)なくに

 

(訳)妻が好んで見た棟(おうち)の花は、いくら奈良でももう散ってしまうにちがいない。。妻を悲しんで泣く私の涙はまだ乾きもしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)楝は、陰暦の三月下旬に咲く、花期は二週間程度。筑紫の楝の花散りゆく様を見て、奈良の楝に思いを馳せて詠っている。

(注の注)あふち【楝/樗】: センダンの古名。(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

 この歌は、大伴旅人の妻が亡くなって以降の追善供養があった時に、憶良が旅人に贈った漢詩文と日本挽歌(七九四歌)と反歌(七九五~七九九歌)の反歌の一首である。

 

 日本挽歌(七九四歌)についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その910)」で紹介している。

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七九八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その914)」で紹介している。

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 「あふち(楝)」は、 センダンの古名である。

センダンについては、「庭木図鑑 植木ペディア」に「暖地の海岸沿いや山地に自生するセンダン科の落葉樹。・・・開花は初夏。5月5日に必ず咲くという言い伝えもあるが、実際は地域によって5~6月。花はその年に伸びた枝葉の基部にまとまって咲くが、たいていは高い場所に咲くため観察しにくい。・・・センダンの古名はオウチ(アウチ)。その語源には諸説あるが、同じ頃に咲くフジに似た淡い花が咲く『淡藤(アワフジ)』が転訛したとする説、フジに似た花が仰ぐように咲く『仰藤(アオグフジ)』が転訛したとする説などがある。」と書かれている。



 

―その1544―

●歌は、「・・・あしひきのこの片山のもむ楡を五百枝剥き垂れ天照るや日の異に干し・・・」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P33)万葉歌碑<プレート>(乞食者の歌)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P33)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆忍照八 難波乃小江尓 廬作 難麻理弖居 葦河尓乎 王召跡 何為牟尓 吾乎召良米夜 明久 若知事乎 歌人跡 和乎召良米夜 笛吹跡 和乎召良米夜 琴引跡 和乎召良米夜 彼此毛 命受牟跡 今日ゝゝ跡 飛鳥尓到 雖置 ゝ勿尓到 雖不策 都久怒尓到   東 中門由 参納来弖 命受例婆 馬尓己曽 布毛太志可久物 牛尓己曽 鼻縄波久例 足引乃 此片山乃 毛武尓礼乎 五百枝波伎垂 天光夜 日乃異尓干 佐比豆留夜 辛碓尓舂 庭立 手碓子尓舂 忍光八 難波乃小江乃 始垂乎 辛久垂来弖 陶人乃 所作▼乎 今日徃 明日取持来 吾目良尓 塩柒給 腊賞毛 腊賞毛

     (乞食者の詠 巻十六 三八八六)

         ▼は、「瓦+缶」で「かめ)である。

 

≪書き下し≫おしてるや 難波(なにわ)の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居(を)る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 我(わ)を召すらめや 明(あきら)けく 我が知ることを 歌人(うたひと)と 我(わ)を召すらめや 笛吹(ふえふ)きと 我を召すらめや 琴弾(ことひき)きと 我を召すらめや かもかくも 命(みこと)受(う)けむと 今日今日と 飛鳥(あすか)に至り 立つれども 置勿(おくな)に至り つかねども 都久野(つくの)に至り 東(ひむがし)の 中の御門(みかど)ゆ 参入(まゐ)り来て 命(みこと)受くれば 馬にこそ ふもだし懸(か)くもの 牛にこそ 鼻(はな)縄(づな)はくれ あしひきの この片山の もむ楡(にれ)を 五百枝(いほえ)剥(は)き垂(た)れ 天照るや 日の異(け)に干(ほ)し さひづるや 韓臼(からうす)に搗(つ)き 庭に立つ 手臼(てうす)に搗き おしてるや 難波の小江(をえ)の 初垂(はつたり)を からく垂り来て 陶人(すゑひと)の 作れる瓶(かめ)を 今日(けふ)行きて 明日(あす)取り持ち来(き) 我が目らに 塩(しほ)塗(ぬ)りたまひ 腊(きた)ひはやすも 腊ひはやすも

 

(訳)おしてるや難波(なにわ)入江(いりえ)の葦原に、廬(いおり)を作って潜んでいる、この葦蟹めをば大君がお召しとのこと、どうして私なんかをお召しになるのか、そんなはずはないと私にははっきりわかっていることなんだけど・・・、ひょっとして、歌人(うたひと)にとお召しになるものか、笛吹きにとお召しになるものか、琴弾きにお召しになるものか、そのどれでもなかろうが、でもまあ、お召しは受けようと、今日か明日かの飛鳥に着き、立てても横には置くなの置勿(おくな)に辿(たど)り着き、杖(つえ)をつかねど辿りつくの津久野(つくの)にやって来、さて東の中の御門から参上して仰せを承ると、何と、馬になら絆(ほだし)を懸けて当たり前、牛なら鼻綱(はなづな)つけて当たり前、なのに蟹の私を紐で縛りつけたからに、傍(そば)の端山(はやま)の楡(にれ)の皮を五百枚も剥いで吊(つる)し、日増しにこってりお天道(てんと)様で干し上げ、韓渡りの臼で荒搗(づ)きし、庭の手臼(てうす)で粉々の搗き、片や、事もあろうに、我が故郷(ふるさと)難波入江の塩の初垂(はつた)り、その辛い辛いやつを溜めて来て、陶部(すえべ)の人が焼いた瓶を、今日一走(ひとつばし)りして明日には早くも持ち帰り、そいつに入れた辛塩を私の目にまで塗りこんで下さって、乾物に仕上げて舌鼓なさるよ、舌鼓なさるよ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おしてるや【押し照るや】分類枕詞:地名「難波(なには)」にかかる。かかる理由未詳。(学研)

(注)かもかくも 副詞:ああもこうも。どのようにも。とにもかくにも。(学研)

(注)ふもだし【絆】名詞:馬をつないでおくための綱。ほだし。(学研)

(注)さいずるや〔さひづる‐〕【囀るや】[枕]:外国の言葉は聞き取りにくく、鳥がさえずるように聞こえるところから、外国の意味の「唐(から)」、または、それと同音の「から」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)はつたり【初垂り】:製塩のとき最初に垂れた塩の汁。一説に、塩を焼く直前の濃い塩水。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)すえひと〔すゑ‐〕【陶人】:陶工。すえつくり。(weblio辞書 デジタル大辞泉) 堺市南部にいた須恵器の工人。

(注)腊(読み方 キタイ):まるごと干した肉。(weblio辞書 歴史民俗用語辞典)

 

 題詞は、「乞食者詠二首」<乞食者(ほかひひと)が詠(うた)ふ歌二首>である。

 

左注は、「右歌一首為蟹述痛作之也」<右の歌一首は、蟹(かに)のために痛みを述べて作る>である。

 

この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1087)」で紹介している。

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もう一首の三八八五歌については、「同(その1499)」で紹介している。

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 「アキニレ」は、「東海地方以西の山野及び川原に自生するニレ科の落葉樹。・・・単なるニレという木はなく、一般的に『ニレ』という場合、本種ではなくハルニレを示すことが多い。ハルニレの開花、結実が春であるのに対し、本種は秋(9月頃)に開花、結実するためアキニレと呼ばれるようになった。」(庭木図鑑 植木ペディア)

 このことから、三八八六歌に詠まれている楡は、「アキニレ」と考えられる。



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 歴史民俗用語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「庭木図鑑 植木ペディア」

万葉歌碑を訪ねて(その1540、1541)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P29、P30)ー万葉集 巻二 八五~八八、巻二 九〇の左注

―その1540―

●歌は、「君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ(巻二 八五歌)

   「かくばかり恋つつあらずば高山の岩根しまきて死なましものを(同 八六歌)

   「ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに(同 八七歌)

   「秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ(同 八八歌)である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P29)万葉歌碑<プレート>(磐姫皇后)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P29)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆君之行 氣長成奴 山多都祢 迎加将行 待尓可将待

           (磐姫皇后 巻二 八五)

 

≪書き下し≫君が行き日(け)長くなりぬ山(やま)尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ

 

(訳)あの方のお出ましは随分日数が経ったのにまだお帰りにならない。山を踏みわけてお迎えに行こうか。それともこのままじっと待ちつづけようか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)君が行き:「が」は連体助詞、「行き」はお出ましの意。

(注)「尋ぬ」は原則男の行為、「待つ」は普通、女の行為

 

◆如此許 戀乍不有者 高山之 磐根四巻手 死奈麻死物呼

       (磐姫皇后 巻二 八六)

 

≪書き下し≫かくばかり恋ひつつあらずは高山(たかやま)の岩根(いはね)しまきて死なましものを

 

(訳)これほどまでにあの方に恋い焦がれてなんかおらずにいっそのこと、お迎えに出て険しい山の岩を枕にして死んでしまった方がましだ。(同上)

(注)し 副助詞:《接続》体言、活用語の連用形・連体形、副詞、助詞などに付く。〔強意〕⇒参考:「係助詞」「間投助詞」とする説もある。中古以降は、「しも」「しぞ」「しか」「しこそ」など係助詞を伴った形で用いられることが多くなり、現代では「ただし」「必ずしも」「果てしない」など、慣用化した語の中で用いられる。(学研)

 

 「死奈麻物呼」と強意の「し」に「死」と書いているのは、書き手の遊ぶ心であろと思われる。

 

 

◆在管裳 君乎者将待 打靡 吾黒髪尓 霜乃置萬代日

       (磐姫皇后 巻二 八七)

 

≪書き下し≫ありつつも君をば待たむうち靡(なび)く我が黒髪(くろかみ)に霜の置くまでに

 

(訳)やはりこのままいつまでもあの方をお待ちすることにしよう。長々と靡くこの黒髪が白髪に変わるまでも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)在りつつも(読み)アリツツモ[連語]:いつも変わらず。このままでずっと。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)霜を置く(読み)しもをおく:白髪になる。霜をいただく。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)

 

 

◆秋田之 穂上尓霧相 朝霞 何時邊乃方二 我戀将息

      (磐姫皇后 巻二 八八)

 

≪書き下し≫秋の田の穂の上(うへ)に霧(き)らふ朝霞(あさかすみ)いつへの方(かた)に我(あ)が恋やまむ

 

(訳)秋の田の稲穂の上に立ちこめる朝霞ではないが、いつになったらこの思いは消え去ることか。この霧のように胸のうちはなかなか晴れそうにない。(同上)

 

 

 八五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1035)」で、八六歌については「同(その1036)」で、八七歌は「同(その1034)」で、八八歌は「同(その1037)」でそれぞれ紹介している。

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 磐姫皇后陵についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1045)」で、平城宮跡北部を、孝謙天皇陵、平城天皇陵、磐姫皇后陵、水上池をプチウォークしたなかで紹介している。

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―その1541-

●九〇歌の左注、「・・・皇后紀伊の国に遊行して熊野の岬に到りてその処の御綱葉を取りて還る」である。

 

●左注のプレートは、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P30)にある。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P30)万葉歌碑<プレート>(九〇歌の左注)

●左注をみていこう。

 

◆(左注)「右一首歌古事記与類聚歌林所説不同歌主亦異焉 因檢日本紀曰 難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月天皇語皇后納八田皇女将為妃 時皇后不聴 爰天皇歌以乞於皇后云ゝ 卅年秋九月乙卯朔乙丑皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還 於是天皇伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中 時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云ゝ 亦曰 遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春三月甲午朔庚子木梨軽皇子為太子 容姿佳麗見者自感 同母妹軽太娘皇女亦艶妙也云ゝ 遂竊通乃悒懐少息廿四年夏六月御羮汁凝以作氷 天皇異之卜其所由 卜者曰 有内乱 盖親ゝ相奸乎云ゝ 仍移太娘皇女於伊豫者 今案二代二時不見此歌也」

 

≪左注の書き下し≫右の一首の歌は、古事記と類聚歌林と説(い)ふ所同じくあらず、歌の主(ぬし)もまた異(こと)なり。よりて日本紀(にほんぎ)に検(ただ)すに、曰はく、『難波の高津の宮に天の下知らしめす大鷦鷯天皇(おほさぎきのすめらみこと)の二十二年の春の正月に、天皇、皇后(おほきさき)に語りて、八田皇女(やたのひめみこ)を納(めしい)れて妃(きさき)とせむとしたまふ。時に、皇后聴(うけゆる)さず。ここに天皇、歌(みうた)よみして皇后に乞ひたまふ云々(しかしか)。三十年の秋の九月乙卯(きのとう)の朔(つきたち)の乙丑(きのとうし)に、皇后紀伊国(きのくに)に遊行(いで)まして熊野(くまの)の岬(みさき)に到りてその処の御綱葉(みつなかしは)を取りて還(まゐかへ)る。ここに天皇、皇后の在(いま)さぬを伺(うかか)ひて八田皇女(やたのひめみこ)を娶 (め)して宮(おほみや)の中(うち)に納(めしい)れたまふ。時に、皇后難波(なには)の済(わたり)に到りて、天皇の八田皇女を合(め)しつと聞きて大きに恨みたまふ云々』といふ。また曰はく、『遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰天皇(をあさづまわくごのすくねのすめらみこと)の二十三年の春の三月甲午(きのえうま)の朔(つきたち)の庚子(かのえね)に、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を太子(ひつぎのみこ)となす。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく見る者(ひと)おのずから感(め)づ。同母妹(いろも)軽太娘皇女(かるのおほいらつめのひめみこ)もまた艶妙(かほよ)し云々。つひに竊(ひそ)かに通(あ)ふ。すなはち悒懐(いきどほり)少しく息(や)む。二十四年の夏の六月に、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて氷(ひ)となる。天皇異(あや)しびてその所由(よし)を卜(うら)へしめたまふ。卜者(うらへ)の曰(まを)さく、『内の乱(にだれ)有り。けだしくは親々(はらから)相(どち)奸(たは)けたるか云々』とまをす。よりて、太娘皇女を伊与に移す」といふ。今案(かむが)ふるに、二代二時(ふたとき)にこの歌を見ず。

(注)おおさざきのみこと【大鷦鷯天皇】:仁徳天皇の名。

(注)八田皇女(やたのひめみこ):仁徳天皇の異母妹。当時は、母の違う兄弟姉妹の結婚は認められた。

(注)きさき【后・妃】: 天皇の配偶者。皇后。中宮。また、女御などで天皇の母となった人。律令制では特に称号の第一とされた。 → 夫人・嬪(ひん)と続く。(weblio辞書 三省堂大辞林第三版)

(注)熊野の岬:和歌山県南方の海岸。熊野は古代人にとっては聖地。

(注)みつながしは 御綱葉:ウコギ科の常緑小高木カクレミノの葉ともいうが、未詳。万葉集では「磐姫皇后、天皇を思ひて作らす歌」(1-85~90)の左注に「皇后、紀伊国に遊行(ゆ)きて、熊野の岬に至り、その処の御綱葉(みつながしは)を取りて還へる」とある。皇后磐姫が紀伊国の出かけたことは、記に「大后(おほきさき)、豊楽(とよのあかり)せむと為(し)て、御綱柏を採りに木国(きのくに)に幸出(いでま)しし間」とあり、紀に、この時期を「秋九月」としている。カシハは、「炊葉」の意であり、食物を盛ったり、覆ったりするのに用いたものであった。例えば、「皇祖の遠き御代御代はい敷折り酒飮むといふそこのほほがしは」(19-4205)のように、葉を折って酒器として用いたホホガシハ(もくれん科)のような例もある。当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう。(國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」)

(注)内の乱れ:同居血縁者の不倫。

(注)二代二時にこの歌を見ず:日本書記には、仁徳・允恭両朝のいずれにも八五・九〇のような歌は見当たらない、の意。八五の歌は、磐姫皇后(いはのひめのおほきさき)の歌で、「君が行き日(け)長くなりぬ山尋(たづ)ね迎へか行かむ待ちにか待たむ」である。

 

 

 前稿(その1540)の歌碑(プレート)に「古代最強の“やきもち焼き”磐姫皇后」と書かれていたが、九十歌の左注ならびに磐姫皇后の嫉妬深さについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1038)」で紹介している。

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 「みつながしわ」については、「オオタニワタリ」、「カクレミノ」、「アカメガシワ」などの説がある。

オオタニワタリ」については、「歴史の情報蔵 第42話オオタニワタリ」(三重県HP)に「常緑性のシダ植物で、伊豆諸島、紀伊半島、九州(西部・南部)、奄美諸島、沖縄などの暖地で見ることができる。・・・オオタニワタリの特徴は葉の形にある。多くの種類のシダ植物の葉は、縁が何度も切れ込み、ヤシやソテツの葉のような形状になるのに対し、オオタニワタリの葉は、縁の切れ込みがまったく見られず、ネクタイをイメージさせるような形状となっている。また、長さが1メートルにもなる大きな葉を根元から放射状に広げるため、見た目も他のシダとは明確に区別できる。」と書かれている。

オオタニワタリ」 「歴史の情報蔵 第42話オオタニワタリ」(三重県HP)より引用させていただきました。

 

 

「カクレミノ」とは、「関東地方以西の本州、四国、九州及び沖縄に分布するウコギ科の常緑樹。海に近い照葉樹林内に自生する・・・葉の形が、狂言『節分』に登場する伝説上の『隠れ蓑』(着ると姿を消すことができる『透明マント』のような代物)に似ていること、あるいは葉の大きなカクレミノの木自体が、目隠し用になることからから命名された。」(庭木図鑑 植木ペディア)

 

 


 「アカメガシワ」は、「・東南アジアの山地に見られるトウダイグサ科の落葉樹。日本では北海道を除く各地に見られ、・・・葉は長さ7~20センチ、幅5~15センチで長い柄があり、枝から互い違いに生じる。形状は環境や個体によって様々だが、若い木では葉の縁が浅く三つに裂けるものが多い。3本の葉脈が目立ち、両面とも細かな毛で覆われる。」(庭木図鑑 植木ペディア)

 


 國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」に書かれている、「当該のミツナガシハは、その採取の時期が秋であることや、皇后自らこれを採るために紀伊国まで出かけている樣子などを考えると、新嘗祭の神饌を盛る器として用いられるためのものであったと考えられよう」から考えても、また盛る器としての迫力、植物生息の特異性などから考えても「みつながしわ」は、「オオタニワタリ」であるように考えられるのである。

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタル・ミュージアムHP)

★「weblio辞書 三省堂大辞林第三版」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「コトバンク 三省堂大辞林 第三版」

★「庭木図鑑 植木ペディア」

★「歴史の情報蔵 第42話オオタニワタリ」(三重県HP)

 

万葉歌碑を訪ねて(その1537,1538,1539)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P26、P27、P28)―万葉集 巻六 一〇〇九、巻八 一五三七・一五三八、巻十九 四一五九

―その1537―

●歌は、「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木」である。

 

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P26)にある。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P26)万葉歌碑<プレート>(聖武天皇



●歌をみてみよう。

 

◆橘者 實左倍花左倍 其葉左倍 枝尓霜雖降 益常葉之樹

      (聖武天皇 巻六 一〇〇九)

 

≪書き下し≫橘は実さへ花さへその葉さへ枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の樹

 

(訳)橘の木は、実も花もめでたく、そしてその葉さえ、冬、枝に霜が降っても、ますます栄えるめでたい木であるぞ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)いや 感動詞:①やあ。いやはや。▽驚いたときや、嘆息したときに発する語。②やあ。▽気がついて思い出したときに発する語。③よう。あいや。▽人に呼びかけるときに発する語。④やあ。それ。▽はやしたてる掛け声。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)とこは【常葉】名詞:常緑の木の葉。(学研)

 

 題詞は、「冬十一月左大辨葛城王等賜姓橘氏之時御製歌一首」<冬の十一月に、左大弁(さだいべん)葛城王等(かづらきのおほきみたち)、姓橘の氏(たちばなのうぢ)を賜はる時の御製歌一首>である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その966)」で紹介している。

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 さへ、さへ、さへ、いや、とリズミカルな歌である。

 

「たちばな」については、「伊豆半島以西の本州、四国、九州及び沖縄に分布するミカン科の常緑樹。日本に自生する唯一の野生ミカンで、奈良、平安時代には普通に自生していたが、現代では海岸沿いの山地や樹林内に細々と生き残る。(中略)常緑樹であり、一年を通じて葉が緑色であることや、黄色い果実が比較的長い間、枝に残ることなどから縁起の良い木とされ、葉と果実をモチーフとした橘紋は橘氏武家の井伊、黒田氏等の家紋として使われた。」(庭木図鑑 植木ペディア)

「たちばな」 「庭木図鑑 植木ペディア」より引用させていただきました。

 橘の家紋に似ている茶の実の家紋。

「家紋の図鑑 9,000⁻家紋検索」から引用させていただきました。

 

 

 

―その1538―

●歌は、「秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花(一五三七歌)」と

「萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花(一五三八歌)」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P27)万葉歌碑<プレート>(山上憶良

●歌碑は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P27)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆秋野尓 咲有花乎 指折 可伎數者 七種花  其一

       (山上憶良 巻八 一五三七)

 

≪書き下し≫秋の野に咲きたる花を指(および)折りかき数(かぞ)ふれば七種(ななくさ)の花  その一

 

(訳)秋の野に咲いている花、その花を、いいか、こうやって指(および)を折って数えてみると、七種の花、そら、七種の花があるんだぞ。(同上)

 

 

◆芽之花 乎花葛花 瞿麦之花 姫部志 又藤袴 朝▼之花

       (山上憶良 巻八 一五三八)

   ▼は「白」の下に「八」と書く。「朝+『白』の下に『八』」=「朝顔

 

≪書き下し≫萩の花 尾花(をばな) 葛花(くずはな) なでしこの花 をみなへし また藤袴(ふぢはかま) 朝顔の花

 

(訳)一つ萩の花、二つ尾花、三つに葛の花、四つになでしこの花、うんさよう、五つにおみなえし。ほら、それにまだあるぞ、六つ藤袴、七つ朝顔の花。うんさよう、これが秋の七種の花なのさ。(同上)

 

 一五三七歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その61改)」で、一五三八歌については、「同(その62改)」で紹介している。

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 「秋の七種」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1027)」で紹介している。

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 一五三八歌をブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1538)」で紹介するとは、ささやかな幸せ。(一人で拍手)

 

 

―その1539―

●歌は、「磯の上のつままを見れば根を延へて年深くあらし神さびにけり」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P28)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P28)にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆礒上之 都萬麻乎見者 根乎延而 年深有之 神佐備尓家里

      (大伴家持 巻十九 四一五九)

 

≪書き下し≫磯(いそ)の上(うへ)のつままを見れば根を延(は)へて年深くあらし神(かむ)さびにけり

 

(訳)海辺の岩の上に立つつままを見ると、根をがっちり張って、見るからに年を重ねている。何という神々しさであることか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)つまま〘名〙: 植物「たぶのき(椨)」のことか。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)としふかし【年深し】( 形ク ):何年も経っている。年老いている。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)あらし 分類連語:あるらしい。あるにちがいない。 ※なりたち ラ変動詞「あり」の連体形+推量の助動詞「らし」からなる「あるらし」が変化した形。ラ変動詞「あり」が形容詞化した形とする説もある。(学研)

 

題詞は、「過澁谿埼見巌上樹歌一首  樹名都萬麻」<澁谿(しぶたに)の埼(さき)を過ぎて、巌(いはほ)の上(うへ)の樹(き)を見る歌一首   樹の名はつまま>である。

 

四一五九歌から四一六五歌までの歌群の総題は、「季春三月九日擬出擧之政行於舊江村道上属目物花之詠并興中所作之歌」<季春三月の九日に、出擧(すいこ)の政(まつりごと)に擬(あた)りて、古江の村(ふるえのむら)に行く道の上にして、物花(ぶつくわ)を属目(しょくもく)する詠(うた)、并(あは)せて興(きよう)の中(うち)に作る歌>である。

 

 四一五九歌から四一六五歌までについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その867)」で紹介している。ここでは富山県高岡市太田の「つまま公園」の歌碑も紹介している。

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 「つまま」は「タブノキ」と考えられている。

 「タブノキ」については、「庭木図鑑 植木ペディア」によると、「北海道、青森及び岩手を除く日本全国に分布するクスノキ科の常緑樹。暖地の海岸沿いに多いが、公園や庭園に植栽されることもある。・・・・タブノキは幹が真っすぐに伸び、樹高が最大30m、直径が3.5mにもなることから、船を作るのに使われる。古代に朝鮮半島から渡来した丸木船は全てタブノキで造られたほど日韓交易に貢献している。・・・材質はやや硬くクスノキに似るが、クスノキに比べて用途が少ないため『イヌグス』という別名がある。」と書かれている。



 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「家紋の図鑑 9,000⁻家紋検索」

★「庭木図鑑 植木ペディア」

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

万葉歌碑を訪ねて(その1533,1534,1535,1536)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P22、P23、P24、P25)―万葉集 巻二 一四一、一四二、巻九 一七三〇、巻四 五三一

―その1533―

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P22)万葉歌碑<プレート>(有間皇子

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P22)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

        (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)岩代:和歌山県日高郡みなべ町岩代。(伊藤脚注)

 

 紹介は次稿(その1534)にまとめます。

 

 

―その1534―

●歌は、「家なれば笱に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P23)万葉歌碑<プレート>(有間皇子

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P23)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆家有者 笱尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉盛

      (有間皇子 巻二 一四二)

 

≪書き下し≫家なれば笱(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えをする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎(しい)の葉に盛って神祭りをする。(同上)

 

 二首ならびに一四三から一四六歌の同情歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その197)」で紹介している。

 ➡ 

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 一四一、一四二歌の題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自(みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 一四一歌は、巻二の「挽歌」の先頭歌である。

 

 「自(みづか)ら傷(いた)みて」の重みある言葉を考えてみよう。有間皇子は謀反のかどで捉えられたのであるから、「死」を覚悟している。自らの死が確実であるという意識、即ち自らの死を傷むという言い方である。

 

 ちなみに同「挽歌」は、題詞「柿本朝臣人麻呂在石見國臨死時自傷作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、石見(いはみ)の国に在りて死に臨む時に、自(みづか)ら傷(いた)みて作る歌一首>で閉じている。(二二八から二三四歌は、標題「寧楽の宮」として追補されている。)

伊藤 博氏は、この題詞の脚注で、巻二の「『相聞』は人麻呂の恋の歌で閉じ、『挽歌』は人麻呂の死の歌で閉じる。双方に依羅娘子が登場する。」と書かれている。

 

 梅原猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論(上)」(新潮文庫)の中で、「・・・非業の死をとげた有間皇子の歌の詞書と同じ表現である点に、その死が尋常な死でないことを感じさせる。」として人麿の刑死説を展開されている。

 これについてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1267)」で紹介している。

 ➡ 

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有間皇子結松記念碑(みなべ町)、西岩代の光照寺歌碑についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1193、番外)で紹介している。

➡ 

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―その1535―

●歌は、「山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ」である。



●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P24)にある。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P24)万葉歌碑<プレート>(藤原宇合

●歌をみていこう。

 

◆山品之 石田乃小野之 母蘇原 見乍哉公之 山道越良武

       (藤原宇合 巻九 一七三〇)

 

≪書き下し≫山科(やましな)の石田(いはた)の小野(をの)のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ

 

(訳)山科の石田の小野のははその原、あの木立を見ながら、あの方は今頃独り山道を越えておられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)石田:京都府山科区の南部

(注)ははそ / 柞:コナラの古名とも、ナラ・クヌギ類の総称ともいう。『万葉集』に「山科(やましな)の石田(いはた)の小野のははそ原見つつか君が山道(やまぢ)越ゆらむ」(巻9・藤原宇合(うまかい))と詠まれ、のちにこの「石田(いしだ)のははそ原」は歌枕(うたまくら)となり、また「ははそ葉の」は「母」の枕詞(まくらことば)となった。(コトバンク 小学館 日本大百科全書<ニッポニカ>)

(注の注)コナラ:北海道北部及び沖縄を除く日本各地に分布するブナ科の落葉広葉樹。自生は山地のやや乾いた場所だが、材を薪炭に使うため民家近くで大量に植栽され、その名残が各地で普通に見られる。コナラはクヌギと並ぶ雑木林の主であり、絵に描いたような形のドングリができる。(庭木図鑑 植木ペディア)

 

「ははそ(コナラ)」 「庭木図鑑 植木ペディア」より引用させていただきました。

 

一七二九から一七三一歌の題詞は、「宇合卿歌三首」<宇合卿(うまかひのまへつきみ)が歌三首>であり、このうちの一首である。

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その553)」で紹介している。

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(注)万葉の森公園の歌碑(プレート)では「イスノキ」とあるが、古くから鋤などに使われ、材木としての価値の高い有用樹である。静岡県以西に分布。マンサク科の常緑高木である。中国名は蚊母樹(ぶんぼじゅ)、日本の漢字表記は「柞の木」(庭木図鑑 植木ペディアより)

 

 

―その1536―

●歌は、「梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P25)万葉歌碑<プレート>(海上女王)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P25)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆梓弓 爪引夜音之 遠音尓毛 君之御幸乎 聞之好毛

       (海上女王 巻四 五三一)

 

≪書き下し≫梓弓(あづさゆみ)爪引(つまび)く夜音(よと)の遠音(とほと)にも君が御幸(みゆき)を聞かくしよしも

 

(訳)魔除けに梓弓(あずさゆみ)を爪引(つまび)く夜の弦(つる)打ちの音が遠く聞こえますが、その音のように遠くから聞こえてくる噂にだけでも、我が君の行幸(いでまし)があると耳にすることは嬉(うれ)しいことでございます。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句は序。「遠音」を起こす。(伊藤脚注)

(注)つまびく【爪引く・爪弾く】他動詞:弓の弦を指先ではじく。弦楽器を指の爪(つめ)ではじき鳴らす。(学研)

(注)爪引(つまび)く夜音(よと):夜の御座所警護の者が、魔除けに弦をはじいてならす音。(伊藤脚注)

(注)遠音:(ここでは)遠くからの噂。(伊藤脚注)

(注)君が御幸(みゆき)を聞かくしよしも:私の所へ君の行幸があると。私の心を疑わないのならお運びいただけるんですねと、やんわり応じたもの。(伊藤脚注)

 

題詞は、「海上王奉和歌一首 志貴皇子之女也」<海上女王(うなかみのおほきみ)が和(こた)へ奉(まつ)る歌一首 志貴皇子の女なり>

 

 五三〇歌もみてみよう。

題詞は、「天皇海上女王御歌一首  寧樂宮即位天皇也」<天皇(すめらみこと)、海上女王(うなかみのおほきみ)に賜ふ御歌一首  寧樂(なら)の宮(みや)に即位したまふ天皇なり>である。

 

◆赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思

       (聖武天皇 巻四 五三〇)

 

≪書き下し≫赤駒(あかごま)の越ゆる馬柵(うませ)の標結(しめゆ)ひし妹(いも)が心は疑ひもなし

 

(訳)うっかりすると元気な赤駒が飛び越えて逃げる柵(さく)をしっかりと結い固めるように、私のものだと標(しめ)を結って固めておいたあなたの心には何の疑いもない。(同上)

(注)上二句は序。「標結ふ」を起こす。(伊藤脚注)

(注)ゆふ【結ふ】他動詞:①結ぶ。縛(しば)る。②髪を調え結ぶ。髪を結う。③組み立てる。作り構える。こしらえる。④縫う。つくろう。糸などで結び合わせる。 ⇒参考:「ゆふ」と「むすぶ」の違い 「ゆふ」も「むすぶ」も紐状のものをからみ合わせるという点で同じ意を表すが、本来、「ゆふ」は、ある形に作りなすという面が強く、「むすぶ」は、固定して離れないようにするという面が強いとみられる。(学研)

 

左注は、「右今案 此歌擬古之作也 但以時當便賜斯歌歟」<右は、今案(かむが)ふるに、この歌は古(いにしへ)に擬(なず)らふる作なり。ただし、時の当れるをもちてすなはちこの歌を賜ふか>であある。

(注)古(いにしへ)に擬(なず)らふる作:古歌を模した歌。(伊藤脚注)

(注)時の当れるをもちて:時の事情に相応したので。狩などの行幸の折の歌か。(伊藤脚(注)梓(あずさ)は、ミズメのことである。

(注の注)ミズメ:岩手県以南の本州、四国及び九州(高隅山まで)の山地に分布するカバノキ科の落葉高木。樹皮を傷付けると水のような樹液が出てくるためミズメと名付けられた。(中略)ミズメの枝は弾力性が高く、古来より儀式で巫女が使う「梓弓」の材料となり、別名をアズサ、アズサノキという。かつてはキササゲやアカメガシワをアズサとする説もあったが、現在ではアズサ=ミズメであることが正倉院の宝物によって証明されている。弓に使ったのは、ミズメの材に含まれる独特の香りに魔除け効果も期待してとのこと。(庭木図鑑 植木ペディア)

「あずさ(ミズメ)」 「庭木図鑑 植木ペディア」より引用させていただきました。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「水底の歌 柿本人麿論(上)」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「庭木図鑑 植木ペディア」

万葉歌碑を訪ねて(その1530,1531,1532)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P19、P20、P21)―万葉集 巻七 一二九三.巻八 一四三三、巻四 六七五

 

―その1530―

歌は、「霰降り遠江の吾跡川楊 刈れどもまたも生ふといふ吾跡川楊」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P19)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P19)にある。

 

歌をみていこう。

 

◆丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一二九三)

 

≪書き下し≫霰(あられ)降(ふ)り遠江(とほつあふみ)の吾跡川楊(あとかわやなぎ) 刈れどもまたも生(お)ふといふ吾跡川楊

 

(訳)遠江の吾跡川の楊(やなぎ)よ。刈っても刈っても、また生い茂るという吾跡川の楊よ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)あられふり【霰降り】[枕]:あられの降る音がかしましい意、また、その音を「きしきし」「とほとほ」と聞くところから、地名の「鹿島(かしま)」「杵島(きしみ)」「遠江(とほつあふみ)」にかかる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)吾跡川:静岡県浜松市北区細江町の跡川か。(伊藤脚注)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その262)」で紹介している。

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 ブログ262では、「かはやなぎ」を詠んだ歌を三首紹介している。うち一七二三歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その767)」で紹介している。

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 もう一首一八四八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その203改)」で紹介している。

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 ヤナギには、枝葉が揚がる、我が国古来の「楊」と、枝葉が垂れる、中国から渡来した「柳」がある。前者はカワヤナギを、後者はシダレヤナギを表している。

カワヤナギは別名「ネコヤナギ」と呼ばれる。

(注)ねこやなぎ【猫柳】:ヤナギ科の落葉低木。川岸に多く、葉は長楕円形で、裏は白みがかっている。雌雄異株。早春、葉より先に、赤褐色の鱗片(りんぺん)が取れて白い毛を密生した雄花穂や雌花穂が現れる。かわやなぎ。えのころやなぎ。《季 春》(weblio辞書 デジタル大辞泉

 

「かはやなぎ(ネコヤナギ)」 「weblio辞書 デジタル大辞泉」より引用させていただきました。

 

 

―その1531―

●歌は、「うち上る佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P20)万葉歌碑<プレート>(大伴坂上郎女

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P20)にある。

 

●歌をみていこう。

 

 ◆打上 佐保能河原之 青柳者 今者春部登 成尓鶏類鴨

       (大伴坂上郎女 巻八 一四三三)

 

≪書き下し≫うち上(のぼ)る佐保の川原(かはら)の青柳は今は春へとなりにけるかも

 

(訳)馬を鞭(むち)打っては上る佐保の川原の柳は、緑に芽吹いて、今はすっかり春らしくなってきた。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)うち上る:私が遡って行く。

(注の注)うち【打ち】接頭語:〔動詞に付いて、語調を整えたり下の動詞の意味を強めて〕①ちょっと。ふと。「うち見る」「うち聞く」②すっかり。「うち絶ゆ」「うち曇る」③勢いよく。「うち出(い)づ」「うち入る」 ⇒語法動詞との間に助詞「も」が入ることがある。「うちも置かず見給(たま)ふ」(『源氏物語』)〈下にも置かずにごらんになる。〉

⇒注意 「打ち殺す」「打ち鳴らす」のように、打つの意味が残っている複合語の場合は、「打ち」は接頭語ではない。打つ動作が含まれている場合は動詞、含まれていない場合は接頭語。「うち」は接頭語、(学研)

(注)はるべ【春方】名詞:春のころ。春。 ※古くは「はるへ」(学研)

 

題詞は、「大伴坂上郎女柳歌二首」<大伴坂上郎女が柳の歌二首>の一首である。

 

 一四三二、一四三三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1074)」で紹介している。

 ➡ 

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―その1532―

●歌は、「をみなへし佐紀沢に生える花かつみかつても知らぬ恋もするかも」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P21)万葉歌碑<プレート>(中臣女郎)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P21)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆娘子部四 咲澤二生流 花勝見 都毛不知 戀裳摺可聞

      (中臣女郎 巻四 六七五)

 

≪書き下し≫をみなえし佐紀沢(さきさわ)に生(お)ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも

 

(訳)おみなえしが咲くという佐紀沢(さきさわ)に生い茂る花かつみではないが、かつて味わったこともないせつない恋をしています。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)をみなへし【女郎花】:①おみなえし。②「佐紀(現奈良市北西部・佐保川西岸の地名)」にかかる枕詞。 (weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)さきさわ(佐紀沢):平城京北一帯の水上池あたりが湿地帯であったところから

このように呼ばれていた。(伊藤脚注)

(注)はなかつみ【花かつみ】名詞:水辺に生える草の名。野生のはなしょうぶの一種か。歌では、序詞(じよことば)の末にあって「かつ」を導くために用いられることが多い。芭蕉(ばしよう)が『奥の細道』に記したように、陸奥(みちのく)の安積(あさか)の沼(=今の福島県郡山(こおりやま)市の安積山公園あたりにあった沼)の「花かつみ」が名高い。「はながつみ」とも。(学研)

(注)かつて【曾て・嘗て】副詞:〔下に打消の語を伴って〕①今まで一度も。ついぞ。②決して。まったく。 ⇒ 参考 中古には漢文訓読系の文章にのみ用いられ、和文には出てこない。「かって」と促音にも発音されるようになったのは近世以降。(学研)

 

六七五から六七九歌の歌群の、題詞は、「中臣女郎(なかとみのいらつめ)贈大伴宿祢家持歌五首」とある。

 

 六七五歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1092)」で紹介している。

 ➡ 

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 「花かつみ」は、万葉集ではこの歌にのみ詠われており、マコモヒメシャガハナショウブ、アヤメなどの諸説がある。

(注)まこも【真菰/真薦】:イネ科の多年草。沼地に群生し、高さ約2メートル。葉は長くて幅広い。初秋、上方に雌花穂、下方に雄花穂を円錐状につける。茎・葉でござを編み、種子と若芽は食用。また黒穂菌(くろぼきん)がついて竹の子状となった茎を菰角(こもづの)などといい、食用にする。(weblio辞書 デジタル大辞泉

マコモ」 「weblio辞書 デジタル大辞泉」より引用させていただきました。

(注)ヒメシャガ:日本特産の多年草です。山地の森林にある岩場や急斜面に見られます。草丈は低く、葉が薄くて光沢はなく、冬には地上部が枯れる点でシャガとは簡単に区別できます。短く横に這う根茎があり、多数のひげ根が生えています。初夏に葉の間から斜めに花茎を伸ばし、先端近くに数輪の花を咲かせます。花の大きさは2cmほどで、普通はうすい青紫色です。(「みんなの趣味の園芸」NHK出版HP)

ヒメシャガ」 「みんなの趣味の園芸」NHK出版HPより引用させていただきました。

(注)ハナショウブ:初夏、梅雨の中でも、ひときわ華やかに咲き誇ります。野生のノハナショウブをもとに、江戸時代を中心に数多くの品種が育成され、現在2000以上あるといわれています。優美な花形としっとりとした風情が魅力で、色彩の魔術師とも呼ばれるように、花色の変化に富んでいます。アヤメやカキツバタに似ていますが、花弁のつけ根が黄色で、アヤメのような網目模様はなく、葉幅は狭く、葉脈がはっきりと隆起している点でカキツバタと区別できます。(「みんなの趣味の園芸」NHK出版HP)

ハナショウブ」 「みんなの趣味の園芸」NHK出版HPより引用させていただきました。

(注)アヤメ:高さ30~60cm、葉はまっすぐに立ち、茎の先端に1~3輪の花を咲かせる多年草です。多数の茎が株立ちになり、短く這う根茎からは多数のひげ根が伸びています。湿地の植物のように思われていますが、低山から高原の明るい草原に見られる植物です。古くから栽培されていますが、ハナショウブカキツバタほど園芸品種は生まれませんでした。(「みんなの趣味の園芸」NHK出版HP)

「アヤメ」 「みんなの趣味の園芸」NHK出版HPより引用させていただきました。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「みんなの趣味の園芸」 (NHK出版HP))

万葉歌碑を訪ねて(その1527,1528,1529)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P16、P17、P18)―万葉集 巻十 二三一五、巻十六 三八七二、巻二〇 四四四八

―その1527―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P16)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P16)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

        (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その871)」で紹介している。

 ➡ こちら871

 

 

 「シラカシ」については、熊本大学薬学部 薬草園 「薬草データベース」に「常緑高木.樹高20 mに達する。幹は直立して分枝し、枝は暗紫褐色。樹皮は灰黒色で新枝は平滑。葉はまばらに互生し、有柄で長楕円状披針形か披針形。長さ5~12 cm、漸長鋭尖頭で上半部は鋸歯縁。雌雄同種で気褐色の雄花を多数前年枝の葉腋の尾状花序に付け、雌花は新枝に腋生する。」と書かれている。

シラカシ」 熊本大学薬学部 薬草園 「薬草データベース」より引用させていただきました。

 

―その1528-

●歌は、「我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P17)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

 ※「ほよ」についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1512)」で紹介している。

 ➡ 

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●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P17)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆吾門之 榎實毛利喫 百千鳥 ゝゝ者雖来 君曽不来座

       (作者未詳 巻十六 三八七二)

 

≪書き下し≫我(わ)が門(かど)の榎(え)の実(み)もり食(は)む百千鳥(ももちとり)千鳥(ちとり)は来(く)れど君ぞ来(き)まさぬ

 

(訳)我が家の門口の榎(えのき)の実を、もぐように食べつくす群鳥(むらどり)、群鳥はいっぱいやって来るけれど、肝心な君はいっこうにおいでにならぬ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)もり食む:もいでついばむ意か。

(注)ももちどり 【百千鳥】名詞①数多くの鳥。いろいろな鳥。②ちどりの別名。▽①を「たくさんの(=百)千鳥(ちどり)」と解していう。③「稲負鳥(いなおほせどり)」「呼子鳥(よぶこどり)」とともに「古今伝授」の「三鳥」の一つ。うぐいすのことという。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

この歌の次に収録されている歌は、門口で千鳥が鳴いているので、人に知られたら大変だ、早く起きて出て行っておくれと言う歌である。こちらもみてみよう。

 

◆吾門尓 千鳥數鳴 起余ゝゝ 我一夜妻 人尓所知名

       (作者未詳 巻十六 三八七三)

 

≪書き下し≫我が門に千鳥(ちどり)しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫人に知らゆな

 

(訳)我が家の門口で鳥がいっぱい鳴き立てている。さあ起きて起きて、私の一夜夫さん、人に知られないでね。(同上)

(注)一夜夫:一夜だけ床を共にした行きずりの男

 

 なんとも滑稽な歌である。思わず吹き出したくなるような歌である。三句目の「起きよ起きよ」という、実際の声掛けをそのまま歌いこんでいるところが一層おかしくさせている。

 

 これが万葉集の歌かと思ってしまう。

 この二首についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1045)」で紹介している。

 ➡ 

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 「千鳥」といっても、三八七二歌の「百千鳥(ももちどり)」や「朝猟(あさがり)に五百(いほ)つ鳥(とり)立て夕猟(ゆふがり)に千鳥(ちとり)踏み立て・・・(大伴家持 四〇一一歌)」にあるように、様々な鳥を意味する使われ方がある。

 

 「チドリ」という鳥がいるものと今まで思っていた。写真を掲載しようと「色と大きさで分かる野鳥観察図鑑(成美堂出版)」を検索してみたが目次に出てこない。

 改めて検索してみると、「コトバンク 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」に「鳥綱チドリ目チドリ科に属する鳥の総称。(中略)日本には、ダイゼン、ムナグロ、コバシチドリ、オオメダイチドリメダイチドリ、ハジロコチドリコチドリ、オオチドリ、イカルチドリ、シロチドリ、ケリ、タゲリの12種の記録がある。そのうち、繁殖しているのはイカルチドリ、シロチドリ、コチドリ、ケリ、タゲリの5種である。」と書かれていた。



 「チドリ」は「千鳥(ちどり)」でり、「五百(いほ)つ鳥(とり)」であり「百千鳥(ももちどり)であったのだ。

 

 

 

―その1529―

●歌は、「あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P18)万葉歌碑<プレート>(橘諸兄

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P18)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都ゝ 思努波牟

       (橘諸兄 巻二〇 四四四八)

 

≪書き下し≫あぢさゐの八重(やへ)咲く如く八(や)つ代(よ)にをいませわが背子(せこ)見つつしのはむ

 

(訳)あじさいが次々と色どりを変えてま新しく咲くように、幾年月ののちまでもお元気でいらっしゃい、あなた、あじさいを見るたびにあなたをお偲びしましょう。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)八重咲くごとく:次々と色どりを変えてま新しく咲くように。あじさいは色が変わるごとに新しい花が咲くような印象を与える。

(注)八つ代:幾久しく。「八重」を受けて「八つ代」といったもの。

 

 四四四六から四四四八歌の歌群の題詞は、「同月十一日左大臣橘卿宴右大辨丹比國人真人之宅三首」<同じ月の十一日に、左大臣橘卿(たちばなのまへつきみ)、右大弁(うだいべん)丹比國人真人(たぢひのくにひとのまひと)が宅(いへ)にして宴(うたげ)する歌三首>である。

 

 左注は、「右一首左大臣寄味狭藍花詠也」<右の一首は、左大臣、味狭藍(あじさゐ)の花に寄せて詠む。>である。

 

 四四四六から四四四八歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その467)」で紹介している。

 ➡ 

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  「あぢさゐ」は、以外にも万葉集では二首のみである。家持の七七三歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その850)」で紹介している。

 ➡ 

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なぜ「あじさい」と言うのかについては、「由来・語源辞典」に次の様に書かれている。

 

あじさいの語源は、『藍色が集まったもの』を意味する『あづさい(集真藍)』が変化したものとされる。

『あづ』は集まる様を意味し、特に小さいものが集まることを意味し、『さい』は『さあい』の約、接続詞の『さ』と『あい(藍)』の約で、青い小花が集まって咲くことから、この名がつけられたされる。

また、『あぢさゐ(味狭藍)』の意で、『あぢ』はほめ言葉、『さゐ』は青い花とする説もある。

漢字で『紫陽花』と当てたのは、『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』で、著書の源順(みなもとのしたごう)が白居易(はくきょい)の詩に出てくる紫陽花をこの花と勘違いしたことによるとされる。漢名の紫陽花は別の花。花の色が変わるので、『七変化』『八仙花』とも呼ばれる。」

 

 「アジサイ」の「花」は、など検索していくと、どんどん歌から遠ざかってしまう。味わい深い花である。

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「色と大きさで分かる野鳥観察図鑑」 (成美堂出版)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「由来・語源辞典」

★「薬草データブック」 (熊本大学薬学部 薬草園HP)

★「はままつ万葉歌碑・故地マップ」 (制作 浜松市

万葉歌碑を訪ねて(その1524,1525,1526)―静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P13、P14、P15)―万葉集 巻八 一六二三.巻九 一七四二.巻十 一八九五

―その1524―

●歌は、「我がやどにもみつかへるて見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし」である。

 

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P13)にある。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P13)万葉歌碑<プレート>(大伴田村大嬢)

●歌をみていこう。

 

◆吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無

        (大伴田村大嬢 巻八 一六二三)

 

≪書き下し≫我がやどにもみつかへるて見るごとに妹を懸(か)けつつ恋ひぬ日はなし

 

(訳)私の家の庭で色づいているかえでを見るたびに、あなたを心にかけて、恋しく思わない日はありません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)もみつ【紅葉つ・黄葉つ】自動詞:「もみづ」に同じ。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)もみづ 【紅葉づ・黄葉づ】自動詞:紅葉・黄葉する。もみじする。 ※上代は「もみつ」。(学研)

(注)かへるで【蛙手/鶏冠木】:《葉の形が蛙の手に似ているところから》カエデの古名。(goo辞書)

(注)かへで【楓】名詞:①木の名。紅葉が美しく、一般に、「もみぢ」といえばかえでのそれをさす。②葉がかえるの手に似ることから、小児や女子などの小さくかわいい手のたとえ。 ※「かへるで」の変化した語。

(注)大伴田村大嬢 (おほとものたむらのおほいらつめ):大伴宿奈麻呂(すくなまろ)の娘。大伴坂上大嬢(さかのうえのおほいらつめ)は異母妹

 

 題詞は、「大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌二首」<大伴田村大嬢 妹(いもひと)坂上大嬢に与ふる歌二首>である。

(注)いもうと【妹】名詞:①姉。妹。▽年齢の上下に関係なく、男性からその姉妹を呼ぶ語。[反対語] 兄人(せうと)。②兄妹になぞらえて、男性から親しい女性をさして呼ぶ語。

③年下の女のきょうだい。妹。[反対語] 姉。 ※「いもひと」の変化した語。「いもと」とも。(学研)

 

 一六二二歌ならびに同じような題詞の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1013)」で紹介している。

 ➡ 

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「みんなの趣味の園芸(NHK出版HP)」に、「一般にカエデと呼ばれている樹木は、カエデ科カエデ属の、主として北半球の温帯に分布している150種を総称したものです。特に、東アジアを中心に日本に約20種、中国に約30種が分布し、北アメリカ、ヨ-ロッパにまで広がっています。主に落葉高木で切れ込みのある葉をつけていますが、まれに常緑性のものや切れ込みのないものもあります。葉を対生につけるのが特徴です。園芸品種が多く、特にイロハモミジ(イロハカエデともいう。Acer palmatum)、ハウチワカエデ(Acer japonicum)など、日本産の種に属する品種が200~400品種といわれています。園芸の世界では、切れ込みが深く数が多いものをモミジ、浅く少ないものをカエデと呼んでいます。」と書かれている。

 

―その1525―

●歌は、「しなでる片足羽川のさ丹塗りの大橋の上ゆ紅の赤裳裾引き山藍もち摺れる衣着て・・・」である。

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P14)万葉歌碑<プレート>(高橋虫麻呂

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P14)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「見河内大橋獨去娘子歌一首并短歌」<河内(かふち)の大橋を独り行く娘子(をとめ)を見る歌一首并(あは)せて短歌>である。

 

◆級照 片足羽河之 左丹塗 大橋之上従 紅 赤裳數十引 山藍用 摺衣服而 直獨 伊渡為兒者 若草乃 夫香有良武 橿實之 獨歟将宿 問巻乃 欲我妹之 家乃不知久

       (高橋虫麻呂 巻九 一七四二)

 

≪書き下し≫しなでる 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗(ぬ)りの 大橋の上(うへ)ゆ 紅(くれなゐ)の 赤裳(あかも)裾引(すそび)き 山藍(やまあゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て ただひとり い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の ひとりか寝(ぬ)らむ 問(と)はまくの 欲(ほ)しき我妹(わぎも)が 家の知らなく

 

(訳)ここ片足羽川のさ丹塗りの大橋、この橋の上を、紅に染めた美しい裳裾を長く引いて、山藍染めの薄青い着物を着てただ一人渡って行かれる子、あの子は若々しい夫がいる身なのか、それとも、橿の実のように独り夜を過ごす身なのか。妻どいに行きたいかわいい子だけども、どこのお人なのかその家がわからない。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)「しなでる」は片足羽川の「片」にかかる枕詞とされ、どのような意味かは不明です。(「歌の解説と万葉集柏原市HP)

(注)「片足羽川」は「カタアスハガハ」とも読み、ここでは「カタシハガハ」と読んでいます。これを石川と考える説もありますが、通説通りに大和川のことで間違いないようです。(同上)

(注)さにぬり【さ丹塗り】名詞:赤色に塗ること。また、赤く塗ったもの。※「さ」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)くれなゐの【紅の】分類枕詞:紅色が鮮やかなことから「いろ」に、紅色が浅い(=薄い)ことから「あさ」に、紅色は花の汁を移し染めたり、振り出して染めることから「うつし」「ふりいづ」などにかかる。(学研)

(注)やまあい【山藍】:トウダイグサ科多年草。山中の林内に生える。茎は四稜あり、高さ約40センチメートル。葉は対生し、卵状長楕円形。雌雄異株。春から夏、葉腋ようえきに長い花穂をつける。古くは葉を藍染めの染料とした。(コトバンク 三省堂大辞林 第三版)

(注)わかくさの【若草の】分類枕詞:若草がみずみずしいところから、「妻」「夫(つま)」「妹(いも)」「新(にひ)」などにかかる。(学研)

(注)かしのみの【橿の実の】の解説:[枕]樫の実、すなわちどんぐりは一つずつなるところから、「ひとり」「ひとつ」にかかる。(goo辞書)

 

 この歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1033)」で紹介している。

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富士山を詠った歌といえば、有名なのは、山部赤人の次の歌である。

 

◆田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留

      (山辺赤人 巻三 三一八)

 

≪書き下し≫田子(たご)の浦ゆうち出(い)でて見れば真白(ましろ)にぞ富士の高嶺に雪は降りける

 

(訳)田子の浦をうち出て見ると、おお、なんと、真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)うちいづ 【打ち出づ】自動詞:①出る。現れる。②出陣する。出発する。③でしゃばる。 ※「うち」は接頭語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 高橋虫麻呂も富士山の歌を詠っている。(ただし作者に異説もあるが)歌をみてみよう。

 

題詞は、「詠不盡山歌一首 幷短歌」<富士の山を詠(よ)む歌一首 幷せて短歌>である。

 

◆奈麻余美乃 甲斐乃國 打縁流 駿河能國与 己知其智乃 國之三中従 出立有 不盡能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 飛鳥母 翔毛不上 燎火乎 雪以滅 落雪乎 火用消通都 言不得 名不知 霊母 座神香聞 石花海跡 名付而有毛 彼山之 堤有海曽 不盡河跡 人乃渡毛 其山之 水乃當焉 日本之 山跡國乃 鎮十方 座祇可間 寳十方 成有山可聞 駿河有 不盡能高峯者 雖見不飽香聞

       (高橋虫麻呂 巻三 三一九)

 

≪書き下し≫なまよみの 甲斐(かひ)の国 うち寄する 駿河(するが)の国と こちごちの 国のみ中(なか)ゆ 出(い)で立てる 富士の高嶺(たかね)は 天雲(あまくも)も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃(も)ゆる火を 雪もち消(け)ち 降る雪を 火もち消ちつつ 言ひも得(え)ず 名付(なづ)けも知らず くすしくも います神かも せの海と 名付けてあるも その山の 堤(つつ)める海ぞ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちぞ 日(ひ)の本(もと)の 大和(やまと)の国の 鎮(しづ)めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽(あ)かぬかも

 

(訳)甲斐(かい)の国と駿河の国と二つの国の真ん中から聳(そび)え立っている富士の高嶺は、天雲も行き滞り、飛ぶ鳥も高くは飛び上(のぼ)れず、燃える火を雪で消し、降る雪を火で消し続けて、言いようもなく名付けようもしらぬほどに、霊妙にまします神である。せの海と名付けている湖も、その山が塞(せ)きとめた湖だ。富士川といって人の渡る川も、その山からほとばしり落ちた水だ。この山こそは日の本の大和の国の鎮めとしてもまします神である。国の宝ともなっている山である。駿河の富士の高嶺は、見ても見ても見飽きることがない。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)なまよみの 分類枕詞:地名「甲斐(かひ)」にかかる。語義・かかる理由未詳。(学研)

(注)うちよする【打ち寄する】分類枕詞:「うちよする」の「する」と同音であることから、地名「駿河(するが)」にかかる。「うちえする」とも。(学研)

(注)こちごち【此方此方】代名詞:あちこち。そこここ。 ※上代語。(学研)

(注)けつ【消つ】他動詞:①消す。②取り除く。隠す。③圧倒する。無視する。ないものにする。(学研)ここでは①の意

(注)くすし【奇し】[形シク]:① 神秘的である。② 宗教上の禁忌などを固く守るさま。神妙である。③ 一風変わっているさま。(goo辞書)ここでは①の意

(注)せのうみ【剗海】:かつて富士山の北麓にあった湖。貞観6年(864)の大噴火による溶岩流が流入し、現在の西湖、精進湖ができたと考えられている。またこの時の溶岩原の上に森林が形成され、青木ヶ原の樹海になった。(goo辞書)

(注)富士川:今の富士川の源は富士山ではない。が、ここはそのように見たもの。(伊藤脚注)

(注)たぎち【滾ち・激ち】名詞:激流。また、その飛び散るしぶき。(学研)

 

 反歌二首もみてみよう。

 

◆不盡嶺尓 零置雪者 六月 十五日消者 其夜布里家利

       (高橋虫麻呂 巻三 三二〇)

 

≪書き下し≫富士の嶺(ね)に降り置く雪は六月(みなつき)の十五日(もち)に消(け)ぬればその夜(よ)降りけり

 

(訳)富士の嶺(みね)に降り積もっている雪は、六月十五日に消えるとその夜またすぐ降るというが、まったくそのとおりだ。(同上)

(注)六月(みなつき):今の七月から八月初め頃。(伊藤脚注)

(注)十五日(もち):逸文駿河風土記に、雪の消えた十五日の子の刻(十六日午前零時頃)からまた降り出すと伝える。(伊藤脚注)

 

 

◆布士能嶺乎 高見恐見 天雲毛 伊去羽斤 田菜引物緒

       (高橋虫麻呂 巻三 三二一)

 

≪書き下し≫富士の嶺(ね)を高み畏(かしこ)み天雲(あまくも)もい行きはばかりたなびくものを

 

(訳)富士の嶺が高々と聳え恐れ多いので、天空の雲さえも行きためらっているではないか。(同上)

 

左注は、「右一首高橋連蟲麻呂之歌中出焉 以類載此」<右の一首は、高橋連虫麻呂(たかはしむらじむしまろ)が歌の中(うち)に出づ。類(たぐひ)をもちてここに載す>である。

(注)右一首:長歌を中心に三一九から三二一歌をさす。

(注)万葉集の目録には、笠朝臣金村歌集所出の歌としている。

(注)類をもちて:三一七・三一八歌が山部赤人の「富士の山を望(み)る歌」と同類であるので。

 

 富士の山は遠くなりにけり。富士山を見て、関東東歌の世界の万葉歌碑を巡りたいものである。

 

 

 

―その1526―

●歌は、「春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹」である、

静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P15)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、静岡県浜松市浜北区 万葉の森公園(P15)にある。

 

●歌をみていこう。

◆春去 先三枝 幸命在 後相 莫戀吾妹

       (柿本朝臣人麻呂歌集 巻十  一八九五)

 

≪書き下し≫春さればまづさきくさの幸(さき)くあらば後(のち)にも逢はむな恋ひそ我妹(わぎも)

 

(訳)春になると、まっさきに咲くさいぐさの名のように、命さえさいわいであるならば、せめてのちにでも逢うことができよう。そんなに恋い焦がれないでおくれ、お前さん。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)上二句「春去 先三枝」は、「春去 先」が「三枝」を起こし、「春去 先三枝」が、「幸(さきく)」を起こす二重構造になっている。

(注)さきくさ【三枝】:① 茎が三つに分かれている植物。ミツマタジンチョウゲヤマユリ・ミツバゼリ・フクジュソウ、その他諸説がある。② ヒノキの別名。③ オケラ(朮)の別名。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)そ 終助詞:《接続》動詞および助動詞「る」「らる」「す」「さす」「しむ」の連用形に付く。ただし、カ変・サ変動詞には未然形に付く。:①〔穏やかな禁止〕(どうか)…してくれるな。しないでくれ。▽副詞「な」と呼応した「な…そ」の形で。②〔禁止〕…しないでくれ。▽中古末ごろから副詞「な」を伴わず、「…そ」の形で。

参考(1)禁止の終助詞「な」を用いた禁止表現よりも、禁止の副詞「な」と呼応した「な…そ」の方がやわらかく穏やかなニュアンスがある。(2)上代では「な…そね」という形も併存したが、中古では「な…そ」が多用される。(学研)

 

この歌ならびに二重構造の歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その1053)」で紹介している。

 ➡ 

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 「さきくさ」はミツマタ説が一般化しているが、考古学上の観点から上代にはその存在は確認できず疑問が残されている。



 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫)

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

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