万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その1982)―島根県益田市 県立万葉公園(2)―万葉集 巻七 一〇八八

●歌は、「あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる」である。

島根県益田市 県立万葉公園(2)万葉歌碑(柿本人麻呂歌集)

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(2)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引之 山河之瀬之 響苗尓 弓月高 雲立渡

       (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八八)

 

≪書き下し≫あしひきの山川(やまがは)の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立わたる

 

(訳)山川(やまがわ)の瀬音(せおと)が高鳴るとともに、弓月が岳に雲立わたる。(「万葉集二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

(注)なへ(接続助詞):《接続》活用語の連体形に付く。〔事柄の並行した存在・進行〕…するとともに。…するにつれて。…するちょうどそのとき。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その69改)」で紹介している。

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弓月が岳

 「弓月が岳」については、「万葉神事語辞典(國學院大學デジタルミュージアムHP)」に「竜王山、穴師山、巻向山の説があり、『巻向山・三輪山ノ北ニアリ、峯ヲ弓月岳ト称シ長谷山二連ル』(大和志料)とある。『巻向の斎槻が岳』(7-1087)とあることから、巻向山の峰の一つと考えられる。斎槻が岳、由槻が岳とも。川の豊かさと、そこに湧き立つ雲の様子と共に描かれていることから、この地での豊作を予祝する農耕儀礼としての国見歌との見方もある。また、『雲居立てるらし』(7-1087)や『雲立ちわたる』(7-1088)の表現から、『あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天(あま)の白雲 海神(わたつみ)の 沖つ宮邊に 立ち渡り との曇(ぐも)り合ひて 雨も賜はね』(18-4122)、『常世べに雲たちわたる水の江の浦嶋の子が言(こと)持ちわたる』(丹後国風土記)など、雲に雨賜の願いを伝え、また嶋子の言を持ち運ぶ霊力があるという古代信仰が指摘され、神祭りと関係の深い聖水の信仰を深くこめている泉の山と解釈される。ユ(斎)は、清らかな、神聖な、の意。『斎槻』とは、神聖な樹木としての槻の木をめぐる、水と農耕の儀礼と不可分に結びついた観念か。奈良県桜井市の穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社の左社・大兵主神は、元は弓月が嶽に祀られたとある。」と書かれている。

 

穴師坐兵主神社については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その76改)」で紹介している。

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弓月が岳を詠んだ歌

◆痛足河 ゝ浪立奴 巻目之 由槻我高仁 雲居立有良志

        (柿本人麻呂歌集 巻七 一〇八七)

 

≪書き下し≫穴師川(あなしがは)川波立ちぬ巻向(まきむく)の弓月が岳(ゆつきがたけ)に雲居(くもゐ)立てるらし

 

(訳)穴師の川に、今しも川波が立っている。巻向の弓月が岳に雲が湧き起っているらしい。(同上)

 

 

◆玉蜻 夕去来者 佐豆人之 弓月我高荷 霞霏▼

        (柿本人麻呂歌集 巻十 一八一六)

  ▼は「雨かんむり」に「微」である。「霞霏▼」で{かすみたなびく}

 

≪書き下し≫玉かぎる夕(ゆふ)さり来(く)ればさつ人(ひと)の弓月が岳に霞たなびく

 

(訳)玉がほのかに輝くような薄明りの夕暮れになると、猟人(さつひと)の弓、その弓の名を負う弓月が岳に、いっぱい霞がたなびいている。(同上)

(注)たまかぎる【玉かぎる】分類枕詞:玉が淡い光を放つところから、「ほのか」「夕」「日」「はろか」などにかかる。また、「磐垣淵(いはかきふち)」にかかるが、かかり方未詳。(学研)

(注)さつひとの【猟人の】分類枕詞:猟師が弓を持つことから「弓」の同音を含む地名「ゆつき」にかかる。「さつひとの弓月(ゆつき)が嶽(たけ)」 ※「さつひと」は猟師の意。(学研)

 

 

弓月が岳を詠んだ三首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1186)」で紹介している。

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家持の国守としての雨乞いの歌

 先の「万葉神事語辞典(國學院大學デジタルミュージアムHP)」の解説にあった四一二二歌をみてみよう。

 

題詞は、「天平感寶元年閏五月六日以来起小旱百姓田畝稍有凋色也 至于六月朔日忽見雨雲之氣仍作雲歌一首 短歌一絶」<天平感宝(てんぴやうかんぽう)元年の閏の五月の六日より以来(このかた)、小旱(せうかん)を起し、百姓の田畝(でんぽ)やくやくに凋(しぼ)む色あり。六月の朔日(つきたち)に至りて、たちまちに雨雲の気を見る。よりて作る雲の歌一首 短歌一絶>である。

 

◆須賣呂伎能 之伎麻須久尓能 安米能之多 四方能美知尓波 宇麻乃都米 伊都久須伎波美 布奈乃倍能 伊波都流麻泥尓 伊尓之敝欲 伊麻乃乎都頭尓 万調 麻都流都可佐等 都久里多流 曽能奈里波比乎 安米布良受 日能可左奈礼婆 宇恵之田毛 麻吉之波多氣毛 安佐其登尓 之保美可礼由苦 曽乎見礼婆 許己呂乎伊多美 弥騰里兒能 知許布我其登久 安麻都美豆 安布藝弖曽麻都 安之比奇能 夜麻能多乎理尓 許能見油流 安麻能之良久母 和多都美能 於枳都美夜敝尓 多知和多里 等能具毛利安比弖 安米母多麻波祢

       (大伴家持 巻十八 四一二二)

 

≪書き下し≫天皇(すめろき)の 敷きます国の 天(あめ)の下(した) 四方(よも)の道には 馬の爪(つめ) い尽(つく)す極(きは)み 舟舳(ふなのへ)の い果(は)つるまでに いにしへよ 今のをつつに 万調(よろずつき) 奉(まつ)るつかさと 作りたる その生業(なりはひ)を 雨降らず 日の重(かさ)なれば 植ゑし田も 蒔(ま)きし畑(はたけ)も 朝ごとに 凋(しぼ)み枯(か)れゆく そを見れば 心を痛み みどり子の 乳乞(ちこ)ふがごとく 天(あま)つ水 仰(あふ)ぎてぞ待つ あしひきの 山のたをりに この見ゆる 天(あま)の白雲(しらくも) 海神(わたつみ)の 沖つ宮辺(みやへ)に 立ちわたり との曇(ぐも)りあひて 雨も賜はね

 

(訳)代々の天皇のお治めになるこの国土の、天の下の四方に広がる国々にはどこもかしこも、馬の蹄(ひづめ)が減ってなくなる地の果てまで、舟の舳先(へさき)が行きつける海の果てまで、遠く遥かなる古(いにしえ)から今の今までずっと、ありとあらゆる貢物(みつぎもの)を奉るが、その中でも第一の物なのだと、励んで作っているその耕作の生業(なりわい)であるのに、雨も降らず日が重なって行くので、苗を植えた田も種を蒔(ま)いた畑も、朝ごとに凋んで枯れてゆく。それを見ると心が痛んで、幼子(おさなご)が乳を求めるように、天空を振り仰いで恵みの雨を待っている。今しも山の尾根にまざまざと見える天の白雲よ、海神の統(す)べたまう沖の宮のあたりまで立ち広がり、一面にかき曇って、どうか雨をお与え下さい。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)よも【四方】名詞:①東西南北。前後左右。四方(しほう)。②あたり一帯。いたるところ。(学研)

(注の注)四方の道:東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の七道。(伊藤脚注)

(注)い尽す極み:すり減ってなくなる果てまで。(伊藤脚注)

(注)をつつ【現】名詞:今。現在。「をつづ」とも。(学研)

(注の注)今のをつつに:今の今まで。(伊藤脚注)

(注)つかさ【長/首】:①主要な人物。首長。おさ。②主要なもの。(weblio辞書 デジタル大辞泉)ここでは②の意

(注の注)万調奉るつかさと:よろずの貢物を奉る、その第一の物だと思って。(伊藤脚注)

(注)みどりこ【嬰児】名詞:おさなご。乳幼児。 ※後には「みどりご」とも。(学研)

(注)たをり【撓り】名詞:「たわ①」に同じ。(学研)

(注の注)たわ【撓】名詞:山の尾根の、くぼんで低くなっている部分。鞍部(あんぶ)。「たをり」とも。(学研)

(注)とのぐもる【との曇る】自動詞:空一面に曇る。 ※「との」は接頭語。(学研)

 

 

 反歌もみてみよう。

 

◆許能美由流 久毛保妣許里弖 等能具毛理 安米毛布良奴可 己許呂太良比尓

       (大伴家持 巻十八 四一二三)

 

≪書き下し≫この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心(こころ)足(だ)らひに

 

(訳)今しもまざまざと見えるこの雲がはびこって、一面にかき曇り、雨がどっと降ってくれないものか。心ゆくまで。(同上)

(注)ほびこる【蔓=延る】[動ラ四]:いっぱいにひろがる。はびこる。(weblio辞書 デジタル大辞泉

(注)たらふ【足らふ】自動詞:①すべて不足なく備わっている。完全である。②十分に資格が備わる。 ※動詞「たる」の未然形に反復継続の助動詞「ふ」が付いて一語化したもの。(学研)

 

左注は、「右二首六月一日晩頭守大伴宿祢家持作之」<右の二首は、六月の一日の晩頭(ひのぐれ)に、守(かみ)大伴宿禰家持作る>である。

(注)右二首:天皇に代わる国守の任務として雨を乞うた歌。(伊藤脚注)

 

 もう一首、四一二四歌もみてみよう。

 

題詞は、「賀雨落歌一首」<雨落(ふ)るを賀(ほ)ぐ歌一首>である。

 

◆和我保里之 安米波布里伎奴 可久之安良婆 許登安氣世受杼母 登思波佐可延牟

       (大伴家持 巻十八 四一二四)

 

≪書き下し≫我が欲(ほ)りし雨は降り来(き)ぬかくしあらば言挙(ことあ)げせずとも年は栄(さか)えむ

 

(訳)われらが願いに願った雨はとうとう降ってきた。こうなったからには、事々しく言い立てなくても、秋の実りは栄えまさるにちがいない。(同上)

(注)言挙げせずとも:仰々しく言い立てなくても。(伊藤脚注)

 

左注は、「右一首同月四日大伴宿祢家持作」<右の一首は、同じき月の四日に、大伴宿禰家持作る>である。

 

 

雨乞い信仰の弓月が岳

 一〇八七、一〇八八歌に関し、堀内民一氏は、その著「大和万葉―その歌の風土」(創元社)の中で、「この歌は、水の信仰に深い巻向の斎槻が嶽の神に献じたともいうべき、本格的な万葉きっての自然詠である。おそらく柿本人麿の歌と考えてよいだろう。・・・高鳴る山河の瀬の音を耳にした時、人麿の心は、たちわたる斎槻が嶽の雲に、雨を祈った上古大和人への心に動いていただろう。民間の素朴な祈念を歌の上にあらわしたのである。穴師川は斎槻が嶽信仰のための、禊ぎ場だったのである。斎槻が嶽を境にして、東は初瀬領、西は巻向領だ。土地の人はこの山を仰いで、どちらからも、『リョウサン』と呼び、ひでりにはこの山に雲がかかるのを待ちこがれた。巻向山中のいちばん高い五六七・一メートルの山が村人の呼ぶ『リョウサン』で・・・万葉の斎槻が嶽であろう。」と書いておられる。

 さらに、この地の高龗神(たかおかみ)を祀る高龗神社・高山神社・菅原神社等の所在地群にふれ「リョウサン」の雨乞い信仰の根深さについて言及されている。

(注)たかおかみ【高龗】:(「たか(高)」は山峰を意味し、「龗」は水をつかさどる蛇体の神のこと) 「日本書紀」一書に見える神。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)がその子軻遇突智(かぐつち)を斬った時に、雷神・山神とともに出生した神。水をつかさどる神として、闇龗(くらおかみ)とともに、祈雨・止雨の信仰を受けた。たかおかみのかみ。※書紀(720)神代上(兼方本訓)「其の一段は是れ、雷の神と為る。一段は是れ、大山祇(つみ)の神と為る。一段は是れ、高龗(タカヲカミ)と為る」(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

 

 

 

 

 2022年10月12日に県立万葉公園・人麻呂展望広場を訪れているが、同広場の「大和・旅の広場」の二六四歌と一〇八八歌(下記写真の六と九)の歌碑を撮り洩らしていた。今回再度訪れ、前稿と本稿で追加紹介することができたのである。

県立万葉公園・人麻呂展望広場「大和・旅の広場」の人麻呂が大和で詠った歌十三首

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

★「万葉集四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 デジタル大辞泉

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「万葉神事語辞典」 (國學院大學デジタルミュージアムHP)

 

万葉歌碑を訪ねて(その1981)―島根県益田市 県立万葉公園(1)―万葉集 巻三 二六四

●歌は、「もののふの八十宇治川網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも」である。

島根県益田市 県立万葉公園(1)万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、島根県益田市 県立万葉公園(1)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首>である。  

 

◆物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母

         (柿本人麻呂 巻三 二六四)

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)宇治川(うぢがわ)の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも             

 

(訳)もののふの八十氏(うじ)というではないが、宇治川網代木に、しばしとどこおりいさよう波、この波のゆくえのいずかたとも知られぬことよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 (角川ソフィア文庫より)

(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)あじろき【網代木】名詞:「網代①」の網を掛けるための杭(くい)。「あじろぎ」とも。[季語] 冬。(学研)

(注の注)あじろ【網代】名詞:①漁具の一つ。川の流れの中に杭(くい)を立て並べ、竹・木などを細かく編んで魚を通れなくし、その端に、水面に簀(す)を置いて魚がかかるようにしたもの。宇治川などで、冬期、氷魚(ひお)(=鮎(あゆ)の稚魚)を取るのに用いたのが有名。[季語] 冬。 ◇和歌で「宇治」「寄る」の縁語として用いることが多い。②檜皮(ひわだ)・竹・葦(あし)などを薄く削って斜めに編んだもの。垣根・屛風(びようぶ)・天井・車の屋形・笠(かさ)などに用いる。③「あじろぐるま」に同じ。(学研)ここでは①の意

(注)いさよふ【猶予ふ】自動詞:ためらう。たゆたう。 ※鎌倉時代ごろから「いざよふ」。(学研)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その229)」で紹介している。

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益田市西平原町 鎌手公民館→同市高津町 県立万葉公園■

 2022年10月12日に県立万葉公園を訪れているが、帰ってから写してきた歌碑をチェックしてみると人麻呂展望広場の「大和・旅の広場」の二六四歌と一〇八八歌の歌碑を撮り洩らしていることが分かったのである。さらに同公園の「石の広場」の家持の歌碑も見逃していたのであった。

 ありがたいことに全国旅行支援が行われているので、これを利用しリベンジすることができたのである。

 三つともゲットし次の喜河弥町 ふれあい広場に向かった。

 

■二六四歌で詠まれているのは無常感ではない■

 この歌を紹介している拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その229)」において、この歌に関して、「近江荒都の廃墟を見た驚きと深い物思いで、波の行方を見つめている歌である(中西 進 著 『万葉の心』 毎日新聞社)」、また、「人麻呂が近江(おうみ)の国(滋賀県)から上京する際の歌。世の中の無常を詠んだ歌とする説もある(webllio古語辞典 学研全訳古語辞典)」、別冊國文學万葉集必携」の中で、稲岡耕二氏は、「人麻呂は、旅の愁いや喜びを一面的主観的に表現するのでなく、対象と一体化しつつ心の底からゆらぎ出る重厚な調べに託して歌う」というような一般的な解釈に触れている。

 一方、梅原 猛氏は、その著「水底の歌 柿本人麿論 下」(新潮文庫)の中で、「万葉集の歌を一首ずつ切り離して観賞するくせがついているが、私は、こういう観賞法は根本的にまちがっていると思う。」として、巻三 二六三から二六七歌を挙げられ、「私は、この一連の歌は、けっして単独に理解されるべきものではなく、全体として理解されることによって、一連の歴史的事件と、その事件の中なる人間のあり方を歌ったものである―その意味で、万葉集はすでに一種の歌物語である―と思う・・・」と書かれている。そして、人麿が、近江以後、「彼は四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流される。流罪は、中流から遠流へ、そして最後には死へと、だんだん重くなり、高津(たかつ)の沖合で、彼は海の藻くずと消える。」と書かれている。人麻呂は最初は、近江に流されたのであり、その途上の歌という考えをとっておられる。

 二六四歌の「いさよふ波の行く方(へ)知らずも」は、「・・・詠まれているのは、無常観ではない。むしろ、どこへ行くのか分からない、自己の未来にかんする不安感である。」と流人となった人麿の嘆きとされているのである。

 

 二六三から二六七歌をみてみよう。

■二六三歌■

題詞は、「従近江國上来時刑部垂麻呂作歌一首」<近江(あふみ)の国より上(のぼ)り来(く)る時に、刑部垂麻呂(おさかべのたりまろ)が作る歌一首>である。

 

◆馬莫疾 打莫行 氣並而 見弖毛和我歸 志賀尓安良七國

       (刑部垂麻呂 巻三 二六三)

 

≪書き下し≫馬ないたく打(う)ちてな行きそ日(け)ならべて見ても我(わ)が行く志賀(しが)にあらなくに

 

(訳)これ、馬をそんなにひどく鞭(むち)打たないでおくれ、先に行かせないでおくれ。幾日もかけて見てゆける志賀の浦ではないのだから。(同上)

(注)上二句、禁止のナ・・・ソを重ねて意を強めている。(伊藤脚注)

(注)三句以下、幾日もかけてゆっくり眺められない嘆き。(伊藤脚注)

 

■二六四歌■

題詞は、「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首>である。  

 

◆物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母

         (柿本人麻呂 巻三 二六四)

 

≪書き下し≫もののふの八十(やそ)宇治川(うぢがわ)の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも            

 

(訳)もののふの八十氏(うじ)というではないが、宇治川網代木に、しばしとどこおりいさよう波、この波のゆくえのいずかたとも知られぬことよ。(同上)

 

 

■二六五歌■

題詞は、「長忌寸奥麻呂歌一首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌一首である>

 

◆苦毛 零来雨可 神之崎 狭野乃渡尓 古所念

            (長忌寸意吉麻呂 巻三 二六五)

 

≪書き下し≫苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに

 

(訳)何とも心せつなく降ってくる雨であることか。三輪の崎の佐野の渡し場に、くつろげる我が家があるわけでもないのに。(同上)

 

 

■二六六歌■

題詞は、「柿本朝臣人麻呂歌一首」<柿本朝臣人麻呂が歌一首>である。

 

◆淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尓 古所念

     (柿本人麻呂    巻三 二六六)

 

≪書き下し≫近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

 

(訳)近江の海、この海の夕波千鳥よ、お前がそんなに鳴くと、心も撓(たわ)み萎(な)えて、いにしえのことが偲ばれてならぬ。(同上)

(注)ゆふなみちどり【夕波千鳥】名詞:夕方に打ち寄せる波の上を群れ飛ぶちどり。(w学研)

(注)しのに 副詞:①しっとりとなびいて。しおれて。②しんみりと。しみじみと。

③しげく。しきりに。(学研)ここでは②の意

(注)いにしへ:ここでは、天智天皇の近江京の昔のこと

 

■二六七歌■

題詞は、「志貴皇子御歌一首」<志貴皇子の御歌一首>である。

 

◆牟佐ゝ婢波 木末求跡 足日木乃 山能佐都雄尓 相尓来鴨

      (志貴皇子 巻三 二六七)

 

≪書き下し≫むささびは木末(こぬれ)求(もと)むとあしひきの山のさつ男(を)にあひにけるかも

 

(訳)巣から追い出されたむささびは、梢(こずえ)を求めて幹を駆け登ろうとして、あしひきの山の猟師に捕えられてしまった。(同上)

(注)さつを(猟夫):猟師

 

 

 確かに、歌を並べてみてみるとストーリーが浮かび上がってくる。

 二六三歌の「馬疾 打行」の「二重の禁止の辞を含んだはじめの言葉は、ただごとではないのである。それは、強い否定的意志を物語っている。刑部垂麿(生没年未詳)は、柿本人麿の家来ではなかったかと思うが、この歌のように、できるだけ志賀行きをおくらせることが、せめてもの彼の抵抗の姿勢であったと思う。・・・この刑部垂麿の歌についで人麿の歌があることは意味深い。この歌も先の歌と同じく、詞書をはずして考えたほうがよいと思う。・・・ここで詠まれているのは無常感ではない。むしろ、どこへいくのか分からない、自己の未来にかんする不安感である。・・・人麿が・・・流人となったと考えると、このような人麿の嘆きはよく理解され、今まで名歌とされながら、その意味の定かでなかったこの歌は、はじめて生き生きとしてくるのである。人麿は、網代木に漂う流れの中に、しばし、流罪の身を近江に止(とど)める己れの運命をみていたのである。」(梅原前出書)

 人麿は、「政治的関心を、全く欠いた詩人ではなかったと思う。彼は、天武―持統時代の天皇親政のイデオロギーへの執着を強くもっていたばかりか、実際、宮廷である種の政治的策謀を行ったのではなかったかと思う。」(同前出書)

 そして、近江以後、四国の狭岑島(さみねのしま)、そして最後には石見の鴨島(かもしま)へ流され、そして待っているのは死である。高津(たかつ)の沖合で、海の藻くずと消されたのである。

 

 二六七歌の「むささび」は、柿本人麻呂をさしている。

 万葉集は、時の権力側からみれば反逆者である、有間皇子大津皇子らの歌も収録している。その意味では柿本人麻呂もしかりとなる。奥深い万葉集

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「水底の歌 柿本人麿論 下」 梅原 猛 著 (新潮文庫

★「万葉の心」 中西 進 著  (毎日新聞社

★「別冊國文学 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「weblio辞典 学研全訳古語辞典」

万葉歌碑を訪ねて(その1980)―島根県益田市西平原町 鎌手公民館―万葉集 巻十四 三四四四

●歌は、「伎波都久の岡の茎韮我れ摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね」である。

島根県益田市西平原町 鎌手公民館万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、島根県益田市西平原町 鎌手公民館にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆伎波都久乃 乎加能久君美良 和礼都賣杼 故尓毛美多奈布 西奈等都麻佐祢

        (作者未詳 巻十四 三四四四)

 

≪書き下し≫伎波都久(きはつく)の岡(おか)の茎韮(くくみら)我(わ)れ摘めど籠(こ)にも満(み)たなふ背(せ)なと摘まさね

 

(訳)伎波都久(きわつく)の岡(おか)の茎韮(くくみら)、この韮(にら)を私はせっせと摘むんだけれど、ちっとも籠(かご)にいっぱいにならないわ。それじゃあ、あんたのいい人とお摘みなさいな。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)茎韮(くくみら):《「くく」は茎、「みら」はニラの意》ニラの花茎が伸びたもの。(コトバンク デジタル大辞泉

(注の注)みら(韮):ユリ科のニラの古名。コミラ、フタモジの異名もある。中国の南西部が原産地。昔から滋養分の多い強精食品として知られる。(「植物で見る万葉の世界」 万葉の花の会発行)

(注)なふ 助動詞特殊型《接続》動詞の未然形に付く:〔打消〕…ない。…ぬ。 ◆※上代の東国方言。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

 上四句と結句が二人の女が唱和する形になっている。韮摘みの歌と思われる。             

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1182)」で紹介している。

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島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社→益田市西平原町 鎌手公民館■

 浜田自動車道を使っても途中で休憩をはさんだりしたので2時間ほどかかってしまった。鎌手公民館は国道9号線から少し入ったところにあり、歌碑は駐車場の手前にあった。

 

 歌碑の解説案内文には、「鎌手山あたりは人麿の時代には伎波都久の岡と呼ばれていたという。江戸時代の有名な地誌「石見八重葎」には石見名所三十六か所の一つとしてこれを紹介している。・・・石見八重葎及び石見岡名所和歌集成によると、この歌は柿本人麿が作るとなっている。万葉集四千五百首のうち石見で歌われたものの数は少ない。人麿にあやかって、今一首伎波都久の秀歌を世に紹介できることはこの里に住むものの大きい喜びである。」と書かれている。

歌の解説案内板

 

 解説案内文にある「石見八重葎(いわみやえむぐら)」と「石見国名所和歌集成」を調べてみた。

 「レファレンス協同データベース」を検索してみると、「石見八重葎(いわみやえむぐら)』の著者である石田初右衛門について知りたい。」という質問に対し、「当館所蔵資料より、下記の資料を紹介し回答。」とあり、「資料1:解説に『石田初右衛門』あり。1757(宝暦7)-1826(文政9)。石見国那賀郡太田村(現・江津市)の生まれ。春律(はるのり)、江川堂澗水と号す。農事指導者、実学者。農業の傍ら桜谷たたら(製鉄)を経営した。庄屋の時に天明の大飢饉が起こり、難民救済のため開墾、甘藷栽培法を研究し村民を指導するなどした。篤学の人で、実地の見聞や体験に基づき独力で『石見八重葎』や『石見名所図会』など多数の著書を執筆した。井戸平左衛門、青木秀清とともに甘藷の三大恩人とされる。」と書かれている。そして、この「資料1については、『資料1】石見地方未刊資料刊行会 編 , 工通忠孝 , 石見地方未刊資料刊行会 , 工通忠孝. 角さ経石見八重葎. 石見地方未刊資料刊行会, 1999.』」とある。従って、「石見八重葎」に柿本人麿作と書かれておりそれを元に「石見国名所和歌集成」が紹介したともの思われる。

 

 この歌は、巻十四にあり、「東歌」である。巻十四で「柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ」と書かれている歌は、三四一七、三四七〇、三四八一、三四九〇歌の四首である。三四四一歌では、左注に「柿本朝臣人麻呂が歌集には『遠くして』といふ。また『歩め黒駒』といふ。」とあり、「類歌」である旨注釈がついているので、柿本人麻呂歌集にあって巻十四に収録されたのは四首である。

 

 地名「伎波都久」について記載されたものとしては、和田明美氏の「『万葉集』東歌の地名と地名表象」(core.ac.uk)があり、その中で、国推定地としながらも「常陸国」として挙げておられる。

 

 「島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 『柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭』」という同公園管理センター発行のパンフレットに、「益田の人々は歌聖柿本朝臣人麻呂のことを『人丸さん』と呼んでいます。人麻呂が益田(戸田の里)で生まれ育ち、宮廷歌人として和歌の道を極め、晩年益田川の河口に沈む鴨島で亡くなったと伝えられていることから、敬愛を込めて『人丸さん』と呼ばれるようになったと推察されます。(後略)」と書かれているが、いまだにこの地では親しみを込めて接していることがわかる。同パンフレットにもこの「鎌手公民館歌碑」が紹介されている。

 地元の強い思いが伝わってくる歌碑であり歌の解説案内文である。

 

 

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 (國學院大學万葉の花の会発行)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク デジタル大辞泉

★「『万葉集』東歌の地名と地名表象」 和田明美氏稿 (CORE.AC.UK)

★「レファレンス協同データベース」

★「島根県立万葉公園 人麻呂展望広場 『柿本人麻呂の歌の世界にふれる庭』(パンフレット)」 (島根県立万葉公園管理センター発行)

★「鎌手公民館 歌の解説案内板」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1979)―島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社―万葉集 巻三 三五五

●歌は、「大汝少彦名のいましけむ志都の石室は幾代経ぬらむ」である。

島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社万葉歌碑(生石村主真人)

●歌碑は、島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經

      (生石村主真人 巻三 三五五)

 

≪書き下し≫大汝(おおなむち)少彦名(すくなびこな)のいましけむ志都(しつ)の石室(いはや)は幾代(いくよ)経(へ)ぬらむ

 

(訳)大国主命(おおくにぬしのみこと)や少彦名命が住んでおいでになったという志都の岩屋は、いったいどのくらいの年代を経ているのであろうか。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)おおあなむちのみこと【大己貴命】:「日本書紀」が設定した国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされる。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見する。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされた。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。(コトバンク 精選版 日本国語大辞典

(注)少彦名命 すくなひこなのみこと:記・紀にみえる神。「日本書紀」では高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の子、「古事記」では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子。常世(とこよ)の国からおとずれるちいさな神。大国主神(おおくにぬしのかみ)と協力して国作りをしたという。「風土記」や「万葉集」にもみえる。穀霊,酒造りの神,医薬の神,温泉の神として信仰された。「古事記」では少名毘古那神(すくなびこなのかみ)。(コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)志都の石室:島根県大田市静間町の海岸の岩窟かという。(伊藤脚注)

 

 

歌碑と副碑

 

■■島根県山口県の万葉歌碑めぐりの2日目(11月9日)の旅程は、次の通りである。

≪旅程≫益田市内ホテル→島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社→益田市高津町 県立万葉公園→同市西平原町 鎌手公民館→同市喜河弥町 ふれあい広場→下関市ホテル

 

益田市内ホテル→島根県邑智郡邑南町 志都岩屋神社■

 「島根県西部公式観光サイト なつかしの国石見」に、「志都の岩屋(しづのいわや)」は、知る人ぞ知る隠れパワースポットと書かれ、さらに「本殿裏から弥山頂上にかけての巨岩や奇岩が迫るその景観は、自然の作り出した貴重な文化財として昭和54年に島根県指定の『天然記念物及び名勝』に指定を受けた。神殿の後ろにある『鏡岩』は御神体ともいわれ、別名『願かけ石』とも呼ばれ、岩表面の小さな穴に紙縒(こより)を通して結ぶと願いが叶うと言われている。神社の周りは秋の紅葉も見応えあり」と書かれている。

ご神体「鏡岩」

 益田市内から片道約2時間のドライブ。予定の倍の時間となってしまった。

途中の山道は霧が立ちこめているので、思うようにスピードを上げて進めない。ようやく到着。シーンと静まり返り、なんともいえない神秘的な雰囲気の漂う神社である。

社殿(背後に「鏡岩」)

 社殿裏の「鏡岩」と呼ばれる巨岩には驚かされる。万葉歌碑は本殿左手に立てられている。扁額や古びた大型の絵馬などに見とれる。もっとゆっくり探索したいが、今日は、山口県下関市にホテルを取っているので早々に切り上げる。

扁額

岩屋図絵

志都岩屋神社案内立て看板(少し靄っている)

「志都の岩屋」碑



 

 

 

■■志都(しつ)の石室(いはや)について■■

「志都の石室」については、「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」によると、①生石神社の石乃宝殿(兵庫県高砂市)、②静之窟(島根県大田市) - 平田篤胤の『古史伝』はこの地であると比定する、③志都岩屋神社の岩屋(島根県邑南町) - 本居宣長の『玉勝間』はこの地であると比定する、と3か所が挙げられている。

これ以外でも、④鳥取県米子市彦名町の粟嶋神社他にもある。

 

■①生石神社の石乃宝殿(兵庫県高砂市)■

 このうち①の生石(おうしこ)神社の石乃宝殿(兵庫県高砂市)は、残念ながら行ったことがない。

高砂市観光交流ビューロー」HPによると、「生石神社の裏手に、切妻風の突起を後ろにして家を横たえたような横6.5m、高さ5.6m、奥行7.5mの巨大な石造物があります。『石の宝殿』と呼ばれ、水面に浮かんでいるように見えることから『浮石』ともいわれていますが、多くの謎につつまれ、仙台塩釜神社の塩釜、宮崎県霧島神社の天逆鉾と並んで日本三奇の一つに数えられています。いつ、誰が、何のために作ったのか、不思議な石造物として訪れた人の目を驚かせています。」と書かれている。

高砂市観光交流ビューロー パワーストーン竜山石」より引用させていただきました。

 これはこれで一度は行ってみたいものである。

 

 三五五歌は生石村主真人(おひしのすぐりまひと)の作とあるので生石神社に祀られているのかと同神社のHPをのぞいてみたが、「神代の昔、大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が、天津神の命を受けて出雲国より播磨国に来られた時に、二神が相談し国土を鎮めるに相応しい石造りの宮殿を建てようとしました。一夜のうちに現在の形まで造ったが、・・・反乱が起こり、・・・鎮圧している間に夜が明けてしまい、宮殿は横倒しのまま起こすことができませんでした。しかし二神は、宮殿が未完成でも二神の霊はこの石に籠り、永劫に国土を鎮めんと言明されました。以来この宮殿は石宝殿(いしのほうでん)、鎮の岩室(しずのいわや)と言われるようになりました。・・・生石神社では、大穴牟遅命と少毘古那命の二神を御祭神としています。」と書かれており、生石村主真人につては何も触れられていなかった。「生石」何かひっかかる。今後のテーマである。

 

 

■②静之窟(島根県大田市)■

「しまね観光ナビHP」によると、静之窟(しずのいわや)は、「静間川河口の西、静間町魚津海岸にある洞窟です。波浪の浸食作用によってできた大きな海食洞で、奥行45m、高さ13m、海岸に面した二つの入口をもっています。『万葉集』の巻三に『大なむち、少彦名のいましけむ、志都(しず)の岩室(いわや)は幾代経ぬらむ』(生石村主真人:おおしのすぐりまひと)と歌われ、大巳貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)2神が、国土経営の際に仮宮とされた志都の石室はこの洞窟といわれています。洞窟の奥には、大正4年(1915)に建てられた万葉歌碑があります。現在崩落により、立入禁止となっています。」と書かれている。

 

②の静之窟(島根県大田市)については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1342)」で紹介している。

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■③志都岩屋神社の岩屋(島根県邑南町)■

本稿で紹介

 

■④鳥取県米子市彦名町の粟嶋神社

粟嶋神社に伝わる「八百比丘尼(やおびくに)の伝説」が伝わる洞穴は「静の岩屋」とも言われている。

 粟嶋神社については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1961)」で紹介している。

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 万葉歌碑めぐりのおかげで、新たな課題が提示され探求心がくすぐられる。少しでも新たな課題への挑戦を続けていきたいものである。

 

鳥居

社殿正面

 

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio辞書 学研全訳古語辞典」

★「コトバンク 精選版 日本国語大辞典

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「weblio辞書 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』」

★「島根県西部公式観光サイトHP」

★「高砂市観光交流ビューローHP」

★「しまね観光ナビHP」

万葉歌碑を訪ねて(その1975、1976、1977、1978)―島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(13~16)―万葉集 巻十 二三一五、巻十一 二四七五、巻十八 四一三六、巻十九 四一三九

―その1975―

●歌は、「あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(13)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(13)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆足引 山道不知 白牫牱 枝母等乎ゞ乎 雪落者  或云 枝毛多和ゝゝ

      (柿本人麻呂歌集 巻十 二三一五)

 

 ≪書き下し≫あしひきの山道(やまぢ)も知らず白橿(しらかし)の枝もとををに雪の降れれば  或いは「枝もたわたわ」といふ

 

(訳)あしひきの山道のありかさえもわからない。白橿の枝も撓(たわ)むほどに雪が降り積もっているので。<枝もたわわに>(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)とををなり【撓なり】形容動詞:たわみしなっている。(学研)

(注)たわたわ【撓 撓】( 形動ナリ ):たわみしなうさま。(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

 

 左注は、「右柿本朝臣人麻呂之歌集出也 但件一首 或本云三方沙弥作」<右は、柿本朝臣人麻呂が歌集に出づ。ただし、件(くだり)の一首は、或本には「三方沙弥(みかたのさみ)が作」といふ>である。

(注)件(くだり)の一首は、二三一五歌をさしている。(伊藤脚注)

 

 この歌ならびに左注にある「三方沙弥」の全歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その198)」で紹介している。

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―その1976―

●歌は、「我がやどは甍しだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(14)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(14)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生

        (作者未詳 巻十一 二四七五)

 

≪書き下し≫我がやどは甍(いらか)しだ草生(お)ひたれど恋忘(こひわす)れ草見れどいまだ生(お)ひず

 

(訳)我が家の庭はというと、軒のしだ草はいっぱい生えているけれど、肝心の恋忘れ草はいくら見てもまだ生えていない。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)しだ草:のきしのぶか。(伊藤脚注)

(注の注)「『しだくさ』は、羊歯(シダ)植物の一種と考えられており『甍(イラカ)しだ草』又『軒(ノキ)のしだ草』と歌中に詠まれている。軒の下に生えることが名の由来になって『軒忍(ノキシノブ)』が定説になっているが、他説に『下草(したくさ)』と読み『裏白(ウラジロ)』とする説もある。」(春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板)

 「しだ草」を詠んだのは万葉集ではこの一首だけである。

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1082)」で紹介している。

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 四句目に「恋忘れ草」とあるが、「忘れ草」は、五首が収録されている。 

「忘れ草」を詠った歌についてはブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その334)」で紹介している。

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―その1977―

●歌は、「あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(15)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(15)である。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「天平勝寶二年正月二日於國廳給饗諸郡司等宴歌歌一首」<天平勝寶(てんびやうしようほう)二年の正月の二日に、国庁(こくちょう)にして饗(あへ)を諸(もろもろ)の郡司(ぐんし)等(ら)に給ふ宴の歌一首>である。

(注)天平勝寶二年:750年

(注)国守は天皇に代わって、正月に国司、群詞を饗する習い。(伊藤脚注)

(注の注)律令では、元日に国司は同僚・属官や郡司らをひきつれて庁(都の政庁または国庁)に向かって朝拝することになっており、翌日に、新年を寿ぐ宴が開かれたのである。

 

◆安之比奇能 夜麻能許奴礼能 保与等里天 可射之都良久波 知等世保久等曽

       (大伴家持 巻十八 四一三六)

 

≪書き下し≫あしひきの山の木末(こぬれ)のほよ取りてかざしつらくは千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ

 

(訳)山の木々の梢(こずえ)に一面生い栄えるほよを取って挿頭(かざし)にしているのは、千年もの長寿を願ってのことであるぞ。「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より

(注)ほよ>ほや【寄生】名詞:寄生植物の「やどりぎ」の別名。「ほよ」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)この歌のように、「ほよ」を頭に挿して千年を祈るということから、古代において「ほよ」は永遠の生命力を約束してくれるという信仰が存在していたと考えられる。驚くことに、おのような「ほよ(やどりぎ)」信仰は世界的にも存在していたということである。

 

左注は、「右一首守大伴宿祢家持作」<右の一首は、守大伴宿禰家持作る>である。

 

 この歌については、高岡市伏木古国府勝興寺越中国庁碑の背面に刻された歌とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その822)」で紹介している。

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 家持が、因幡国守として天平宝字三年(759年)の正月の歌、万葉集の最終歌(四五一六歌)については、同(その1953)で紹介している。

 ➡ 

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20211026平城宮跡歴史公園にて撮影

 

 

―その1978―

●歌は、「春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(16)万葉歌碑<プレート>(大伴家持

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(16)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆春苑 紅尓保布 桃花 下照道尓 出立▼嬬

       (大伴家持 巻十九  四一三九)

     ※▼は、「女」+「感」、「『女』+『感』+嬬」=「をとめ」

 

≪書き下し≫春の園(その)紅(くれなゐ)にほふ桃の花下照(したで)る道に出で立つ娘子(をとめ)

 

(訳)春の園、園一面に紅く照り映えている桃の花、この花の樹の下まで照り輝く道に、つと出で立つ娘子(おとめ)よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)この歌は、桃花の咲く月に入ってその盛りを幻想した歌か。春園・桃花・娘子の配置は中国詩の影響らしい。(伊藤脚注)

 

 題詞は、「天平勝宝二年の三月の一日の暮(ゆうへ)に、春苑(しゆんゑん)の桃李(たうり)の花を眺矚(なが)めて作る歌二首」である。

 

この歌は、巻十九の巻頭歌である。 

 

 この歌については、高岡市伏木一宮 高岡市万葉歴史館入口の家持と大嬢のブロンズ像とともに拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その825)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學[万葉の花の会]発行

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「春日大社神苑萬葉植物園・植物説明板」

万葉歌碑を訪ねて(その1972、1973、1974)―島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(10、11、12)―万葉集 巻八 一六二三、巻十 一八一三、巻十 一八一四

―その1972―

●歌は、「我がやどにもみつかへるて見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(10)万葉歌碑<プレート>(大伴田村大嬢)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(10)にある。

 

●歌をみていこう。

 

題詞は、「大伴田村大嬢与妹坂上大嬢歌二首」<大伴田村大嬢 妹(いもひと)坂上大嬢に与ふる歌二首>である。

(注)いもうと【妹】名詞:①姉。妹。▽年齢の上下に関係なく、男性からその姉妹を呼ぶ語。[反対語] 兄人(せうと)。②兄妹になぞらえて、男性から親しい女性をさして呼ぶ語。

③年下の女のきょうだい。妹。[反対語] 姉。 ※「いもひと」の変化した語。「いもと」とも。(学研)

(注)(注)大伴田村大嬢 (おほとものたむらのおほいらつめ):大伴宿奈麻呂(すくなまろ)の娘。大伴坂上大嬢(さかのうえのおほいらつめ)は異母妹

 

◆吾屋戸尓 黄變蝦手 毎見 妹乎懸管 不戀日者無

       (大伴田村大嬢 巻八 一六二三)

 

≪書き下し≫我がやどにもみつかへるて見るごとに妹を懸(か)けつつ恋ひぬ日はなし

 

(訳)私の家の庭で色づいているかえでを見るたびに、あなたを心にかけて、恋しく思わない日はありません。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)もみつ【紅葉つ・黄葉つ】自動詞:「もみづ」に同じ。※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)かへで【楓】名詞:①木の名。紅葉が美しく、一般に、「もみぢ」といえばかえでのそれをさす。②葉がかえるの手に似ることから、小児や女子などの小さくかわいい手のたとえ。 ※「かへるで」の変化した語。(学研)

(注)かく【懸く・掛く】他動詞:①垂れ下げる。かける。もたれさせる。②かけ渡す。③(扉に)錠をおろす。掛け金をかける。④合わせる。兼任する。兼ねる。⑤かぶせる。かける。⑥降りかける。あびせかける。⑦はかり比べる。対比する。⑧待ち望む。⑨(心や目に)かける。⑩話しかける。口にする。⑪託する。預ける。かける。⑫だます。⑬目標にする。目ざす。⑭関係づける。加える。(学研)ここでは⑨の意

 

 この歌ならびに同じような題詞の歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1013)」で紹介している」。

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「かへるで」を詠んだ歌は、一六二三歌以外では三四九四歌のみである。

こちらもみておこう。

 

◆兒毛知夜麻 和可加敝流弖能 毛美都麻弖 宿毛等和波毛布 汝波安杼可毛布

       (作者未詳 巻十四 三四九四)

 

≪書き下し≫児毛知山(こもちやま)若(わか)かへるでのもみつまで寝(ね)もと我(わ)は思(も)ふ汝(な)はあどか思ふ

 

(訳)児毛知山、この山の楓の若葉がもみじするまで、ずっと寝たいと俺は思う。お前さんはどう思うかね。

(注)寝も:「寝む」の東国形(伊藤脚注)

(注)あど<副詞>どのように。どうして。※「など」の上代の東国方言か。(学研)

 

三四九四歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その938)」で「東歌」にも触れて紹介している。

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―その1973―

●歌は、「巻向の檜原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(11)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(11)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆巻向之 檜原丹立流 春霞 欝之思者 名積米八方

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八一三)

 

≪書き下し≫巻向(まきむく)の檜原(ひはら)に立てる春霞(はるかすみ)おほにし思はばなづみ來(こ)めやも

 

(訳)この巻向の檜原にぼんやりと立ち込めている春霞、その春霞のように、この地をなおざりに思うのであったら、何で歩きにくい道をこんなに苦労してまでやって来るものか。(同上)

(注)上三句は実景の序。「おほに」を起こす。(伊藤脚注)

(注)おほなり【凡なり】形容動詞:①いい加減だ。おろそかだ。②ひととおりだ。平凡だ。※「おぼなり」とも。上代語。(学研)

(注)なづむ【泥む】自動詞:①行き悩む。停滞する。②悩み苦しむ。③こだわる。気にする。(学研)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち:推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 この歌とともに「檜原」が詠まれた六首、「檜乃嬬手」「檜山」「檜橋」の形での三首についても拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1124)」で紹介している。

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―その1974―

●歌は、「いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(12)万葉歌碑<プレート>(柿本人麻呂歌集)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(12)にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆古 人之殖兼 杉枝 霞霏▼ 春者来良之

       (柿本人麻呂歌集 巻十 一八一四)

   ※ ▼は、「雨かんむり+微」である。「霏▼」で「たなびく」と読む。

 

≪書き下し≫いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞(かすみ)たなびく春は来(き)ぬらし

 

(訳)遠く古い世の人が植えて育てたという、この杉木立(こだち)の枝に霞がたなびいている。たしかにもう春はやってきたらしい。(同上)

 

 一八一二から一八一八歌は、巻十の巻頭歌群である。部立「春雑歌」に収録されている「柿本人麻呂歌集」の歌である。

 この歌群」は、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1785)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

万葉歌碑を訪ねて(その1969、1970、1971)―島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(7、8、9)―万葉集 巻七 一三三〇、巻七 一三六一、巻八 一四一八

―その1969―

●歌は、「南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(7)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(7)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆南淵之 細川山 立檀 弓束纒及 人二不所知

       (作者未詳 巻七 一三三〇)

 

≪書き下し≫南淵(みなぶち)の細川山(ほそかはやま)に立つ檀(まゆみ)弓束(ゆづか)巻くまで人に知らえじ

 

(訳)南淵の細川山に立っている檀(まゆみ)の木よ、お前を弓に仕上げて弓束を巻くまで、人に知られたくないものだ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

(注)細川山:奈良県明日香村稲渕の細川に臨む山。(伊藤脚注)

(注)檀:目をつけた女の譬え。(伊藤脚注)

(注)ゆつか【弓柄・弓束】名詞:矢を射るとき、左手で握る弓の中ほどより少し下の部分。また、そこに巻く皮や布など。「ゆづか」とも。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注の注)弓束巻く:弓を握る部分に桜皮や革を巻きつけること。契りを結ぶ意。(伊藤脚注)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1018)」で、「南淵の細川山」近辺の明日香村阪田坂田寺跡・飛鳥稲渕宮殿跡・稲渕飛石・飛鳥川玉藻橋の歌碑とともに紹介している。

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 「弓束」を詠った歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1250)」で紹介している。

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 檀・真弓と詠われた歌は十二首であるが、その内「白真弓」は六首である。この六首については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1931)」で紹介している。

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―その1970―

●歌は、「住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(8)万葉歌碑<プレート>(作者未詳)

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(8)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆墨吉之 淺澤小野之 垣津幡 衣尓揩著 将衣日不知毛

        (作者未詳 巻七 一三六一)

 

≪書き下し≫住吉(すみのえ)の浅沢小野(あささはをの)のかきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付け着む日知らずも

 

(訳)住吉の浅沢小野に咲くかきつばた、あのかきつばたの花を。私の衣の摺染めにしてそれを身に付ける日は、いったいいつのことなのやら。(同上)

(注)浅沢小野:住吉大社東南方の低湿地。(伊藤脚注)

(注)かきつはた:年ごろの女の譬え(伊藤脚注)

(注)「着る」は我が妻とする意。(伊藤脚注)

(注)「着む日」:「着+む」。「着るの未然形」+助動詞「む(推量)の終止形」→身に付ける日

(注の注)む 助動詞《接続》活用語の未然形に付く。:①〔推量〕…だろう。…う。②〔意志〕…(し)よう。…(する)つもりだ。③〔仮定・婉曲(えんきよく)〕…としたら、その…。…のような。▽主として連体形の用法。④〔適当・勧誘〕…するのがよい。…したらどうだ。…であるはずだ。 ⇒語法:(1)未然形の「ま」 未然形の「ま」は上代に限られ、接尾語「く」が付いた「まく」の形で用いられた。⇒まく(2)已然形の「め」 [ア] 已然形「め」が「めかも」「めや」「めやも」などの形で用いられるのは主に上代に限られ、その「か」「や」は反語の意を表した。[イ] 係助詞「こそ」の結びの語となって「こそ…め」の形となるときは、適当・勧誘の意(④)を表すことが多い。しかし、②の『伊勢物語』のような例外もある。(3)「む」「らむ」「けむ」の比較 ⇒注意:主語が一人称の場合は②の意に、二人称の場合は④の意に、三人称の場合には①の意になることが多い。 ⇒参考:中世以降は、「ん」と表記する。(学研)ここでは①の意

 

 「着む日」を詠んだ歌をみてみよう。

◆垣津旗 開沼之菅乎 笠尓縫 将著日乎待尓 年曽経去来

      (作者未詳 巻十一 二八一八)

 

≪書き下し≫かきつはた佐紀沼(さきぬ)の菅(すげ)を笠(かさ)に縫(ぬ)ひ着む日を待つに年ぞ経(へ)にける

 

(訳)かきつばたが美しく咲くという、その佐紀沼の菅を笠に縫い上げて、身に着ける日をいつのことかと待っているうちに、年が経ってしまった。(同上)

(注)かきつはた:「佐紀沼」の枕詞。(伊藤脚注)

(注)佐紀沼:奈良市佐紀町の沼か。

(注)着む日:女を妻と定めて結婚する日。(伊藤脚注)

 

 

一三六一歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その794-6)」で紹介している。

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―その1971―

●歌は、「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」である。

島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(9)万葉歌碑<プレート>(志貴皇子

●歌碑(プレート)は、島根県松江市東出雲町 面足山万葉公園(9)である。

 

●歌をみていこう。

 

この歌は、万葉集巻八の巻頭歌である。

 

 題詞は、「志貴皇子懽御歌一首」<志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌一首>である。

 

◆石激 垂見之上野 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

         (志貴皇子 巻八 一四一八)

 

≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うえ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも

 

(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ(同上)

 

 この歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1216)」で紹介している。

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 この歌ならびに巻頭歌については、拙稿ブログ「万葉歌碑を訪ねて(その1950)」で紹介している。

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(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」