2025-09-01から1ヶ月間の記事一覧
【対馬の遊女の場合】 「天平八年(七三六)に、新羅に行く使節に任命された人びとがいた。彼らは『遣新羅使人(けんしらぎしじん)』と呼ばれる人びとであった。その旅路は、想像を絶する苦難をともない・・・暴風雨など、天候にも恵まれず、天然痘禍にも苦…
第四章 京と地方をつなぐ文学 【第三章のまとめ】 「『万葉集』には、律令官人の文学としての側面を見ることができるのである。」(「『万葉集講義』最古の歌集の素顔」 上野 誠著 中公新書より) 【大伴旅人と遊女・児島】 「大納言となった大伴旅人の送別…
【律令官人の倫理規範】 「律令官人たちは、儒教的な倫理に裏打ちされた規範意識というものを持っていて、任地の選(え)り好みなどはしてはいけないものとされていた。・・・ (巻六の九五五)(同 九五六)(いずれも歌は省略) まず、大宰少弐(だざいの…
【すねた気分の別れ歌】 「すねた気分の見送り歌を、例として一つ挙げてみる・・・題詞は『藤原宇合大夫(ふじはらのうまかひだいぶ)、遷任(せんにん)して京(みやこ)に上(のぼ)る時に、常陸娘子(ひたちのをとめ)が贈る歌一首』である。 (巻四の五…
【大伴旅人の送別宴】 「大伴旅人は、国司として筑紫の大宰府に赴いていたが、天平二年(七三〇)十月一日に大納言に任命されて、平城京に帰任することとなった。その送別宴が巻五に伝えられている。『書殿(しょでん)にして餞酒(せんしゅ)する日の倭歌(…
【宮廷文化が地方に広がる】 「郡司と良好な関係を築くためには、その家族とも良好な関係を築く必要があった・・・」二首目の歌(前稿巻十八 四〇七一歌)は、「宴に集まった越中の郡司とその子弟に向けて歌われた歌である。・・・『国司』を主催者とする宴…
【宴には郡司の子弟も招かれた】 「国司たちはあらゆる機会を捉えて、郡司たちをもてなしていた。それだけではない。郡司の子弟たちももてなしていたのである。・・・家持にこんな歌がある。 (巻十八の四〇七〇)(同四〇七一)(歌は省略) 一首目の歌は、…
【郡司たちを招待した宴】 「きわめて重要な点は、国司である家持が郡司たちを招いた宴で、この歌を披露した点にある。正月には、国司が郡司を招いて、まず奈良の都の天皇を遥拝(ようはい)(遠くから拝むこと)し、それから宴をすることが、律令の規定に定…
第三章 律令官人の文学 【第二章のまとめ】 「『万葉集』の歌々が、宮廷のなかで発達した歌々であり、七世紀、八世紀の宮廷文化と不可欠の関係にあったことがわかる。『宮廷文化なくして『万葉集』なし』といっても、過言ではない。つまり、万葉歌とは、七世…
【額田王の宴歌】 「宴の場は、宮廷社会においては、・・・コミュニケーションを図るとともに、また宮廷内における秩序を確認する場でもあった。宮廷の宴においては、時として参会者に詩や歌の披露、提出が求められることがある。さらには、その宴に際して『…
【行幸と歌と】 「『天皇、皇族の旅』の歌についてみてみよう。一般に天皇の旅を『行幸』といい、皇后、皇太子の旅を『行啓(ぎゅうけい)』という。・・・行幸というものは、狩と同じく、宮廷につかえる多くの人びとの移動をともなうものであるから、宮廷社…
【あかねさす 紫草野行き 標野行き】 「狩には必ず宴がともなう・・・有名な次の歌も、狩にまつわる歌である。」 (巻一の二〇)(巻一の二一)(いずれも歌は省略) ・・・すでに天智天皇の妻の一人となっている額田王に、時の皇太弟が袖を振って恋心を伝え…
【『国見』と『国見歌』の世界】 「食べることと並んで、見ることも天皇の大切な仕事であった。次に『国見』について考えてみよう。高いところに登って、国の姿を見ることも、大切な儀式であった。香具山に登った舒明天皇は、・・・と歌ったのである。(巻一…
【『万葉集』のはじまりの歌と『若菜摘み』】 宮廷の行事をみていこう。「(巻一の一)(歌は省略)・・・雄略天皇といえば、五世紀後半の天皇であり、『万葉集』が編纂されたつ八世紀中葉の人びとから見れば、三百年も前の天皇ということになる。さすれば、…
第二章 宮廷の文学 【歌によるアルバム】 「『万葉集』の巻一と二は、歌を並べることによって、宮廷の歴史を振り返る歌集なのである。そこで、巻一の前半部、雄略天皇から天武天皇の時代までをみておこう。・・・巻一と二は、年代順に歌々が並べられており、…
【東アジア漢字文化圏の辺境、日本】 「『万葉集』・・・は、東アジア漢字文化圏の辺境の歌集」であり、辺境であるが故に、「日本人は、正統的な漢字文化の破壊者である。反対に、新しい漢字文化の創造者といえるかもしれない。・・・その表記方法は、『万葉…
万葉集の世界へ飛び込もう(その3031)―書籍掲載歌を中軸に(Ⅳ)―歌集 【歌集の誕生】 「歌が書き留められるようになると・・・歌を集めたいという欲求が生れ、『歌集』が誕生するのである。・・・ 『万葉集』以前に存在した歌集には、次のようなものが…
「大伴家持は、自分が出席した宴(うたげ)で歌われた歌や、その様子を書き残しているが、宴の場は、文字が浸透した以後も口から耳、耳から口へと歌い継ぐ文化が残っていたから、作者がない歌、ないしは作者を必要としない歌も歌われていた。・・・家持は、…
本稿から「『万葉集講義』最古の歌集の素顔」 上野 誠著 (中公新書)を基軸に『万葉集』の「素顔」に迫っていきたいと考えています。いろいろとご叱責・ご指導をよろしくお願い申し上げます。 東アジアの漢字文化圏の文学 【漢字が作り出した社会】 「漢字…
第八章 『万葉集』の未来 【戦中から戦後へ】 「昭和二十一年(一九四六)七月に日本国憲法が成立し、天皇は日本国の象徴、日本国民統合の象徴となり、日本は国民主権の国になりました。・・・敗戦による虚無感と戦争からの解放感に満ちた混沌の中で、『万葉…
七 『校本万葉集』 【〈原文〉の復元をめざして】 「明治三十八年(一九〇五)に信綱は、」国文学科の教官上田万年(うえだかずとし)と芳賀矢一(はがやいち)の要請により、「東京帝国大学文科大学講師・・・に就任しました。・・・日本の『国民性』『民族…
六 佐佐木信綱の和歌革新と「評釈」 【佐佐木信綱による和歌革新】 「信綱は、『和歌入門』(博文館、明治四十四年)で、“日本の『国民』のように、『国民一般』に行き渡った詩歌を持っているものは、世界の他にはなく、和歌は上代から『国民』の教養であっ…
五 和歌革新運動と『万葉集』 【和歌革新運動】 「和歌の革新の実践は、明治二十六年二月の落合直文(おちあいなおぶみ)による短歌結社『あさ香社(かしゃ)』の結成から始まります。・・・当時國學院の講師を務めていた保守的な直文が和歌革新の先陣を切っ…
三 東京大学における『万葉集』研究 【東京大学古典講習科】 「『万葉集』が『国民的な歌集』として改めて注目されるようになるのが明治二十年代ですが、その重要な淵源は、明治十年代の、東京大学における古典の研究・教育体制の整備にあります。・・・二期…
第七章 佐佐木信綱による「校本」と「評釈」―近代における『万葉集』 一 近代日本の『万葉集』 【『忠君愛国』の観念】 “王政復古”号令下、新政府は明治元年(一八六八)・・・正統な日本政府として国際的な承認を得、天皇が君主として統治する政治体制の国…
五 加茂真淵の「万葉調」 【「ますらをぶり」と「たをやめぶり」】 「真淵には、『万葉集』の歌風を雄々しく強い男性的な『ますらをぶり』、『古今和歌集』の歌風をのどかでさわやかな女性的な『たをやめぶり』とする有名な歌論があります。・・・真淵が『ま…
【<批評>の基準(二)―「あはれ」】 「真淵は『あはれ』の語をしばしば用いて、『万葉集』の歌に共感を寄せています。 (『万葉集』巻三・三〇三・柿本人麿)(歌は省略)という・・・歌について、名残惜しい情を直接言わずに、その時の情景だけを言ってい…
四 加茂真淵による<批評>の理論化 【加茂真淵の登場】 「江戸時代中期の国学者で歌人の加茂真淵(かものまぶち)(元禄十年(一六九七)~明和六年(一七六九))は、古代の典籍の中で『万葉集』の占める特別な位置を明確にするとともに、契沖・荷田春満が…
三 方法としての<批評> 【契沖の『万葉代匠記』】 「ことばの解釈という国学の基本的研究方法を提示するとともに、『万葉集』を研究する姿勢を明確にしたのが、江戸時代前期の学僧契沖(けいちゅう)(寛永十七年(一六四〇)~元禄十四年(1701))で…
二 鑑賞・批評の萌芽―<批評>前史 【国学がめざしたもの】 「国学は書物を通じて日本固有の文化と精神的伝統を明らかにし、それに回帰することをめざした学問です。江戸時代前期の元禄時代(十七世紀末)に始まりました。・・・国学者たちは、儒教や仏教の…