●サンドイッチは8等分し米の字型に並べた。サンチェの緑が焼豚とあっている。
デザートは、中心にぶどうの4分割の合わせを置き、周りを緑のブドウ、みかんで囲んだ。干しブドウはみかんの上に。
朝食は、サンドイッチであるからコーヒーが中心であるが、和食であればやはり日本茶である。
「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」と言われているように、宇治、静岡、狭山は三大銘茶である。
●綿業から茶業へ
現在、京都府内における「宇治茶」の主要な産地は、相楽郡和束町・南山城村、綴喜郡宇治田原町などである。
「宇治茶世界文化遺産登録推進プラットフォーム」(事務局:京都府農林水産部農産課)のホームページ「宇治茶の文化的景観を世界文化遺産に」のコンテンツに「宇治茶の歴史と発展」には、次のように記されている。
「18世紀から19世紀にかけて、煎茶や玉露といった多様な茶の品質や味を一定に保つため、茶商によるブレンドの技術が発達した。(中略)明治維新(1868年)を迎えると、京都府南部の山城地域の「煎茶」の産地では、木津川の水運を利用するなど輸出向けの生産に力を入れた。木津川市上狛は、綿商いと兼業して茶業を営んでいたが、この時期にブレンドや問屋業を行なう茶商専業への道を歩むようになった。
その結果、上狛には、交通の結節点である地の利を活かした茶問屋の町並みが形成された。」とある。
●信楽焼の茶壺
かなり以前に信楽の骨とう品屋で購入した茶壷、今は、枯れ木や造花を投げ入れインテリアとして使っているが、壷の文字が気になっていた。「椿井」の文字のみ読み取れる。椿井という地名が今でもあるから何らかの手がかりとなると思っていた。
写真を撮り、FACEBOOKにも投稿し、解読をお願いしたが残念ながら回答を得ることができなかった。
昨年、山城郷土資料館(京都府木津川市山城町上狛)で「茶どころ南山城ー茶園景観と歴史」特別展をやっていたので見に行った。受付で、スマホの茶壷の写真を見せて、書かれている文字を解読してほしいとお願いしてみた。「学芸員なら読めるかもしれません」とわざわざ呼んできていただいた。
当時は、茶壷を送る場合、今のような送り状はなく、信楽焼の窯元の名と送り先を直接、壷に墨書きしたとのことであった。
信楽焼の窯元「善右衛門」から「城州上こま 椿井 綿屋忠右衛門」に送ったとおもわれるとのことであった。
城州は山城国の別称であり、上狛(かみこま)近辺では綿花の栽培が盛んであったので「綿屋」名が存在し、時代が進むにつれ、綿花問屋から茶問屋に転じた者が多かったとも教わった。
前述のホームページの「宇治茶の歴史と発展」にも同様のことが書かれている。
綿屋は苗字か、綿屋の忠右衛門さんかはわからないがロマンを掻き立てる。
信楽焼について調べてみると、信楽焼の窯元で有名なところでは「小川善右衛門」の名が資料にあった。ここに記された「善右衛門」が該当するのかは不明であるが、この壷の端正とれた形と大きさからもそれなりの窯元であったと思われる。
文字解読一つで、山城国の綿業から茶業への歴史にまで及ぶことができたのである。