万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

ザ・モーニングセット190113(万葉の小径シリーズーその8 くは)

●サンドイッチの中味は、オムレツ風にした。玉ねぎとニンジンのみじん切りと玉子をまぜ、マヨネーズを加え、フワフワ感を出すようにした。キャベツの千切りを上下に玉子を挟むようにしケチャップで味を調えた。信楽焼に長方皿に盛り付けた。

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1月13日のモーニングセット

  デザートは、中心部にリンゴを配し周囲はみかんの輪切りの半分を交互に並べ、その内側にはバナナの輪切の半分をみかん同様交互に並べた。後はブドウと干しブドウでアクセントをつけた。

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1月13日のデザート

 

●万葉の小径シリーズ-その8 くは

 

筑波嶺(つくばね)の 新桑繭(にひぐはまよ)の 衣(きぬ)はあれど

君が御衣(みけし) あやに着欲しも

                     (作者未詳 巻十四 三三五〇)

 

「筑波祢乃 尓比具波麻欲能 伎奴波安礼杼 伎美我美家思志 安夜尓伎保思保」

 

筑波山の桑の新葉で飼った蚕の繭から作った上等の着物もいいけれど、私はあなたの着物をとても着たいと思うのですよ。

 

 「クワは落葉高木で、四月に新しい葉を出す。その葉を食べた蚕が作った繭(春蚕の繭)から取り出した絹糸で織った着物を新桑繭(にひぐはまよ)の衣という。万葉集には三首の桑の歌があるが、食用になる桑の実を歌ったものもなく、独特の桑の香りを歌ったものもない。絹を取り出すための養蚕の歴史は古く、雄略紀六年の条には、天皇が后妃に命じて蚕を飼うことをすすめる記事があり、継体紀(けいたいき)元年の条には、天皇が自ら農業をし、后妃が自ら蚕を飼ったという記事がある。もちろん万葉でも、かひこ、かふこ、あるいは桑子(くはご)とまで呼ばれて親しまれていた。

 桑の中でも、山野に自生する桑は、柘(つみ)とも呼ばれた。柘では、吉野川に流れる柘の枝の話、いわゆる柘枝伝(しゃしでん)が名高い。それは、中国思想を地盤として吉野川の辺に生まれた伝説で、吉野の漁師である味稲(うましね)が、川を流れてくる柘の枝が梁(やな)に打ち上げられたのを拾ったところ、枝が美しい女に変わったという話である。このような伝説が生じるほど桑や柘は、古代の人に親しまれた木であった。」

                         (万葉の小径 くはの歌碑)

 

 御衣(みけし)は衣の最上の敬語である。御(み)は敬語、衣(けし)は動詞「けす」の名詞形である。「けす」は「着る」の敬意ある動詞である。着物が着たいというのは、その人の霊魂を欲しいという意味である。恋愛結婚のしるしとして、相手に衣を与えるのである。

 筑波山の嬥歌会(かがひ)での歌といわれる。嬥歌会(かがひ)は神を祭る伝統であり、青年男女の出合いの場であり、恋の実現の場であったといわれる。

 巻十四東歌二三八首、すべて五七五七七で整っている。東歌は民謡であるとか、嬥歌会(かがひ)での歌といわれているが、すべてが三十一音に定型化されていることが、民謡等とかけ離れていることを物語っている。

 東歌という言い方は、都人の都意識がなせるものである。歌の内容は都と文化的にはかけ離れたものではあるが、歌として都的要素が強いものとなっている。東歌そのものも「鄙の都化」されたものと考えることもできよう。都と東国との文化的交流ならびに東国の都文化の吸収力の高さを物語っているのではないか。

 

 

(参考文献)

★万葉の小径 くはの歌碑

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉の恋歌」 堀内民一 著 (創元社

★「万葉集東歌論」 加藤静雄 著 (桜楓社)