万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

ザ・モーニングセット190209(万葉の小径シリーズーその31 うめ)

●本日のサンドイッチは、サンチュと焼き豚。小振りの角皿に十字に盛りつけた。ご近所さんに頂いた壬生菜も飾った。f:id:tom101010:20190209090339j:plain

デザートは、りんごのスライスを皿の外周から中心部へと飾り、花のイメージで仕上げていった。中心部はブドウを盛り付けた。 f:id:tom101010:20190209090622j:plain

わが園に 梅の花散る ひさかたの

天(あま)より雪の 流れ来るかも

大伴旅人 巻五 八二二)

和何則能尓 宇米能波奈知流 比佐可多能 阿米欲里由吉能 那何列久流加母

私の家の庭に白い梅の花が散っている。ああ、天から雪が流れて来たようだなあ。

「ウメは万葉集の中で約一二〇首の歌が歌われる落葉高木で、木の花の中でもっとも多く詠まれている。サクラなどに較べて山野のウメが歌われることはまれで、そのほとんどが庭に咲くウメであり、白い梅花である。時代的にもサクラが古い伝統を持ち、宮所(みやどころ)の名にも(磐余若桜宮<いわれわかさのみや)、土地の名にも(桜井)、人の名にも(桜児玉<さくらこ>)、桜という字を見出すが、梅はそれらとはあまり縁がない。いや、飛鳥・藤原の時代に於いてすら、梅の歌はまず歌われていない。一二〇首もの梅の歌は、そのほとんどが平城京へ遷都して後の歌である。

奈良の都の貴族たちは、枯枝に雪が積もると白い梅の花が咲いたかと思い、春が立つとさあ梅の花の時期だと喜び、梅の林に鳴くうぐいすの声をほめ、散り始めると旅人の歌のように白い花びらかあるいは雪かと楽しみ、梅がすっかり散るとそろそろ桜の時だと歌い続ける。これほど貴族が梅花を歌うのは、万葉の時代に梅が中国から輸入され、貴族たちがこぞって梅を自分の庭に植え、梅ということばを口にすることが、貴族の意識をかきたてたからであろう。

庭木は宴会の時などには歌の素材としてふさわしい。この歌も、天平二年(七三〇)正月、太宰府での梅花の宴で歌われたものである。

(万葉の小径歌碑「うめ」

この宴に参加した三二人については、万葉の小径シリーズその21 さくら で紹介している。 この宴に山上憶良も参加しており、歌は八一八首目に収録されている。

🔹 波流佐礼婆(はるされば) 麻豆佐久耶登能(まづさくやどの) 烏梅能波奈(うめのはな) 比等利美都ゞ夜(ひとりみつつや) 波流比久良佐武(はるひくらさむ)

春が来るとまず咲く家の梅の花を、独り見ながら春の日を暮らしていることよ、と宴の素材の梅に託し、自分の心境を大伴旅人に訴えているのである。

同年十二月旅人が大納言に任ぜられ奈良の都に戻る歓送の宴において、憶良は、「自分の懐を述べる」として三首歌っている。そのうちの一首が、次の歌である。

🔹阿麻社迦留(あまざかる) 比奈尓伊都等世(ひなにいつとせ) 周麻比都ゞ(すまひつつ) 美夜故能提夫利(みやこのたぶり) 和周良延尓家利(わすらえにけり) (巻五 八八〇)

都から遠く離れた田舎に五年も住み、都の風習を忘れてしまいました

さらに、八八二首では、

🔹我が主の 恩賚(みたま)給ひて 春さらば 奈良の都に召上(めさ)げ給はね

と、歌って、お口添えをいただいて、来年にでも、奈良の都へ呼び戻すよう計らっていただきたい、と哀願しているのである。

今の時代にもありそうな出来事である。ちなみに憶良は二年後の天平四年に奈良の都に戻ることができたのである。

(参考文献)

★万葉の小径歌碑 うめ

★「萬葉集」 鶴 久 森山 隆 編 (桜楓社)

★「太陽 特集 万葉集」(平凡社

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