●3月1日、天気は上々。気分は完全に春。伊賀上野の「わかや」で豆腐田楽を食べ、山越えして紫香楽宮阯に行くことにする。
国道24号線を北上、上狛四丁目交差点を右折、163号線で伊賀上野に向かう。2月26日に行った恭仁京阯を通過。右手のおはぎの店は、ずーと気になっていたが一度も立ち寄ったことがない。26日は火曜日で定休日だったので今日は帰りに寄ろうということになった。
「わかや」は11時からであるが、30分前に到着、駐車場で、スマホゲームをして時間をつぶし、店に入る。味噌田楽の良い香りが。Bセットに単品で豆腐コロッケと揚げ出し豆腐を注文する。
山越えで信楽に向かう。琵琶湖が今のところに落ち着くまでに、太古の昔、このあたりから移動したそうである。そのため伊賀焼と信楽焼の土は同質なのだそうである。両者は、焼き締め温度が異なるので土味は似ているが仕上がりの作風はかなり違いがある。
丸柱経由の山越えで信楽の町に入り307号線で紫香楽宮阯に向かう。
紫香楽宮阯の碑を左折、駐車場に。そこからぶらぶらと。かなり前に来た時は、うっそうとした松林のなかに礎石とポツンと小さな説明版があっただけだったが、発掘調査が進んだのか、あちこちに礎石群が点在し中心部には「中門阯」とか「塔阯」などの碑が建てられている。ずいぶん変わったものだ。以前は、宮跡とされていたが、調査が進むにつれ、礎石の配置等から寺院跡とされたとある。
説明案内板によると、この辺りは、紫香楽宮跡内裏野地区(寺院跡)と呼ばれ、「甲賀寺」あるいは平城遷都の後「甲賀宮国分寺」として記録にあらわれる寺跡であったと推定されるとある。ここから北約1.5kmに紫香楽宮の中心区画があり、史跡紫香楽宮跡宮町地区(宮殿跡)といわれているそうである。
「国指定史跡 紫香楽宮跡」の説明案内碑があった。「礎石図」の部分は次の通りである。
開放的な礎石群の周りはきれいに清掃されており、ほうきの後が残っている。気持ちの良い礎石めぐりでした。
塔阯の礎石の周辺には驚いたことに粘土瓦の破片があちこちに。奈良時代の香りを伴っているようである。
ここまで来た以上、紫香楽宮跡宮町地区(宮殿跡)に行かないと意味がないと、資料室を目指す。そこは「宮町遺跡調査事務所」となっており、到着すると女性職員の方が対応してくださった。紫香楽宮に関するビデオを20分ほど見せていただいた。見終えてから、隣の資料室を見学し紫香楽宮跡を後に家路についた。
帰路の途中、恭仁京跡の前のおはぎの店に立ち寄る。30年ほど前から店を出しているそうである。その頃は、やきものにどっぷりはまっていたので信楽へは信楽焼を求めてよく通ったが、確かにそのころから気にはなっていたのである。万葉集から聖武天皇の「彷徨の5年」を知り、家持の歌にも接し、一気に身近に感じ、2月26日に初めて恭仁京跡を訪れたのがきっかけで、今日の和菓子との初対面となったのである。
宮町遺跡調査事務所の資料室に、紫香楽宮の「西大溝」で廃棄された「歌木簡」が出土したとのパネルが展示されていた。(2008年5月22日甲賀市教育委員会発表)
木簡の裏表に2首の歌が書かれており、一首は万葉集の歌である。同時に出土した他の木簡等からの年代の推定から、万葉集をみて写したものでなく、それ以前に流布していたものを書き留めたと解釈できるとある。万葉集に収録された「歌木簡」は明日香村の石神遺跡、木津川市の馬場南遺跡に次いで3番目。
万葉集の歌は次の通りである。(歌木簡)
◆阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
一方 西本願寺本萬葉集(注)に収録されているのは次の通りである。
◆安積香山(あさかやま) 影副所見(かげさへみゆる) 山井之(やまのいの) 淺心乎(あさきこころを) 吾念莫國(わがおもはなくに)
(作者未詳 巻十六 三八〇七)
(注)参考文献に記載してある「萬葉集」(桜楓社)は西本願寺本萬葉集を
底本としているとある。
略訳「安積山の影が写るような山の水溜り場のような浅い心でもてなそうとは私は決して思っていません」
木簡は巻十四の東歌のように一字一音形式で、後者は「所見」と漢詩的表記である。歌の書き留め方からみても興味深いところである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・ 森山 隆 編 (桜楓社)
★「宮町遺跡調査事務所の資料室のパネル」
★「紫香楽宮跡説明案内文」