●万葉集の中にあって東歌と防人歌はある意味異質な存在である。先に東歌についてふれたが、今日は防人歌に挑戦してみる。大伴家持が中央の役人として、防人制度の一端を担っていたことは今回初めて知った。
今日のサンドイッチは、サラダ菜と焼き豚である。モーニングセットとして、サンドイッチ、デザート、コーヒー、野菜ジュースと定番の組み合わせである。
デザートは、中央に八朔の房を6枚並べ、それをベースに、バナナ、ブドウで飾り付けた。
今日は、防人の歌に挑戦する。
●防人の歌
万葉集の「防人の歌」は、巻二十に、天平勝宝七年(755年)の防人交替の時の歌が84首、それに加え、それより前の歌が9首、巻十四東歌の防人の部立で5首である。しかし、巻十四には、相聞や雑歌の部立の中にも「防人歌」とみられるものが26首あるとする考え方もある。(武田祐吉氏著「東歌を疑ふ」)
防人は、当初は九州の人をあてていたが、後に東国の人をあてるようになった。任期は3年で、毎年三分の一が交替するのである。
大伴家持は、兵部小輔として、各国から送られてきた防人を中央役人の立場で、難波で引き渡しを受ける仕事をしていた。家持には、防人歌として166首が手に渡ったのであるが、拙き歌82首は取り上げなかったという。上記のように、巻二十の防人交替の時の歌として84首が収録されたのである。
巻二十の四三二一の題詞は「天平勝寶七歳乙未二月相替遣筑紫諸杭國防人等歌」となっている。
防人の出身地は、東国がほとんどであるから東歌と同様質朴な要素がある。
歌を見てみよう。
◆阿之可伎能(あしかきの) 久麻刀尓多知弖(くまとにたちて) 和藝毛古我(わぎもこが) 蘇弖母志保ゝ尓(そでもしほほに) 奈伎志曽母波由(なきしぞもはゆ)
(左注)右一首市原郡上丁刑部直千國
(刑部直千國<おさかべのあたひちくに> 巻二十 四三五七)
略訳「葦の垣根の片隅に立って、わが妻は袖もぐっしょりなるくらい泣いていた、その姿が思い出される」
◆都久波祢乃(つくはねの) 佐由流能波奈能(さゆるのはなの) 由等許尓母(ゆとこにも) 可奈之家伊母曽(かなしけいもぞ) 比留毛可奈之祁(ひるもかなしけ)
(大舎人千文<おほとねりべのちふみ>巻二十 四三六九)
略訳「筑波嶺に咲く百合の花のように 夜も愛おしかったお前、昼も愛おしいことよ」
(注)佐由流 さゆるは上代東国方言 小百合のこと、小百合のさは接頭語
◆和我都麻母(わがつまも) 晝尓可伎等良無(ゑにかきとらむ) 伊豆麻母加(いづまのが) 多妣由久阿礼波(たびゆくあれは) 美都ゝ志努波牟(みつつしのはむ)
(物部古麻呂 巻二十 四三二七)
略訳「わが妻も絵に書き留める時間がほしい、旅に出たらそれを見て思い出そう」
◆美豆等利乃(みずとりの) 多知能已蘇岐尓(たちのいそぎに) 父母尓(ちちははに) 毛能波須價尓弖(ものはずけにて) 已麻叙久夜志伎(いまぞくやしき)
(有度部牛麻呂 巻二十 四三三七)
略訳「水鳥が飛び立つように急いできたので 父母に何も言わずに 今となってはくやしいことよ」
このように任地での、残してきた恋人や家族への思い、別離の悲しみが心の叫びとして詠われている。
東歌ならびに防人歌加えるに作者未詳歌は、当時の上流階級にあっては異質であるが収録されていることは、上流階級に見られない庶民的なものへの共感性が感じられる。
編者の意図だけではないことはあきらかであろう。万葉集が世に出た際の経緯についてもいろいろといわれてるが、万葉集が万葉集である所以ともいえるのではなかろうか。
(参考文献)
★「萬葉集」鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)