●今日はひな祭りである。イチゴを買って来たので、ひな祭り的なあでやかさを演出できればとデザートに時間をかけた。サンドイッチはひし餅的なイメージ?
イチゴの縦切りをメインに赤色を強調すべくバナナやブドウも使って飾った。
2月28日のブログに「万葉集 巻第十四 東歌」、昨日は「万葉集 防人歌」と題して概略を書いたが、もう少し詳しく「東歌と防人歌」を見ていきたい。
●万葉集「東歌と防人歌」(その1)
■1■ 東歌の在地性ならびに方言要素そして巻十四
巻十四の三三七三~三三八一まで九首の左注は、「右九首武蔵國歌」となっている。このように、左注に「右〇首△△△國歌」と東国の歌である旨明記されている。
この中の三三七三の歌をみてみる。
◆多麻河泊尓 (たまかはに) 左良須弖豆久利(さらすてつくり) 佐良左良尓(さらさらに) 奈仁曽許能児乃(なにそこのこの) 己許太可奈之伎(ここだかなしき)
(作者未詳 巻十四 三三七三)
(略訳)「多摩川にさらす手作りの布 さらさらに どうしてこのよに愛おしいことだろう」
巻十四は一字一音で表記されているが、この歌のように、「河泊(かは)」の「河」ならびに「児」は音の仮名にとどまらず意味をあらわすことにもなっているような例もある。
もう一首三四五九をみてみる。
◆伊祢都氣波(いねつけば) 可加流安我手乎(かかるあがてを) 許余比毛可(こよひもか) 等能乃和久胡我(とののわくこが) 等里弖奈氣可武(とりてなげかむ)
(作者未詳 巻十四 三四五九)
(略訳)「稲をつくと(荒れる)私の手を、今宵もまた殿の若君が手に取って嘆くことであろうか」
このように東国の農庶民の「働いている」様と恋模様を詠っている歌が多い。
これまでは、学校で習った東歌とは、歌謡、民謡をベースとした農庶民の歌で、素朴な日常的な歌や、歌垣で詠われるようなやや刺激的な意味合いも持った特徴あるという知識しかなかった。しかし、「文字」の世界とおよそかけ離れた世界の農庶民がこのような歌を作れる才があったであろうか。しかも五七五七七という短歌形式に応じた歌を残せたのであろうか。東国の訛りや方言も織り込まれているのも東歌の特徴ではあるが、それを組み込んでの五七五七七形式にまとめるのは相当なものであるとも考えられる。さらには、巻十四という一つのまとまりをもっているのはなぜなんだろうといった疑問が浮かんでくる。
これについては、神野志孝光氏の著「万葉集をどう読むか―四歌の『発見』と漢字の世界」に明解な答えがあった。長文になるが、引用させていただく。
「『万葉集』にとって大事なのは、東国の在地性を帯びた歌があるということです。その歌が民謡か創作歌かは問題ではありません。要は、東国にも定型の短歌が浸透しているのを示すということです。それは中央の歌とは異なるかたちであらわれて東国性を示しますが、東歌によって、東国までも中央とおなじ定型短歌におおわれて、ひとつの歌の世界をつくるものとして確認されることとなります。そうした歌の世界をあらしめるものとして東歌の本質を見るべきです。それが『万葉集』における巻十四なのです。その点で、「(東歌の)特異性は貴族的なるものとの対比においてではなく、そこに包摂された状態で存在するのである」と、品田悦一「東歌・防人歌論」(『セミナー 万葉の歌人と作品 第十一巻 東歌・防人歌/後期万葉の男性歌人たち』2005年、和泉書院)のいうことが、端的に本質をいいあてています。」
方言要素は、東歌にとって必須であり、巻十四は、在地性を示すために訛りや方言を記載するために一字一音とし、中央の言葉と異なる歌において定型短歌の浸透を証したという。「その方言要素の本質はよそおいである」と、断言しておられる。
(参考文献)
★「万葉集をどう読むか―四歌の『発見』と漢字の世界」 神野志孝光 著
(東京大学出版会)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)