万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その3改)―奈良市法華寺町法華寺境内―万葉集 巻三 三七八

●歌は、「いにしへの古き堤は年ふかみ池の渚に水草生えにけり」である。

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法華寺 万葉歌碑(山部赤人

 

●歌碑は、奈良市法華寺法華寺境内にある。

 

●歌をみていこう。

 

 題詞は、「山部宿祢赤人詠故太政大臣藤原家之山池歌一首」<山部宿禰赤人、故太政大臣藤原家の山池(しま)を詠(よ)む歌一首>である。

 

◆昔者之 奮堤者 年深 池之瀲尓 水草生家里

                 (山部赤人 巻三 三七八)

 

≪書き下し≫いにしへの古き堤(つつみ)は年(とし)深(ふか)み池の渚(なぎさ)に水草(みずくさ)生(い)ひけり

 

(訳)ずっとずっと以前からのこの古い堤は、年の深みに加えて、池の渚に水草がびっしり生い茂っている。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌の作者である山部赤人は、万葉集第三期の歌人である。万葉集には四九首の歌が収録されている。宮廷歌人である。自然を相手にしたときに発する美の創作意欲がぬきんでているといわれる。

 

 次の歌はあまりにも有名である。小生も東京出張の時など新幹線の窓から富士山を眺めていると、特に冬場、自然と頭の中にこの歌が浮かんでくる。

 

◆田兒之浦従(たごのうらゆ) 打出而見者(うちいでてみれば) 真白衣(ましろにぞ) 不盡能高嶺尓(ふじのたかねに) 雪波零家留(ゆきはふりける)

                     (山部赤人 巻三 三一八)

 

 犬養 孝氏はその著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「長歌があって反歌があり、反歌があって長歌が生きる」長歌では、「『わたる日の影も隠らひ 輝る月の光も見えず 白雲もい行きはばかり 時じくそ雪は降りける』と、日の影も、月の光も、白雲も、と否定があり、そして、『雪は降りける」と肯定されているところが大事なところです」と述べておられる。長歌の時間軸でみた「雪は降りける」、そして、反歌の空間軸でみた「雪は降りける」の「長歌反歌有機的な切っても切れない美のコンポジションというものが、出来上がるわけです。」と書かれている。

 田子の浦ゆ、「ゆ」に富士を描くのに足元の近景に焦点を合わせ、遠くの富士を近づけるから気高くも躍動感あふれる富士を歌い上げることができたのである。

 恥ずかしながら、この歌が、長歌反歌というのも今回の中で知ったことであり、また万葉集の歌に魅せられた感が否めない。

 

 

 法華寺は、聖武天皇の皇后、光明皇后が実父藤原不比等没後その屋敷を皇后宮とした。その後、総国分尼寺、法華滅罪之寺とされた。略して法華寺と呼ばれる。

 東大寺が総国分寺法華寺が総国分尼寺とされる。本尊は、国宝の十一面観音菩薩である。

 

 門をくぐったところに受付があり、万葉歌碑について尋ねる。案内図で説明してもらう。

本堂からみてやや右手方向の庭に設置されている。境内には、会津八一の歌碑、橋本多佳子の歌碑(俳句)がある。

 拝観料を払い、境内に、歌碑を確認し、本堂を見学する。

 チケットを見せ本堂に入る。

 係りの人がテープを流し始める。本尊の由来や聖徳太子の2,3載のころの立像等についての説明が流れる。椅子に座って十一面観音菩薩を見ながら聞き入る。

 堂内を拝観し、万葉歌碑に焦点を合わせる。

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法華寺本堂

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法華寺南大門からみた本堂

 

 

 

 歌碑を撮影した翌日、聖武天皇 佐保山南陵、聖武天皇皇后天平應眞仁正皇太后 佐保山東陵 を訪ねた。

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陵の説明案内板

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聖武天皇陵遠景

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光明皇后

  光明皇后の歌は、万葉集には三首収録されている。

 

題詞は、「藤皇后奉天皇御歌一首」<藤皇后(とうくわうごう)、天皇に奉(たてまつる)御歌一首>である。

(注)藤皇后:光明皇后

(注)天皇聖武天皇

 

◆吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思

                 (光明皇后 巻八 一六五八)

 

 ≪書き下し≫我が背子(せこ)とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉(うれ)しくあらまし

 

(訳)我が夫(せ)の君と二人で一緒に見ることができましたら、どんなにか、この降り積もる雪が嬉しく思われるでしょうに。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

◆朝霧之 多奈引田為尓 鳴鴈乎 留得哉 吾屋戸能波義

                (光明皇后 巻十九 四二二四)

 

≪書き下し≫朝霧(あさぎり)のたなびく田居(たゐ)に鳴く雁(かり)を留(とど)め得むかも我がやどの萩

 

(訳)朝霧のたなびく田んぼに来て鳴く雁、その雁を引き留めておくことができるだろうか。我が家の萩は。(「万葉集 四」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

左注は、「右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳 十月五日河邊朝臣東人傳承云尓」<右の一首の歌は、吉野(よしの)の宮に幸(いでま)す時に、藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)作らす。ただし、年月いまだ審詳(つばひ)らかにあらず。十月の五日に、河辺朝臣東人(かはへのあそみあづまひと)、伝承(でんしょう)してっしか云ふ。>である。

(注)藤原皇后:光明皇后藤原不比等の娘。孝謙天皇の生母。

 

 題詞は、「春日祭神之日藤原太后御作歌一首 即賜入唐大使藤原朝臣清河 参議従四位下遣唐使」<春日(かすが)にして神を祭る日に、藤原太后(ふぢはらのおほきさき)の作らす歌一首 すなはち、入唐大使(にふたうたいし)藤原朝臣清河(ふぢはらのあそみきよかは)に賜ふ 参議従四位下遣唐使>である。

     

◆大船尓(おほぶねに) 真梶繁貫(まかぢしじぬき) 此吾子乎(このあごを) 韓国邊遣(からくにへやる) 伊波敝神多智(いはへかみたち)

 

≪書き下し≫大船(おほぶね)に真楫(まかぢ)しじ貫(ぬ)きこの我子(あこ)を唐国(からくに)へ遣(や)る斎(いは)へ神たち

 

(訳)大船の舷(ふなばた)の右にも左にも櫂(かい)をいっぱい取り付けてやり、このいとしい子を、唐国(からくに)へ遣わします。守らせたまえ、神たちよ。(同上)

 

 四二二四,四二四〇歌は、大伴家持越中で聞き取った古歌である。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

 

※20210523朝食関連記事削除、一部改訂