万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その5改)―歌姫町 添御縣坐神社境内―万葉集 巻三 三〇〇

●歌は、「佐保過ぎて寧楽の手向の置く弊は妹を目離れず相見しめとぞ」である。

 

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添御縣坐神社境内万葉歌碑(長屋王

 

●歌碑は、歌姫町の添御縣坐神社(そうのみあがたのますじんじゃ)の境内にある。

 

●歌をみていこう。

 題詞は、「長屋王駐馬寧樂山作歌二首」<長屋王(ながやのおほきみ)、馬を奈良山に駐(と)めて作る歌二首>である。

(注)奈良山:奈良県京都府の境の山

(注)長屋王が奈良の佐保に住む以前の歌らしい。

 

◆佐保過而 寧樂乃手祭尓 置幣者 妹乎目不離 相見染跡衣

                  (長屋王 巻三 三〇〇)

 

≪書き下し≫佐保(さほ)過ぎて奈良の手向(たむ)けに置く幣(ぬさ)は妹(いも)を目離(めか)れず相見(あいみ)しめとぞ

 

(訳)佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に奉る幣は、あの子に絶えず逢わせたまえという願いからなのです。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 (注)佐保過ぎて:奈良市法華町・法華寺町一帯か。

(注)めかる【目離る】自動詞:しだいに見なくなる。遠く離れて会わなくなる。疎遠になる。「めがる」とも。(学研)

 

 もう一首の方もみてみよう。

 

◆磐金之 凝敷山乎 超不勝而 哭者泣友 色尓将出八方

                      (長屋王 巻三 三〇一)

 

≪書き下し≫岩が根のこごしき山を越えかねて音(ね)には泣くとも色に出(い)でめやも

 

(訳)根を張る岩のごつごつした山、そんな山を越えるに越えかねて、つい声に出して泣くことはあっても、あの子を思っていることなど、そぶりにだしたりはすまい。(同上)

(注)こごし 形容詞:凝り固まってごつごつしている。(岩が)ごつごつと重なって険しい。 ※上代語。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)めやも 分類連語:…だろうか、いや…ではないなあ。 ⇒なりたち 推量の助動詞「む」の已然形+反語の係助詞「や」+終助詞「も」(学研)

 

 

 歌姫街道に面した神社である。歌姫街道は、大和国と山背(やましろ)国の国境を越える古道であった。

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添御縣坐神社鳥居の神額

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姫街道に面した鳥居と参道

 ならやま大通りの三叉交差点平城1号線から歌姫街道平城旧跡に向かって車を走らせる。車一台通るのがやっとのところもある狭い道である。

 神社らしいこんもりとした木々の密集が目に入った。案内板はないが、車2台ほど止められるスペースがあり、そこに止める。右手に社、左手に鳥居の参道が続く。歌碑はすぐに見つかった。その反対側には、菅原道真の歌碑(このたびは幣も取りあへず手向け山紅葉のにしき神のまにまに)もあった。

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菅原道真の歌碑

 

 

  

長屋王の屋敷跡

 昭和61年(1986年)から平成元年(1989年)にかけ、奈良市二条大路南の当時のそごう百貨店建設予定地で奈良文化財研究所が発掘調査を行った。昭和63年(1988年)に大量の木簡が発掘され、長屋王の屋敷跡と判明した。

 長屋王の屋敷跡は平城京の東南角に隣接するところにある。そごうの後はイトーヨーカドー奈良店となったがこれも閉店となり現在は、ミ・ナーラとしてリニューアルオープンしている

 屋敷跡が発見されたため、当時のそごうは、二条通りに面した正面玄関から入ると、婦人服売り場などがあり、普通のデパートの様相であるが、駐車場があった裏側の入り口から入ると、1階にもかかわらず、果物屋があり食料品関係の店などがあった。地階がなかったのである。

 長屋王の変は、藤原四兄弟による画策とみられている。皇族長屋王家と藤原一族の対立は、律令を巡る政策的なものではなく、権力闘争的な性格のものであったといわれている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著  (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學」 稲岡耕二 編 (學燈社

 

※20210529朝食関連記事削除、一部改訂