万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その27改)―奈良市菩提寺山町の正暦寺の境内―万葉集 巻八 一五一二

●歌は、「經もなく緯も定めずをとめらが織れる黄葉に霜な降りそね」である。

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正暦寺万葉歌碑(大津皇子

●歌碑は奈良市菩提寺山町の正暦寺の境内にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆経毛無 緯毛不定 未通女等之 織黄葉尓 霜莫零(

      (大津皇子 巻八 一五一二)

 

≪書き下し≫経(たて)もなく緯(ぬき)も定めず 娘子(をとめ)らが 織(お)る黄葉(もみちば)に霜な降りそね

 

(訳)縦糸もなく横糸も定めずに、娘子(おとめ)たちが織るもみじの錦に、霜よ降らないでおくれ。(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

 

 大津皇子は、天武天皇の第一妃、大田皇女の皇子で、皇太子になるはずであったが、その時期には、既に母が亡くなっていた。第二王妃の鸕野(うの)皇女の皇子草壁皇子の存在のため悲劇の運命をたどるのである。聡明な鸕野皇女に危険視されたのは、草壁皇子よりも人望も学才も優れていた大津皇子の存在であった。皇位継承を巡って謀反という形で、大津皇子は、「百伝ふ(ももづたふ)磐余の池に(いわれのいけに)鳴く鴨を(なくかもを)今日のみ見てや雲隠りなむ(巻三 四一五)」という辞世を残して処刑されたのである。

 大津皇子は優れた歌人であり、漢詩にも抜きんでた才能があったようである。

(注)ももづたふ:枕詞、数を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や

「五十(いそ)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いわれ)」にかかる。

 

 正暦寺は、正暦三年(992年)創建とある。創建当初は、塔堂・伽藍を中心に86坊の塔頭が渓流を挟んで立ち並び威容壮麗を誇っていた。現在では、福寿院客殿と本堂・鐘楼を残すのみとなっている。古来から紅葉の鮮やかさから「錦の里」と呼ばれていたそうである

 メイン道路から脇道に入ると山間の道となり景観が一変する。このようなところにこのような寺があったのだ。駐車場に車を止めぶらぶらと。橋を渡って正暦時を目指す。渓流の脇に日本清酒発祥の地の」の碑がある。

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日本清酒発祥の地」の石碑

 大本山 正暦寺のHPの「清酒発祥の地」によると、「本来、寺院での酒造りは禁止されていましたが、神仏習合の形態をとる中で、鎮守や天部の仏へ献上するお酒として、荘園からあがる米を用いて寺院で自家製造されていました。このように荘園で造られた米から僧侶が醸造するお酒を『僧坊酒』と呼んでいます。正暦寺は創建当初は86坊、多い時には120坊を抱え、大量の『僧坊酒』を作る筆頭格の大寺院でありました。当時の正暦寺では、仕込みを3回に分けて行う『三段仕込み』や麹と掛米の両方に白米を使用する『諸白(もろはく)造り』、酒母の原型である『菩提酛(ぼだいもと)造り』、さらには腐敗を防ぐための火入れ作業行うなど、近代醸造法の基礎となる酒造技術が確立されていました。これらの酒造技術は室町時代を代表する革新的酒造法として、室町時代の古文書『御酒之日記』や江戸時代初期の『童蒙酒造記』にも記されています。

このように正暦寺での酒造技術は非常に高く、天下第一と評される『南都諸白(なんともろはく)』に受け継がれました。そしてこの『諸白』こそが、現代において行われている清酒製法の祖とされています。このことから、現在の清酒造りの原点を正暦寺に求めることができます。

 以上のような歴史的背景は、正暦寺日本清酒発祥の地であると言われる所以であります。」とある。

 渓流沿いに坂道を登っていくと右手に福寿院客殿が見えてくる。

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参道足元下の渓流

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正暦寺福寿院客殿

 

 客殿の入り口付近に、柿本人麻呂の歌を記した木札が建てられていた。

 

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柿本人麻呂の木製の歌碑

◆秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母<一云路不知而>

      (柿本人麻呂 巻二 二〇八)

 

≪書き下し≫秋山の黄葉(もみち)を茂(しげ)み惑(まと)ひぬる妹(いも)求めむ 山道(やまぢ)知らずも<一には「道知らずして」といふ>

 

(訳)秋山いっぱいに色づいた草木が茂っているので中に迷いこんでしまったいとしい子、あの子を探し求めようにもその山道さえもわからない。<その道がわからなくて>(同上)

 

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福寿院客殿への山門

 福寿院客殿の庭にも歌碑はなかった。 

 広い境内の敷地であるので、スマホで、万葉歌碑と検索してみる。「歌碑を求めむ山道知らずも」である。

 スマホの案内に従って坂を上っていく。案内音声も目的地に近づいた旨を知らしている。歌碑らしきものが2つほど見えてきた。しかしよく見ると俳句である。その上の方に鐘楼が見える。どうもそこの平面に本堂と鐘楼があるようだ。

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急坂道の上に見える鐘楼

 坂道を登っていくと、本堂境内があり、漸く歌碑にたどり着いたのである。

 

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鐘楼と本堂

 

 (参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「國文學 万葉集の詩と歴史」 (學燈社

★「万葉ゆかりの地を訪ねて~万葉歌碑めぐり」(奈良市HP)

★「大津皇子」 生方たつゑ 著 (角川選書

★「万葉の心」 中西 進 (毎日新聞社

★「大本山正暦時」(正暦時HP)

 

※20111128朝食関連記事削除、一部改訂