●歌は、「石ばしる垂水の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも」である。
●歌をみていこう。
この歌は、万葉集巻八の巻頭歌である。
題詞は、「志貴皇子懽御歌一首」<志貴皇子(しきのみこ)の懽(よろこび)の御歌一首>である。
◆石激 垂見之上野 左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨
(志貴皇子 巻八 一四一八)
≪書き下し≫石走(いはばし)る垂水(たるみ)の上(うえ)のさわらびの萌(も)え出(い)づる春になりにけるかも
(訳)岩にぶつかって水しぶきをあげる滝のほとりのさわらびが、むくむくと芽を出す春になった、ああ(「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
志貴皇子は天智天皇の皇子で、後に我が子が光仁天皇として即位したので、天皇の称号が贈られて、春日宮天皇、あるいは田原天皇とも呼ばれている。
巻八を現在の形にまとめたのは大伴家持といわれている。奈良朝の終わりごろ光仁天皇の時代であり、天皇に献上したとも言われている。この巻頭が、光仁天皇の父である志貴皇子の「懽(よろこび)」の歌で飾られているのである。
ちなみに、志貴皇子の子の光仁天皇陵は、田原西陵から約3km離れた田原東陵である。
志貴皇子の歌は万葉集に六首収録されている。この稿では、三首紹介し、次稿で残り三首(二六七、五一三、一四六六歌)を紹介する。
◆婇女乃(うねめの) 袖吹反(そでふきかへす) 明日香風(あすかかぜ) 京都乎遠見(みやこをとほみ) 無用尓布久(いたづらにふく)
(志貴皇子 巻一 五一)
(訳)采女の袖(そで)をあでやかに吹きかえす明日香風、その風も、 都が遠のいて今はただ空しく吹いている。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)うねめ【采女】名詞:古代以来、天皇のそば近く仕えて食事の世話などの雑事に携わった。後宮(こうきゅう)の女官。諸国の郡(こおり)の次官以上の娘のうちから、容姿の美しい者が選ばれた。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「一見華やかに見えて、その実、何と寂しい感じでしょう。華やかさと、寂しさが一緒に歌の中に入っているみたい。そうすることによってなつかしいことを偲んでいるのです」と述べておられる。
題詞は、「従明日香宮遷居藤原京之後志貴皇子御作歌」<明日香(あすか)の宮より藤原の宮に遷(うつ)りし後に、志貴皇子(しきのみこ)の作らす歌>である。
もう一首を紹介してみる。
◆葦邊行(あしへゆく) 鴨之羽我比尓(かものはがひに) 霜零而(しもふりて) 寒暮夕(さむきゆふべに) 倭之所念(やまとしおもほゆ)
(志貴皇子 巻一 六四)
(訳)枯草のほとりを漂い行く羽がいに霜が降って、寒さが身にしみる夕暮れは、とりわけ故郷大和が思われる。(「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)はがい(羽交):鳥の左右の翼が打ちちがうところ
題詞は、「慶雲三年丙午幸于難波宮時」<慶雲(きやううん)三年丙午(ひのえうま)に、難波(なにわ)の宮に幸(いでま)す時>とあり、この歌は「志貴皇子御作歌」<志貴皇子の作らす歌>とある。
犬養 孝氏は同じく「万葉の人びと」に「この歌のすばらしいのは『芦辺ゆく鴨の羽がひに霜降りて』という言葉です。これは葦辺の所を鴨がすうっと泳いでいる。その羽の上に霜が降っているというのですが、霜が降るなどということは、さわってみなければわからないことですが、実際にさわったら鴨は逃げてしまいますよ。ですから大変現実的な人から見れば、こんなうそがあるもんかと思う。ところが、これこそが文学というものの、真実と言えましょう。人間の心の真実と言ったらいいかもしれません。」「文学でいう写実というのは」「心の写実です。」と述べておられる。
前述の著の中で、「志貴皇子はそれから後、都が奈良の都、平城京に遷ってからも生きておられ、その時はどこにおられたかというと、高円山のふもとの所、今の白毫寺という寺がありますが、あの近くではなかったかと思います。春日野のすぐ南です。だから春日宮といわれていたのです。」とも述べられている。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「万葉ゆかりの地を訪ねて~万葉歌碑めぐり」(奈良市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」