●歌は、「わが背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」である。
●歌碑は、東大寺大仏殿の外西北部にある。
●歌をみていこう。
◆吾背兒与 二有見麻世波 幾許香 此零雪之 懽有麻思)
(光明皇后 巻八 一六五八)
≪書き下し≫我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉(うれ)しくあらまし
(訳)我が夫(せ)の君と二人一緒に見ることができましたら、どんなにか、この降り積もる雪が嬉しくおもわれるでしょうに。「万葉集 二」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
(注)いくばく【幾許】副詞:①どのくらい。どれほど。②〔「いくばくも」の形で下に打消の語を伴って〕いくらも。たいして。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意
題詞は、「藤皇后奉天皇御歌一首」<藤皇后(とうっくわうごう)、天皇に奉(たてまつ)る御歌一首>である。
藤皇后とは聖武天皇の皇后、光明皇后のこと。万葉集中、光明皇后の作歌名に関して次のような記載例がある。
①藤原皇后(ふぢはらのおほきさき)
・巻十九 四二二四 左注
「右一首歌者幸於芳野宮之時藤原皇后御作 但年月未審詳」
②皇后(おほきさき)
・巻六 一〇〇九 左注
「右冬十一月九日 従三位葛城王従四位上左為王(さゐのおおきみ)等辞皇族
之高名賜外家之橘姓已(すでに)訖(おはりぬ) 於時太上天皇ゝ后共在于
皇后宮以為肆宴(とよのあかり)而即御賀橘之歌幵賜御酒祢等也 或云 此歌
一首太上天皇御歌 但天皇ゝ后御歌各有一首者其歌遣落末得探求焉 今檢案
内 八年十一月九日葛城王等願橘宿祢之姓上表 以一七日依表乞賜橘宿祢
③太后(おほきさき)
・巻二十 四四五七 題
「天平勝寶八歳丙申二月朔乙酉廿四日戌申 太上天皇大后幸行於河内離宮
経信以壬子傳幸於難波宮也 三月7日於河内國伎人郷馬國人之家宴歌三首
④皇太后(おほきさき)
・巻二十 四三〇一 題 「七日天皇(すめらみこと)太上天皇(おほきすめ
らみこと)皇太后(おほきさき)在於東常宮南大殿肆宴(とよのあか
り)歌一首」
⑤藤皇后
・巻八 一六五八 題 「藤皇后奉天皇御歌一首」
⑥藤原太后(ふぢはらのおほきみ)
・巻十九 四二四〇 題 「春日祭神之日藤原太后御作歌一首」
●光明皇后
聖武天皇の皇后。名安宿媛、また光明子とも。父は藤原不比等、母は橘三千代。孝謙天皇の母。臣下の娘で皇后になった最初の例。仏教を尊び、悲田院・施薬院を設置して福祉事業を行った。自筆と伝えられる「楽穀論」が正倉院に伝在。(コトバンク)
「万葉ゆかりの地を訪ねて~歌碑めぐり~」(奈良市HP)によると、東大寺真言院境内にも、歌碑があるそうである。訪れてみたが、残念ながら境内にはいることはできなかった。扉は閉まっていたが、境内は垣間見ることができるので雰囲気だけ撮影した。
歌のみ紹介する。
◆須賣呂伎能(すめろきの) 御代佐可延牟等(みよさかえむと) 阿頭麻奈流(あずまなる) 美知乃久夜麻尓(みちのくやまに) 金花佐久(くがねはなさく)
(大伴家持 巻十九 四〇九七)
(訳)天皇の御代が栄えるしるしと、東(あずま)の国の陸奥山に、黄金の花が咲いた。
(訳: 伊藤 博 著 「万葉集 四」より)
聖武天皇は、天平十五年(743年)に、近江紫香楽宮で大仏建立を発願、東大寺で鋳造をすすめた。天平二十一年(749 年)、陸奥国から黄金が献上された。 天皇はその喜びの詔を出し、年号も天平感寶と改元。その詔の中に、大伴家の祖先以来の功績がほめたたえられたので、大伴家持はいたく感動、長歌(四〇九四)と反歌三首(四〇九五~四〇九七)を詠った。その反歌の三首目がこの歌である。
(参考文献)
★{萬葉集} 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「万葉ゆかりの地を訪ねて~歌碑めぐり~」(奈良市HP)
★「コトバンク 百科事典マイペディアの解説」
※20220918朝食関連記事削除、一部改訂