万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その45改)―景行天皇陵近くの山の辺の道―万葉集 巻一 一七、一八

●歌は、「味酒三輪山あをによし奈良の山の山際にい隠るまで道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を情なく雲の隠さふべしや」ならびに、反歌三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや」である。

 

f:id:tom101010:20190416230206j:plain

景行天皇陵近くの山の辺の道の万葉歌碑(額田王

●歌碑は、景行天皇陵近くの山辺の道にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆味酒 三輪乃山 青丹吉 奈良能山乃 山際 伊隠萬代 道隈 伊積萬代尓 委曲毛 見管行武雄 數ゝ毛 見放武八萬雄 情無 雲乃 隠障倍之也

                (額田王 巻一 一七)

 

≪書き下し≫味酒(うまさけ) 三輪(みわ)の山(やま) あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積(つ)もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(みさ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

 

(訳)神々しき三輪の山よ、この山を、青丹(あおに)よし奈良の山の、山の間に隠れるまでも、道の隈々(くまぐま)が幾曲りに重なるまでも、充分に見ながら行きたいのに、いくたびも見はるかしたい山なのに、つれなくも、雲が隠したりしてよいものか。「万葉集 一」 伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)

(注)奈良山:奈良市街地北部一帯の丘陵。平城宮跡の北方を佐紀丘陵、その東を佐保丘陵とよび、奈良坂が通じる。(コトバンク デジタル大辞泉

(注)くま【隈】名詞:①曲がり角。曲がり目。②(ひっこんで)目立たない所。物陰。③辺地。片田舎。④くもり。かげり。⑤欠点。短所。⑥隠しだて。秘密。⑦くまどり。歌舞伎(かぶき)で、荒事(あらごと)を演じる役者が顔に施す、いろいろな彩色の線や模様。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)ここでは①の意

(注)つばらなり【委曲なり】形容動詞:詳しい。十分だ。存分だ。つばらに(学研)

(注)しばしば【廔廔】副詞:たびたび。何度も。(学研)

(注)みさく【見放く】他動詞:①遠くを望み見る。②会って思いを晴らす。 ※「放く」は遠くへやる意。上代語。(学研)

 

 反歌もみてみよう。 

 

三輪山乎 然毛隠賀 雲谷裳 情有南敏 可苦佐布倍思哉

                (額田王 巻一 一八)

 

≪書き下し≫三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠そふべしや

 

(訳)ああ、三輪の山、この山を何でそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠したりしてよいものか。よいはずがない。(同上)

(注)しかも【然も】分類連語:①そのようにも。②〔下に「…か」を伴って〕そんなにも(…かなあ)。 ※「も」は係助詞。(学研)ここでは②の意

(注)なも 終助詞:《接続》活用語の未然形に付く。〔他に対する願望〕…てほしい。…てもらいたい。 ※上代語。(学研)

 

題詞は、「額田王下近江國時作歌井戸王即和歌」<額田王、近江(あふみ)の国に下(くだ)る時に作る歌、井戸王(ゐのへのおほきみ)が即(すなは)ち和(こた)ふるる歌>である。

 

 左注は、「右二首歌山上憶良大夫類聚歌林日 遷都近江國時 御覧三輪山御歌焉 日本書紀日 六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都干近江」<右の二首の歌は、山上憶良大夫(やまのうへのおくらのまへつきみ)が類聚歌林(るいじうかりん)には「都を近江(あふみ)の国に遷(うつ)す時に三輪山の御覧(みそこなは)す御歌なり」といふ。日本書紀には「六年丙寅(ひのえとら)の春の三月辛酉(かのととり)の朔(つきたち)の己卯(つちのとう)に、都を近江に遷すといふ>である。

(注)御歌:天智天皇の御歌。額田王が代わって詠んだのでこの伝えがある。 

 

 桜井市のHPの「桜井市観光情報 ひみこの里・記紀万葉のふるさと」に「万葉歌碑めぐり」がある。万葉歌碑をいくつか候補をあげた。まず、景行天皇陵を目指す。

 景行天皇陵の前の駐車スペースに車を止める。すぐ横に山の辺の道の案内板が建っている。陵の周りを探すが見つからない。地図は漠然としておりスマホで検索するも出てこない。

f:id:tom101010:20190416230339j:plain

景行天皇陵説明案内板

f:id:tom101010:20190416231754j:plain

山の辺の道案内板(後ろは三輪山

 

 陵を半周ほど行ったあたりの小高いところに大和三山を見渡せる場所があるが、そのあたりではなさそうである。山の辺の道にあるはず。思い切って陵から離れて三輪方面に歩いてみる。くねった道の三叉路の脇に小さな碑と白い札があった。

 これまで見てきた歌碑からみれば非常に小さい。横の白い札のナンバーと桜井市のHPの歌碑番号と違うので最初は信じられなかった。歌を読んで確信した。漸く見つけることができた。

f:id:tom101010:20190416232819j:plain

遠くに大和三山を望む

 天智六年(667年)近江遷都とある。額田王(ぬかたのおほきみ)は、三輪山は、大和の中で最も崇敬された山だから、三輪山が見えなくなる奈良山の道の隈で三輪山と離れる祭りをしている。大和の地を離れがたい思い、三輪山との別れを惜しむ歌が今日のテーマである。奈良盆地内では三輪山は見えていたのだろう。奈良坂あたりを越えると下りに入り見えなくなる。奈良山地帯のどのあたりかは分からないが地形的にはイメージできる。しかしこの時代に飛鳥から近江へは大変な道のりであったであろう。この約40年後、大津宮飛鳥浄御原宮、藤原宮を経て、奈良山のふもと近く平城京に都ができるとは想像もしていなかったであろう。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「別冊國文学 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「万葉の大和路」 犬養 孝 著 (旺文社文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「桜井市観光情報 ひみこの里・記紀万葉のふるさと」(桜井市HP)

★「コトバンクデジタル大辞泉』」

★「Weblio辞書」

★「Weblio古語辞書」

 

20210818朝食関連記事削除、一部改訂