●奈良県桜井市三輪にある三輪山平等寺は、慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み70日間滞在し、無事薩摩に帰ったことで知られている。「島津義弘公ゆかりの寺」の、のぼり旗が掲げられていた。
●歌は、「わが衣色に染めなむうまさけ三室のやまはもみぢしにけり」である。
平等寺は、三輪交差点を東に折れ、JR万葉まほろば線の踏切を越えてほぼ直線状に進んだところにある。
万葉歌碑は、この山門を入ってすぐ左手にあった。
同寺HPによると、開基は聖徳太子によると伝えられているいる。鎌倉時代の初期、中興の祖、慶円上人(三輪上人1140~1223)を迎えるに及び、東西500m、南北330mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有し三輪社奥の院として、由緒ある名刹となった。平等寺は三輪別所とも呼ばれた。鎌倉時代の平等寺には、仏法、学問の奥義を求めて多くの人々が参詣した。 室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し、80石の朱印地を持ち修験道の霊地でもあった。また、慶長5年(1600年)9月15日関ヶ原の合戦で敗れた薩摩の領主、島津義弘主従がこの寺に逃げ込み70日間滞在し無事帰国とある。しかし、明治維新になって、廃仏毀釈(仏を廃し神を敬する)の令きびしく、大神神社の神宮寺であった平等寺は、ことさらにそのあらしを強く受け、堂塔ことごとく整理を迫られ。廃仏毀釈より100年目を迎えた昭和52年6月4日付で平等寺と寺号が復興され本堂、鐘楼堂、鎮守堂、翠松閣、釈迦堂(二重塔)の復興をはじめ前立本尊十一面観世音菩薩が造立された。
●歌をみていこう。
◆我衣 色取染 味酒 三室山 黄葉為在
(柿本人麻呂 巻七 一〇九四)
≪書き下し≫我が衣ににほひぬべくも味酒(うまさけ)三室(みむろ)の山は黄葉(もみち)しにけり
(注)「『萬葉集』 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)」では、「あがころもいろどりそめむ」と読んでいるが、伊藤 博氏は、脚注で「本文を『我衣服 色染』と校訂しての訓。私の着物に色が移ってしまうほどに」と書かれている。
(訳)私の着物が美しく染まってしまうほどに、三輪の山は見事に黄葉している。(伊藤 博著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
(注)ぬべし 分類連語:①〔「べし」が推量の意の場合〕きっと…だろう。…てしまうにちがいない。②〔「べし」が可能の意の場合〕…できるはずである。…できそうだ。③〔「べし」が意志の意の場合〕…てしまうつもりである。きっと…しよう。…てしまおう。④〔「べし」が当然・義務の意の場合〕…てしまわなければならない。どうしても…なければならない。⇒注意:「ぬ」はこの場合、確述を表す。 ⇒なりたち:完了(確述)の助動詞「ぬ」の終止形+推量の助動詞「べし」(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
(注)うまさけ【味酒・旨酒】分類枕詞:味のよい上等な酒を「神酒(みわ)(=神にささげる酒)」にすることから、「神酒(みわ)」と同音の地名「三輪(みわ)」に、また、「三輪山」のある地名「三室(みむろ)」「三諸(みもろ)」などにかかる。「うまさけ三輪の山」 ⇒参考:枕詞としては「うまさけの」「うまさけを」の形でも用いる。(学研)
堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」のなかで、「色づいた三輪山を見て、その神秘な感じに思い入った内省的な歌。」と述べておられる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230410朝食関連記事削除、一部改訂