●防人は、当初は九州の人をあてていたが、後には主として東国の人をあてるようになった。任期は三年で毎年三分の一が交替させられていた。命令によりそれぞれの国の、防人部領使(さきもりのことりづかい)が連れてきて、難波(なにわ)で中央の役人に引き継ぐのである。大伴家持は、兵部少輔としてその中央の役人で兵務部の仕事をしていた。家持は歌人であったから、家持に渡った防人たちの歌が万葉集に残ったと考えられている。
●歌は、「難波津を 漕ぎ出て見れば 神さぶる生駒高嶺に 雲そたなびく」である。
阪奈道路から信貴生駒スカイラインにはいり、1.5kmほど走ったところに生駒山山麓公園がある。野外活動センターなどがあり広大な公園である。フィールドアスレチックコーナーと多目的広場の間の小高い山に「万葉のみち」がある。山麓公園オリジナルの歌碑はないが、その一角に、生駒市内の六か所の万葉歌碑を紹介している。
●歌をみてみよう。
◆奈尓波刀乎 己嶬埿弖美例婆 可美佐夫流 伊古麻多埿可祢尓 久毛曽多奈妣久
(大田部三成 巻二十 四三八〇)
≪書き下し≫難波津(なにはと)を漕(こ)ぎ出(で)て見れば 神(かみ)さぶる生駒高嶺(いこまたかね)に雲そたなびく
(訳)難波津を漕ぎ出して振り返ってみると、神々しい生駒の高嶺に、雲がたなびいている。(伊藤 博著「万葉集 四」角川ソフィア文庫より)
左注は「右一首梁田郡上丁大田部三成」<右の一首は梁田(やなだ)の郡の(じゃうちゃう)大田部三成(おほたべのみなり>とある。
(注)梁田郡:栃木県足利郡の南部
四三七三歌から四三八三歌十一首の内の一首である。この歌群の左注は、「二月十四日下野國防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌數十八首 但拙劣歌者不取載之」<二月の十四日、下野(しもつけ)の国(くに)の防人部領使(さきもりのことりづかひ)正六位上田口朝臣大戸(たぐちのあそみおほへ)。進(たてまつ)る歌の数十八首。ただし、拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>とある。
この歌に関して、堀内民一氏は「大和万葉―その歌の風土」の中で、「生駒山は河内、和泉からながめると神秘な山に見えたのである。海上からはるかにながめたのだから、神々しさは格別で、防人の目に、やるせなく悲しく焼き付いたのにちがいない。はるかなる山への、悲愴な思いである。」と書いておられる。
この左注には「進(たてまつ)る歌数十八首 ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず」とある。十一首が万葉集に収録されているが、七首は収録されていない。
防人たちが作り、奉られた歌は全部で百六十六首であるが、拙き歌として取り上げられなかった歌は八十二首にものぼる。従って八十四首が巻二十に収録されたのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「奈良女子大万葉集データベース」
※20230404朝食関連記事削除、一部改訂