●歌は、「妹が目を跡見の崎の秋はぎは比月ごろは散りこすなゆめ」である。
●歌をみてみよう。
◆妹目乎 始見之埼弐乃 秋芽子者 此月其呂波 落許須莫湯目
(大伴坂上郎女 巻八 一五六〇)
≪書き下し≫妹が目を始見(はつみ)の崎の秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ
(訳)始見の崎に咲いている萩の花は、この月中ぐらいは散らないでおくれ、けっして。(伊藤 博 著「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
(注)妹が目を:「始目」の枕詞。(伊藤脚注)
(注)始見の崎:所在未詳(伊藤脚注)
(注)散りこすなゆめ:散らないでおくれ、けっして。コスは下手に出て希望する意の下二段活用補助動詞。ナは禁止の助詞。(伊藤脚注)
題詞は、「大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首」≪大伴坂上郎女、跡見(とみ)の田庄(たどころ)にして作る歌二首>である。
もう一首もみてみよう。
◆吉名張乃 猪養山尓 伏鹿之 嬬呼音乎 聞之登聞思佐
(大伴坂上郎女 巻八 一五六一)
≪書き下し≫吉隠(よなばり)の猪養(ゐかい)の山に伏(ふ)す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨(とも)しさ
(訳)吉隠の猪養の山で、そこをねぐらとしている鹿の、妻を求めて鳴く声、その声を聞くのは心がしみじみとして懐かしい限りが。
(注)猪養の山:桜井市吉隠の東北方の山。(伊藤脚注)
(注)伏す:鹿が静止している姿をいう。ねぐらにしている意。(伊藤脚注)
(注)ともしさ【羨しさ】名詞:うらやましいこと。(学研)
歌碑はすっかり苔むしており、何とか文字が見えるような状態である。歌碑の横には、「この歌碑は『令和』の元となる万葉集の序文を記した『大伴旅人』の妹『大伴坂上郎女』が詠んだ万葉歌です」と木製の額に紙が貼られ、ポリエチレンフィルムでカバーがかけられていた。
昨年末から万葉歌碑を巡り写真を撮っているが、残念ながら歌碑を写している人に巡りあったことがないもの不思議なことである。令和が決まり、令和になってからも万葉集の講演等があれば満席だとか講師が引っ張りだこで万葉集ブームと言われているが。
ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて―その81―」で、「大伴坂上郎女竹田庄作歌二首」<大伴坂上郎女竹田庄(たけたのたどころ)にして作る歌二首>を題詞とする歌二首を紹介している。「竹田庄は、今の、橿原市東竹田町であるという。耳成山の東側にあり、桜井市にも隣接している。堀内民一氏の著書『大和万葉―その歌の風土』によると、大伴氏の荘園が竹田庄にあったので、大伴坂上郎女がそこに住んでいたそうである。」と書いている。その一五九三歌は、「こもりくの泊瀬の山」の方を望みながら竹田庄で詠っている。
詳細は手持ちの資料等では審らかにはできないが、題詞の「大伴坂上郎女跡見田庄作歌二首」≪大伴坂上郎女、跡見(とみ)の田庄(たどころ)にして作る歌二首>から、大伴氏の荘園が跡見田庄(とみのたどころ)にもあって、そこで詠ったのかもしれない。あるいは、橿原市東竹田町から等彌(とみ)神社までおよそ22km(歩いて6時間位)であるので、何らかの事情でこの地を訪れた時に詠ったのかもしれない。
もう一首が「吉隠の猪養山」を詠っているので、前者の可能性が高いように思う。
また、「始見の崎」の「始見」は「神武天皇の霊畤」を行った山の「崎」と考えれば現在の等彌神社あたりであったと考えることができるのではと思う。
このようなロマンをかきたててくれるのも万葉集の魅力の一つである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230411朝食関連記事削除、一部改訂