●歌は、「梯立の倉橋山に立てる白雲みまく欲りわがするなべに立てる白雲」である。
●歌碑は、桜井市高齢者総合福祉センター前にある。
●歌をみていこう。
◆橋立 倉椅山 立白雲 見欲 我為苗 立白雲
(作者未詳 巻七 一二八二)
≪書き下し≫はしたての倉橋山に立てる白雲 見まく欲(ほ)り我(わ)がするなへに立てる白雲
(訳)倉橋山に湧き立っている白雲よ。ぜひ見たいと思ったその折しも湧き立っている、あの人を偲ばせる白雲よ。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)はしたての【梯立ての】:<枕詞>高床式の倉に梯子(はしご)をかけたところから「くら」「峻(さが)し(=険しい)」や地名「倉梯(くらはし)」にかかる。また「くら」の音の変化から地名「熊来(くまき)」にかかる。
この歌に続く、一二八三歌、一二八四歌も「はしたての」で始まっている。
この二首もみていこう。前歌同様この二首も旋頭歌である。
◆橋立 倉椅川 石走者藻 壮子時 我度為 石走者裳
(作者未詳 巻七 一二八三)
≪書き下し≫はしたての倉橋川の石(いは)の橋はも男盛(をざか)りに我(わ)が渡してし石の橋はも
(訳)倉橋川の飛び石はどうなったのやら、若い盛りに、あの子ゆえに私が渡したあの飛び石はどうなったのかな。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
(注)石(いは)の橋:飛び石
伊藤 博氏は「万葉集 二」の一二八三歌の脚注で、「が渡してし石の橋はも」の脚注で「あの子の所に通うため渡した飛び石はああ。ハモは眼前にないものに対する詠嘆」と書いておられる。
犬養 孝氏は「万葉の大和路」(犬養 孝/文 入江泰吉/写真 旺文社文庫)の中で、「六句体、旋頭歌の体をなして、うたいものとして民謡風の面影のある歌である。これは人麻呂歌集の歌で、人麻呂の手が加わっているかも知れないが、人麻呂によって書き留められていた歌であろうか。(中略)この歌など、多感な青春の碑への回想と思慕の思いがたたまれ、郷土の風物と密着してうたいあげられた民謡のかおりが高い。」と書かれている。
◆橋立 倉椅川 河静菅 余苅 笠裳不編む 川静菅
(作者未詳 巻七 一二八四)
≪書き下し≫はしたての倉橋川の川のしづ菅(すげ) 我が刈りて笠も編まなく川のしづ菅
(訳)倉橋川、その川のしず菅よ。私が刈っただけで、笠にも編まないままに終わった、その川のしず菅よ。
(注)しず菅:〘名〙 菅の一種。菅の小さなものか。
[補注]どういう菅かについては諸説がある。(1)「下つ菅」で水の下にかくれてはえる菅とする説、(2)「石著菅(いしつきすげ)」で石についた菅とする説、(3)「倭文(しつ)菅」で、縞のある菅とする説、(4)神をしずめる菅とする説、など。
伊藤 博氏は「万葉集 二」の一二八四歌の脚注で、「しづ」に「静」を匂わすか。「我が刈て笠も編まなく」については、「深い関係になったが結婚生活に入れなかったことの譬え」と書かれている。
伊藤 博氏は、「この三首は若き日を偲ぶ歌」と書かれている。だから、桜井市高齢者総合福祉センター前に歌碑がおいてあるのだろう。
吉備春日神社境内で大津皇子の漢詩の碑を見つけたが、大来皇女の歌碑は見つからなかった。吉備池畔にも大津皇子、大来皇女の万葉歌碑があるので探す予定にしていたが、雨で足元も悪く、池の周りの道も草ぼうぼうであり、とても一周できる状況ではなかったので、これもあきらめ、沈んだ気持ちで福祉センターに向かったのである。(ブログ拙稿「その106」に書いているが、吉備春日神社境内の歌碑は漢詩の後半スペースに大来皇女の万葉歌が彫られていたことが後日、判明した)
福祉センター前に到着したら、入口にチェーンがかかっており「本日休館」の札も。この日は全くついていない。雨は少し小ぶりになったとはいえ気持ちがさらに落ち込む。
このような施設の場合、万葉歌碑は玄関あたりか、前庭的なところにあるので、エントランスから駐車場周り、玄関前をぶらつく。見当たらないし、聞く人もいない。遊歩道のようなところを歩いてみたが、結局見つからず。あきらめて車に戻ろうとエントランスの坂道を下りようとした時、左側手の茂みの中に説明碑的なものが見えた。「倉梯紫垣宮伝承地」の説明碑である。第32代崇俊天皇居住的宮殿伝承の地とある。
これでも写しとこうとしたとき、茂みの中に隠れるように万葉歌碑が置かれていた。
雨もあがった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫)
★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)
※20230412朝食関連記事削除、一部改訂