万葉歌碑を訪ねて―その108―
●歌は、「椋橋の山を高みか夜ごもりに出で来る月の光ともしき」である。
●歌をみていこう。
◆椋橋乃 山乎高可 夜隠尓 出来月乃 光乏寸
(間人宿祢大浦 巻三 二九〇)
≪書き下し≫倉橋の山を高みか夜隠(よごも)りに出で来(く)る月の光乏(とも)しき
(訳)倉橋の山が高いからであろうか、夜遅く出て来る月のその光の心細いのは。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)
犬養 孝氏は「万葉の大和路」(犬養 孝/文 入江泰吉/写真 旺文社文庫)の中で、「倉橋川の東方の山地は音羽山(八五一メートル)である。古代の倉橋山は異説はあるが、この音羽山ではないかといわれる。大和三山の間、藤原の宮方面から見れば、多武峰の上に稜線を見せていて、月の出のおそいのを、『倉橋山を高みか』と訴えるのも自然に思われる。」と述べておられる。
この歌の題詞は、「間人宿祢大浦初月歌二首」<間人宿祢大浦(はしひとのすくねおほうら)が初月(みかづき)の歌二首>である。
もう一首のほうもみていこう。
◆天原 振離見者 白真弓 張而懸有 夜路者将吉
(間人宿祢大浦 巻三 二八九)
≪書き下し≫天の原振(ふ)り放(さ)け見れば白真弓(しらまゆみ)張りて懸けたり夜道はよけむ
(訳)天の原を遠く振り仰いでみると、白木の真弓を張って月がかかっている。この分だと夜道はさぞかし歩みやすいであろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)白真弓:白木の弓。三日月の譬え。
「天の原ふりさけ見れば」とくると「春日なる三笠の山に出でし月かも」と詠ってしまう。これは、阿倍仲麻呂の歌(古今集)である。
それでは、万葉集に、「天の原ふりさけ見れば」で始まる歌を調べてみよう。百四十七歌、二八九歌、二〇六八歌、三六六二歌の四首である。
二八九歌以外をみてみよう。
◆天原 振放見者 大王乃 御壽者長久 天足有
(倭姫王 巻二 一四七)
≪書き下し≫天の原振り放(さ)け見れば大君(おほきみ)の御寿(みいのち)は長く天足(あまた)らしたり
(訳)天の原を振り仰いではるかに見ると、我が大君の御命は、とこしえに長く天空いっぱいに充ち足りていられます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」角川ソフィア文庫より)
(注)倭姫王(やまとひめのおほきみ):天智天皇の后
<近江(あふみ)の大津(おほつ)の宮に天の下知らしめす天皇の代 天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)、謚(おくりな)して天智天皇といふ
天皇聖躬不豫(せいきゆうふよ)の時に、太后(おほきさき)の奉(たてまつ)る御歌一首>
(注)聖躬不豫(せいきゆうふよ):御身の不快。
◆天原 振放見者 天漢 霧立渡 公者来良志
(作者未詳 巻十 二〇六八)
≪書き下し≫天の原振り放(さ)け見れば天の川霧立ちわたる君は来(こ)ぬらし
(訳)大空を振り仰いで見渡すと、天の川に霧が一面に立ちこめている。あの方はやっぱり舟を漕いでついそこまでやって来ておられるらしい。(伊藤 博 著 「万葉集 二」角川ソフィア文庫より)
◆安麻能波良 布里佐氣見礼婆 欲曽布氣尓家流 与之恵也之 比等里奴流欲波 安氣婆安氣奴等母
(作者未詳 巻十五 三六六二)
≪書き下し≫天の原振り放(さ)け見れば夜(よ)ぞ更(ふ)けにける よしゑやしひとり寝(ぬ)る夜(よ)は明けねば明けぬとも
(訳)天の原、この大空を遠くはるかに振り仰いでみると、夜もすっかり深くなってしまった。ええい、妻を離れて独りわびしく寝なければならぬこんな夜なんかは、明けるなら明けてしまっても。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
(注)よしゑやし【縦ゑやし】:①たとえ。かりに。 ②しかたがない。ままよ。
「や」「し」ともに助詞。「よし」「よしゑ」を強めたもの。
「天の原ふりさけ見れば」で始まる歌は、天智天皇の病気平癒を切に願う倭姫王の歌から、通う男、通われる女の歌、ひとり寝の男のやけっぱち的な歌まで収録されている。万葉集の万葉集たるところである。
奈良県道三七号線(桜井吉野線)バス停「聖林寺前」あたりから山の手にのぼる。
駐車場があるのでそこに車を止める。かなりの急坂があり、そこを上っていく。その坂から右手に山門への登り道がある。その曲がり角に歌碑はあった。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫)
★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230205朝食関連記事削除、一部改訂