万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その110改)―奈良県桜井市粟原寺(おおばらでら)跡―万葉集 巻二 一一一、一一二

●歌は、

「古に恋ふらむ鳥かもゆずるはのみ井の上より鳴き渡り行く」(弓削皇子

「古に恋ふらむ鳥は時鳥けだしや鳴きし我が恋ふるごと」(額田王) である。

 

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粟原寺跡万葉歌碑(弓削皇子額田王

●歌碑は、奈良県桜井市粟原寺(おおばらでら)跡にある。 

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史跡粟原寺阯碑

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粟原寺跡

 

●それぞれの歌をみていこう。

 

弓削皇子の歌 

◆古尓 戀流鳥鴨 弓絃葉乃 三井能上従 鳴嚌遊久

                (弓削皇子 巻二 一一一)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥かも弓絃葉(ゆずるは)の御井(みゐ)の上(うへ)より鳴き渡り行く

 

(訳)古(いにしえ)に恋の焦がれる鳥なのでありましょうか、鳥が弓絃葉の御井(みい)の上を鳴きながら大和の方へ飛び渡って行きます。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)弓絃葉の御井:吉野離宮の清泉の通称か。

 

 題詞は、「幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首」<吉野の宮に幸(いでま)す時に、弓削皇子(ゆげのみこ)の額田王(ぬかたのおほきみ)に贈与(おく)る歌一首>である。

 

 弓削皇子持統天皇吉野行幸の際、のため行幸に参加できなかった額田王のことを思い出されて作られた歌である。

 

額田王の歌

◆古尓 戀流鳥者 霍公鳥 蓋哉鳴之 吾念流碁騰

                (額田王 巻二 一一二)

 

≪書き下し≫いにしへに恋ふらむ鳥はほととぎすけだしや鳴きし我(あ)が思(も)へるごと

 

(訳)古に恋い焦がれて飛び渡るというその鳥はほととぎすなのですね。その鳥はひょっとしたら鳴いていたかもしれませんね。私が去(い)にし方(かた)を一途に思いつづけているように。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「額田王奉和歌一首 従倭京進入」額田王、和(こた)へ奉る歌一首 倭の京より進(たてまつ)り入る>である。

 

 

 桜井市HP「万葉歌碑>歌碑一覧(多武の道コース)」には、「番号28 所在:粟原寺跡 著者:弓削皇子」、同「番号28-2 同 著者:額田王」と掲載されている。

ここを訪れて歌碑の写真を撮った時、さっと見て、字數多いのは題詞を書き込んだのだろうと思い、「古尓戀・・・」と「額田王」の文字が目に入ったので、間違いないと思っており、弓削皇子の歌碑をもう一度寺跡を探し回ったのである。

 後日、ネットで検索しても、額田王の歌碑として載っており、弓削皇子の歌碑の写真は確認できなかった。

 今日、歌碑の写真をアップしようとしたとき、大津皇子漢詩と大伯皇女の万葉歌が同じ碑に書かれていたことを思い出し、念のため、じっくり眺めてみた。なんと、

「  幸于吉野宮時弓削皇子贈与額田王歌一首

   古尓戀流鳥鴨弓絃葉乃三井能上従鳴嚌遊久

   額田王奉和歌一首 従倭京進

   古尓戀流鳥者霍公鳥蓋哉鳴之吾念流碁騰」  と彫り込んであるではないか。

早とちりも良いとこであった。

 

 弓削皇子の歌に対して、霍公鳥はまさに、昔を懐かしむ自分の魂だと認めて歌った歌である。ちなみに、万葉集には鳥は三十八種類、五四四首に詠われているという。霍公鳥(ほととぎす)は最も多く一五六首に詠われている。

 

 

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天満神社の後方に粟原寺跡がある

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉歌碑めぐり」(桜井市HP)

★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

 

※20210419朝食関連記事削除、一部改訂