●万葉集巻十六の巻頭に「有由縁幷雑歌」とある。物語的な内容を踏まえた歌、まさに「有由縁」歌ならびに、他の巻とは異なる視点からの「雑歌」を集めた形をとっている。今日紹介する万葉歌碑の歌は、「縵児」伝説に関わる歌である。
●万葉歌碑を訪ねて―その116―
歌は、「耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ」である。
歌をみていこう。
◆無耳之 池羊蹄恨之 吾妹兒之 来乍潜者 水波将涸 一
(作者未詳 巻十六 三七八八)
≪書き下し≫耳成(みみなし)の池し恨めし我妹子(わぎもこ)が来つつ潜(かづ)かば水は涸れなむ
(訳)耳成の池はほんとうに恨めしい。いとしいあの子がここを行きつ戻りつして身を沈めるというのなら、水なんてすぐ干上がってしまうべきなのに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
この歌の題詞は、三人の男から求愛された縵児(かづらこ)が、耳成山の近くの池に身を投げてしまい、その男たちが嘆いて詠ったとある。
或曰 昔有三男同娉一女也 娘子嘆息曰 一女之身易滅如露 三雄之志難平如石 遂乃彷徨池上沈没水底 於時其壮士等不勝哀頽之至 各陳所心作謌三首 娘子字曰縵兒也」
≪題詞書き下し≫或いは曰ふ。昔、三人(みたり)の男(をのこ)あり。同(とも)に一人(ひとり)の女(をみな)を娉(よば)ふ。娘子(をとめ)嘆息(なげ)きて曰はく、「一人の女の身、滅(け)やすきこと露のごとし。三人(みたり)の雄(をのこ)の志(こころ)、平(やは)しかきこと石のごとし」といふ。つひにすなはち、池の上(ほとり)を彷徨(たちもとほ)り、水底(みなそこ)に沈(しづ)み没(い)りぬ。時に、その壮士(をとこ)ども、哀頽(かなしび)の至りに勝(あ)へず、おのもおのも所心(おもひ)を陳(の)べて作る歌三首 娘子は、字を縵児(かづらこ)といふ
(注)たちもとほる【立ち徘徊る】歩き回る。徘徊(はいかい)する。
他の二人の歌をみてみよう。
◆足曳之 山縵之兒 今日往跡 吾尓告世婆 還来麻之乎 二
(作者未詳 巻十六 三七八九)
≪書き下し≫あしひきの山縵(やまかづら)の子今日(けふ)行くと我れに告げせば帰り来(こ)ましを
(訳)山のひかげのかずら、その名を持つ縵児(かづらこ)よ、今日あの世に行くと私に告げてくれたなら、あなたの所へ飛んで帰って来たのに。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
◆足曳之 山縵之兒 如今日 何隈乎 見管来尓監 三
(作者未詳 巻一六 三七九〇)
≪書き下し≫あしひきの山縵(やまかづら)の子今日(けふ)のごといづれの隈(くま)を見つつ来(き)にけむ
(訳)山のひかげのかずら、その名を持つ縵児(かづらこ)よ、あとを追おうとさまよう今日の私のように、あなたは死場所を求めてどのみちの曲がり角を見ながらやって来たのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」角川ソフィア文庫より)
※「萬葉集」(鶴 久・森山 隆 編 桜楓社)は「山縵」となっているのでそれに従った。
「玉縵」とも。
巻十六は、巻頭に「有由縁幷雑歌」<由縁(ゆえよし)有(あ)る雑歌>とある。
(注)ゆゑよし【故由】:いわれ。由来。わけ。
巻十六は、大きく分けて、次の五つのグループに分けられる。
- 題詞が、物語的な内容をもち、歌物語といえるような歌のグループ(三七八六~三八〇五歌)
- 題詞でなく、左注が歌物語的に述べる歌のグループ(三八〇六~三八一五歌)
- いろいろな物を詠いこまれるように題を与えられたのに応じた形の歌のグループ(三八二四~三八三四歌)(三八五五~三八五六歌)
- 「嗤う歌」と題詞にいう歌のグループ(三八四〇~三八四七歌)
- 国名を題詞に掲げる歌のグループ(三八七六~三八八四歌)
巻十六は、①②のように物語的な内容を踏まえた歌、まさに「有由縁」歌であり、そのほかは他の巻とは異なる視点からの「雑歌」を集めた形をなしており、「歌物語をはじめとして、雑多な、歌においてありうるこころみをつくして見せ」(神野志隆光 著「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 東京大学出版会)ているのである。
耳成山の南側に古池がありそばを東西に近鉄大阪線が走っている。耳成山登山口のひとつである山口神社が裾野にある。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著
(東京大学出版会)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」
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