●歌は、「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」である。
●歌碑は、奈良県橿原市東池尻町の妙法寺(御厨子観音)参道入り口近くにある。
●歌をみていこう。
◆百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見 雲隠去牟
(大津皇子 巻三 四一六)
≪書き下し≫百伝(ももづた)ふ磐余(いはれ)の池に鳴く鴨を今日(けふ)のみ見てや雲隠りなむ
(訳)百(もも)に伝い行く五十(い)、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)ももづたふ【百伝ふ】:枕詞 數を数えていって百に達するの意から「八十(やそ)」や、「五十(い)」と同音の「い」を含む地名「磐余(いはれ)」にかかる。
題詞は、「大津皇子被死之時磐余池陂流涕御作歌一首」<大津皇子(おほつのみこ)、死を被(たまは)りし時に、磐余の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首>、
左注は、「右藤原宮朱鳥元年冬十月」≪右、藤原の宮の朱鳥(あかみとり)の元年の冬の十月>とある。
大津皇子辞世の歌である。
大津皇子は、謀反の疑いで叔母にあたる持統天皇によって誅殺された。磐余には大津皇子の住いがあった。皇子は文武両道に秀でていたが、持統天皇はわが子草壁皇子に皇位を継承されるべく大津皇子を謀反の罪に問うたと言われている。
悲劇の皇子である。
参道右手には御厨子神社参道がある。
「磐余」について少しみていこう。
桜井市観光情報サイトひみこの里・記紀万葉のふるさと>宮跡めぐり>磐余の邑をのぞいてみる。「『磐余の邑』は、奈良盆地の東南端に位置し、ここから眼前に広がる桜井市の西部地域を指した古代の地名です。日本書記に記された神武東征の物語には、『磐余の地の旧名は、片居または片立という。大軍集(つど)いてその地に満(いは)めり。因りて改めてその地を磐余とする』との記述があり、神武天皇の和風諡号にも神日本磐余彦天皇と「磐余」が含まれています。この地は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。また、履中天皇の条には、『磐余池を作る』と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています。 この池は、万葉集の大津皇子の辞世の歌をはじめ、平安時代の「枕草子」や「拾遺集」などにも取り上げられていることからかなりの長い期間にわたって存在していたとされています。」とある。
諸説があるようであるが、磐余の池については、桜井市阿部から橿原(かしはら)市池尻町付近にあった池、と言われている。奈良県桜井市池尻町にある御厨子(みずし)神社は、磐余甕栗(いわれ みかくり)宮跡と伝えられている。「池尻」という地名等から考えても不思議ではない。
御厨子(みずし)神社参道とV字型に妙法寺(御厨子観音)参道がある。起点近く妙法寺参道側に歌碑が立てられて云う。橿原市観光マップには「磐余池推定地」と書かれている。
時の女帝持統天皇により誅殺された大津皇子の悲痛な叫びが「今日のみ見てや雲隠りなむ」に込められている。
「持統紀」には、「朱鳥(あかみとり)元年十月三日、皇子大津を訳語田(おさだ)の舎(いへ)に賜死(みまからし)む。時に年二十四なり。妃皇女山辺(みめひめみこやまのへ)、髪を被(くだしみだし)して徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ。見る者皆歔欷(なげ)く」とある。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)
★「橿原市観光マップ」
★「Weblio古語辞書」
※20211022朝食関連記事削除、一部改訂