●蘇我氏全盛時代を築いた蘇我馬子は、飛鳥川の傍らに居を構え、当時としては珍しい造園法を取り入れたのである。すなわち、庭の中に池を掘り、池の中に小島を築いたのである。それゆえ、当時の人々は、馬子のことを「島大臣(しまのおとど)」と呼んだのである。蘇我氏誅滅のあと屋敷は、朝廷の管理下におかれ草壁皇子の宮となっていたのである。「草壁皇子の舎人等(とねりら)慟傷(かな)しびて作る歌二三首」からも庭園の情景がうかがい知れるのである。
●サンドイッチは、サニーレタスと焼き豚。デザートは、バナナの縦切りを十字状に並べ、余白部分をトンプソンとレッドグローブの切合わせを配し、干しぶどうでアクセントをつけた。
●万葉歌碑を訪ねて―その121―
「水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも」
万葉の森は、香具山の東山麓にある。その中に約1kmにわたって、万葉歌碑が9つ点在している径がある。ほぼ真ん中あたりに駐車場がある。駐車場から径を見下ろす形になっている。階段を下りて行き谷底に着いた感じで径を歩く。南側の出入り口までいき引き返す、北側の出入り口の前には古池が広がっている。古池畔にも万葉歌碑があるのだが、ザ~と見わたしたが見つけることができなかった。再び径を引き返し、今度は駐車場を目指しての登り坂となる。
歌碑については、北から順番に紹介していくことにする。
歌をみていこう
◆水傳 磯乃浦廻乃 石上乍自 木丘開道乎 又将見鴨
(草壁皇子の宮の舎人 巻二 一八五)
≪書き出し≫水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
(訳)水に沿っている石組みの辺の岩つつじ、そのいっぱい咲いている道を再び見ることがあろうか。
一七一~一九三歌の歌群の題詞は、「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」<皇子尊(みこのみこと)の宮の舎人等(とねりら)、慟傷(かな)しびて作る歌二三首>とある。
持統朝に、皇子尊(みこのみこと)と称したのは草壁皇子と高市皇子である。この題詞にいう、皇子尊は草壁皇子である。草壁皇子は死後、日雙斯(ひなめし)と諡(おくりな)せられている。
草壁皇子は飛鳥の島の宮に住んでおられたという。島の宮は蘇我氏の旧邸宅の後を、宮殿にしたものであったといわれている。飛鳥川などの水を利用した宮殿造りで、蘇我馬子は島大臣(しまのおとど)と呼ばれていた。
島の宮の故地は、今の飛鳥の岡の南の島の庄の地で、飛鳥川に臨んだところで、橘の島の宮ともいわれる。
橘の島の宮に関しては、コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及として、「大化改新後になって,天武天皇の皇子,草壁皇子の早世を悲しんで春宮の舎人たちの詠んだ歌が《万葉集》巻二にのこされているが,この歌から皇子の庭園がかなりはっきり知られる。この庭園にも池がうがたれ,荒磯の様を思わせる石組みがあり,石組みの間にはツツジが植えられ,池中には島があり,このために〈橘の島宮〉と称せられたという。このように,池を掘り海の風景を表そうとしたことは,以後の日本庭園にも長く受け継がれる」と載っている。
舎人たちが作った歌の中からも、池があり、庭石を置いて磯をかたどり、水鳥が放たれ、池辺には岩つつじが咲いていたという「島」=庭園の情景がうかがえるのである。
⦿島の宮上(かみ)の池なる放ち鳥荒(あら)びな行きそ君座(いま)さずとも(一七二歌)
⦿み立たしの島の荒磯(ありそ)を今見れば生(お)ひずありし草生ひにけるかも(一八一歌)
⦿水伝ふ磯(いそ)の浦(うら)みの岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも(一八五歌)
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「大和万葉―その歌の風土」 堀内民一 著 (創元社)
★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)
★「コトバンク(世界大百科事典内の橘の島の宮の言及)」