万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その135改)―奈良県橿原市城殿町 本薬師寺跡―万葉集 巻三 三三四

●歌は、「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」である。

 

f:id:tom101010:20190715222420j:plain

奈良県橿原市城殿町 本薬師寺跡近くの万葉歌碑(大伴旅人

●歌碑は、奈良県橿原市城殿町本薬師寺跡にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為

        (大伴旅人 巻三 三三四)

 

≪書き下し≫忘れ草我が紐に付く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため

 

(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐につけました。香具山のあのふるさと飛鳥の里を、いっそのことわすれてしまうために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

(注)忘れ草><くゎんざう 【萱草】:草の名。忘れ草。夏、花を咲かせる。

 

 三三一から三三五歌の題詞は、「帥大伴卿歌五首」<帥(そち)大伴卿(おほとものまへつきみ)が歌五首>である。大宰府の長官大伴旅人の望郷の歌である。

 

この5首をみていこう。

 

◆吾盛 復将變八方 殆 寧楽京乎 不見歟将成

                  (大伴旅人 巻三 三三一)

 

≪書き下し≫我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都をみずかなりなむ

 

(訳)私の盛りの時がまた返ってくるだろうか。いやそんなことは考えられない。ひょっとして、奈良の都、あの都を見ないままに終わってしまうのではないだろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

(注)をつ【復つ】:元に戻る。若返る。

(注)めやも:〔推量の助動詞「む」の已然形「め」に係助詞「や」、係助詞「も」の

付いたもの。「や」は反語、「も」は詠嘆の意を表す〕

推量または意志を反語的に言い表し、それに詠嘆の意が加わったもの。

…だろうか、いや、そんなことはないなあ。

(注)ほとほと【殆・幾】ひょっとして

 

◆吾命毛 常有奴可 昔見之 象小河乎 行見為

                  (大伴旅人 巻三 三三二)

 

≪書き下し≫我が命も常にあらぬか昔見し象(きさ)の小川(をがわ)を行きて見むため

 

(訳)私の命、この命もずっと変わらずにあってくれないものか。その昔見た象の小川(きさのをがわ)、あの清らかな流れを、もう一度行ってみるために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

 

◆淺茅原 曲曲二 物念者 故郷之 所念可聞

                   (大伴旅人 巻三 三三三)

 

≪書き下し≫淺茅原(あさぢはら)つばらつばらにもの思へば古(ふ)りにし里し思ほゆるかも

 

(訳)浅茅原(あさじはら)のチハラではないが、つらつらと物思いに耽(ふけ)っている、若き日を過ごしたあのふるさとと明日香がしみじみと思い出される。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

(注)つばらつばらに【委曲委曲に】:つくづく。しみじみ。よくよく。

 

◆吾行者 久者不有 夢乃和太 湍者不成而 淵有毛

                   (大伴旅人 巻三 三三五)

 

≪書き下し≫我が行きは久(ひさ)にはあらじ夢(いめ)のわだ瀬にならずて淵(ふち)にしありこそ

 

(訳)私の筑紫在住はそんなに長くはあるまい。あの吉野の夢のわだよ、浅瀬なんかにならずに深い淵のままであっておくれ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫

(注)我が行き:私の旅。大宰府在住をいう。

(注)わだ 【曲】:入り江など、曲がった地形の所。

 

 大伴旅人大宰府に赴任したのは六三、四歳のころである。都では藤原氏が勢いを増し名家の大伴家は没落の一途であった。奈良の都から大宰府に今でいう左遷であるので、やりきれない気持ちが旅人に歌を磨かせたと思われる。万葉集に収録されている旅人の歌はほとんどが大宰府在任中である。山上憶良らと「筑紫歌壇」を形成していったといわれている。

大宰府という「天離(あまざか)る鄙」やりきれないきもちから「望郷の歌」が生まれたと考えられる。

 

 道路わきの民家の駐車場の前にあり、観光標識の下にあり、なんとなく大宰府ではるかこの地を思い詠った旅人の歌碑としては設置場所があわれに感じた。

f:id:tom101010:20190715222700j:plain

史跡元薬師寺阯の碑

薬師寺(もとやくしじ)はについては、奈良県観光公式サイト「なら旅ネット」によると、「天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒祈願のために建立した寺。文武天皇2(698)年、藤原京に完成した。現在の場所へは平城京遷都に伴って移築された。現在では遺構として金堂跡と東西両塔跡に大きな礎石だけが残されている。伽藍配置については奈良の薬師寺と全く同じものであったという。金堂跡の巨大な礎石群が、かつての大寺を今に伝える。西ノ京の薬師寺の前身にあたる寺の跡。8世紀の初めの建設で、当時は金堂や東西に二つの塔があったが、現在では建物の基礎となる石や土壇などを残すだけ。石の配置から大寺だったことが想像される。(後略)」とある。

f:id:tom101010:20190715222908j:plain

薬師寺の巨大な礎石

 本薬師寺跡周辺の水田に植えられているホテイアオイが、八月中旬から九月初旬にかけて咲き誇るのである。三年前にホテイアオイの花を見にきたことがあった。

 

f:id:tom101010:20190715223134j:plain

水田いっぱいに咲くホテイアオイの花(本薬師寺跡近く)20160830撮影

 

f:id:tom101010:20190715223357j:plain

ホテイアオイの花と畝傍山そして遠くに二上山

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「太陽 特集万葉集」(平凡社

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「橿原の万葉歌碑めぐり」(橿原市観光政策課)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio古語辞典 三省堂大辞林

★「なら旅ネット」(奈良県観光公式サイト)

 

※20230415朝食関連記事削除、一部改訂