万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その137改)―奈良県橿原市石川町の石川池(剣池)畔―巻三 三九〇

●歌は「軽の池の浦み行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに」である。

 

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奈良県橿原市石川町石川池(剣池)畔万葉歌碑(紀皇女)

●この歌碑は、奈良県橿原市石川町の石川池(剣池)畔にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆軽池之 汭廻往轉留 鴨尚尓 玉藻乃於丹 獨宿名久二

        (紀皇女 巻三 三九〇)

≪書き下し≫軽(かる)の池の浦(うら)み行(ゆ)き廻(み)る鴨(かも)すらに玉藻(たまも)の上(うへ)にひとり寝なくに

 

(訳)軽の池の岸辺に沿うて行きめぐる鴨でさえ、玉藻の上にただ独りで寝はしないのに。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 紀皇女(きのひめみこ)は、「コトバンク(デジタル版日本人名大辞典+Plus)」によると、「?-? 飛鳥(あすか)時代,天武天皇の皇女。母は石川大蕤娘(おおぬのいらつめ)。恋の歌2首が「万葉集」にのる。その1首には,高安(たかやすの)王にひそかに通じて世間から非難されたときにつくったという伝承があるが,年代があわず多紀(たきの)皇女の誤写とする説もある。異母兄弓削(ゆげの)皇子の「紀皇女を思(しの)ぶ」相聞歌などがのこされている。」とある。

 この歌に続くの三九一歌は、造筑紫観世音別当沙弥満誓(ぞうつくしくわんぜおんじのべつたうさみまんぜい)であり、三九二歌は、大伴百代(ももよ)、三九四歌は笠女郎(かさのいらつめ)となっており、万葉集第三期あるいは第四期に活躍した人たちの歌が収録され散る。紀皇女は万葉集第二期初期とかんがえられるので、時代的には少しかけ離れており、巻三 譬喩歌の冒頭歌であることから、編者が意識したものと考えられる。

 

「多紀皇女」の誤写とする歌をみてみよう。

 

◆於能礼故 所詈而居者 ▼馬之 面高夫駄尓 乗而應来哉

                 (多<?>紀皇女 巻十二 三〇九八)

            ※▼馬+忩 「馬+忩」馬=あをうま

 

≪書き下し≫おのれゆゑ罵(の)らえて居(を)れば青馬(あをうま)の面高夫駄(おもたかぶだ)に載りて来(く)べしや

 

(訳)お前さんゆえに油を絞られている折も折、青毛馬の、それも顔高々と上げた荷馬(にば)なんかに、荷物みたいに乗っかかって人目かまわずやって来る法があるものか。)伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おのれゆえ:あんたゆえ

(注)あをうま:葦毛の馬か。妻問いには黒馬を用いるのが習い。

 

 左注は、「右一首 平群文屋朝臣益人傳云 昔多紀皇女竊嫁高安王被嘖之時 御作此歌 但し高安王左降任之伊予國守也」<右の一首は、平群文屋朝臣益人(へぐりふみやのあそみますひと)伝へて云はく、「昔聞くならく、紀皇女(きのひめみこ)竊(ひそ)かに高安王(たかやすのおほきみ)に嫁(とつ)ぎて嘖(ころ)はえたりし時に、この歌を作らす」といふ。ただし、高安王は、左降せらえ、伊与国守(いよのくにのかみ)に任(ま)けらゆ>とある。

 

 三九〇歌は、(鴨でさえひとり寝はしないのに)私は、いったいどうなってるの、三〇九八歌は、(あなたのせいでいろいろと言われているのに)一体全体、あなたはなにをかんがえてるの、といった感じのある意味、自由奔放、本音トークと言ったところの歌である。

 

 三九〇歌の部立のひゆか【譬喩歌】とは、万葉集における歌の分類の一つで、表現技法に基づく分類。心情を直接表現せず、何かにたとえて詠んだ歌。相聞的内容のものが大半である。巻三・巻七等に部立てとしても見られる。

 

  剣の池ならびに軽の池は応神十一年(二八〇年)につくられたという。軽の池は現在ではその跡すら確認されていない。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「かしはら探訪ナビ」(橿原市HP)

★「橿原の万葉歌碑めぐり」(橿原市観光政策課)

★「コトバンク(デジタル版日本人名大辞典+Plus)」