●歌は、「紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも」である。
体育館駐車場横の空き地のようなところに、額田王と天武天皇の歌碑が少し離れて建てられていた。残念ながら草ぼうぼうで正直いってこのようなところに歌碑を建てても見に来る人のことなど頭にないのではと思ってしまう。写真を撮るために雑草をかき分けて歩かざるをえなかったのである。
●歌をみていこう。
◆紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方
(大海人皇子 巻一 二一)
≪書き下し≫紫草(むらさき)のにほへる妹(いも)を憎(にく)くあらば人妻(ひとづま)故(ゆゑ)に我(あ)れ恋(こ)ひめやも
(訳)紫草のように色美しくあでやかな妹(いも)よ、そなたが気に入らないのであったら、人妻と知りながら、私としてからがどうしてそなたに恋いこがれたりしようか。(伊藤 博 著 角川ソフィア文庫より)
題詞は、「皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇 謚日天武天皇」<皇太子(ひつぎのみこ)の答へたまふ御歌 明日香(あすか)の宮に天の下知らしめす天皇、謚(おくりな)して天武天皇(てんむてんのう)といふ>である。
左注は、「紀日 天皇七年丁卯夏五月五日縦獦於蒲生野于時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉」<紀には「天皇の七年丁卯(ひのとう)の夏の五月の五日に、蒲生野(かまふの)に縦猟(みかり)す。時に大皇弟(ひつぎのみこ)・諸王(おほきみたち)、内臣(うちのまへつかさ)また群臣(まへつきみたち)、皆悉(ことごと)に従(おほみとも)なり」といふ>である。
大化の改新のもうひとりの立役者藤原鎌足の伝記「大織冠伝」に、浜楼(浜御殿)での宴会の席で、大海人皇子が兄である天智天皇の前で、酔った勢いで、槍で床を突き刺したという事件があったという。政治的な問題や、額田王をめぐっての鬱積したものがあったのかもしれない。天皇は不敬だと、ただちに死を命じるものの、鎌足が間をとりなしたという。鎌足は、時代をみすえ、大海人皇子の時代がくると読んでいたのかもしれない。
鎌足は娘を二人大海人皇子に嫁がしているのである。ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その158)」で天武天皇と藤原夫人との掛け合い的な歌(小原神社万葉歌碑)について書いている。
天智天皇は、近江大津宮で、伊賀采女宅子(いがのうねめやかこ)との間に生まれた大友皇子を皇太子にしたのである。古代において母親の出自(しゅつじ)が良くないと人々が支持しないのである。一方、大海人皇子は人望がある。天智天皇は大友皇子を皇太子として藤原鎌足を中軸に微妙な力のバランスをとっていたのである。しかし、天智天皇八年十月に鎌足が亡くなり均衡が破れたのは言うまでもない。火種はくすぶりやがて壬申の乱となっていくのである。
額田王は大海人皇子との間に十市皇女をもうけている。その後、近江大津宮で天智天皇の後宮に入られているという。
天智天皇七年の「遊猟(みかり)」の時に、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌に大海人皇子が答えた歌である。
歴史的な背景を頭に入れ、この二首を読み返せば読み返すほど、このような歌が万葉集に収録されていることが不思議にさえ思われてくる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (旺文社文庫)
★「市内の万葉歌碑紹介」(香芝市HP)
●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート
サンドイッチは、フランスパンである。中味はレタス、トマトそして焼き豚である。マスタードをパンにぬっている。デザートは藍色の切子のガラス容器を使った。まん中に、グレープフルーツ(ルビー)の輪切りをのせ、周囲にバナナのスライスをめぐらせ、その上にトンプソンとクリムゾンシードレスの切合わせを盛り付けた。干しぶどうをアクセントにつかった。