万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その177改)―橘寺西入口前―万葉集 巻二 二一〇

●歌は、「うつせみと思ひし時に取り持ちて我がふたり見し・・・」である。

 

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明日香村 橘寺西入口 万葉歌碑(柿本人麻呂

●歌碑は、奈良県高市郡明日香村 橘寺西入口前 である。

 

●歌をみていこう。

 

◆打蝉等 念之時尓<一云宇都曽臣等念之> 取持而 吾二人見之 趍出之 堤尓立有 槻木之 己知碁智乃枝之 春葉之 茂之如久 念有之 妹者雖有 馮有之 兒等尓者雖有 世間乎 背之不得者 蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隠 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隠去之鹿齒 吾妹子之 形見尓置有 若兒乃 乞泣毎 取與 物之無者 鳥徳自物 腋挟持 吾妹子与 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓 晝羽裳 浦不楽晩之 夜者裳 氣衝明之 嘆友 世武為便不知尓 戀友 相因乎無見 大鳥乃 羽易乃山尓 吾戀流 妹者伊座等 人云者 石根左久見手 名積来之 吉雲曽無寸 打蝉等 念之妹之 珠蜻 髪髴谷裳 不見思者

                                   (柿本人麻呂 巻二 二一〇)

 

≪書き下し≫うつせみと 思ひし時に<一には「うつそみと思ひし」といふ> 取り持ちて 我(わ)がふたり見し 走出(はしりで)の 堤(つつみ)に立てる 槻(つき)の木の こちごちの枝(え)の 春の葉の 茂(しげ)きがごとく 思へりし 妹(いも)にはあれど 頼めりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背(そむ)きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野(あらの)に 白栲(しろたへ)の 天領巾(あまひれ)隠(がく)り 鳥じもの 朝立(あさだ)ちいまして 入日(いりひ)なす 隠(かく)りにしかば 我妹子(わぎもこ)が 形見(かたみ)に置ける みどり子の 乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物しなければ 男(をとこ)じもの 脇(わき)ばさみ持ち 我妹子と ふたり我が寝(ね)し 枕付(まくらづ)く 妻屋(つまや)のうちに 昼はも うらさび暮らし 夜はも 息づき明かし 嘆けども 為(せ)むすべ知らに 恋ふれども 逢ふよしをなみ 大鳥(おほとり)の 羽がいひの山に 我(あ)が恋ふる 妹はいますと 人の言へば 岩根(いはね)さくみて なづみ来(こ)し よけくもぞなき うつせみと 思ひし妹が 玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

 

(訳)あの子がずっとうつせみのこの世の人だとばかり思い込んでいた時に<うつそみのこの世の人だとばかり思い込んでいた>、手に取りかざしながらわれらが二人して見た、長く突き出た堤に立っている槻の木の、そのあちこちの枝に春の葉がびっしり茂っているように、絶え間なく思っていたいいとしい子ではあるが、頼りにしていたあの子ではあるが、常なき世の定めに背くことはできないものだから、陽炎(かげろう)の燃え立つ荒野に、真っ白な天女の領布(ひれ)に蔽(おほ)われて、鳥でもないのに朝早くわが家をあとにして行かれ、山に入り沈む日のように隠れてしまったので、あの子が形見に残していった幼な子が物欲しさに泣くたびに、何をあてごうてよいやらあやすすべも知らず、男だというのに小脇に抱きかかえて、あの子と二人して寝た離れの中で、昼はうら寂しく暮らし、夜は溜息(ためいき)ついて明かし、こうしていくら嘆いてもどうしようもなく、いくら恋い慕っても逢える見込みもないので、大鳥の羽がいの山に私の恋い焦がれるあの子はいると人が言ってくれるままに、岩を押しわけ難渋してやって来たが、何のよいこともない。ずっとこの世の人だとばかり思っていたあの子の姿がほんのりともみえないことを思うと。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)はしりで【走り出】家から走り出たところ。家の門の近く。一説に山裾(すそ)や堤などが続いているところ。「わしりで」とも。

(注)こちごち【此方此方】あちこち。そこここ。

(注)ひれ【領布】古代の女性が用いた両肩からかける布。別名 領巾、肩巾、比礼

(注)とりじもの【鳥じもの】枕詞:鳥のようにの意から「浮き」「朝立ち」「なづさふ」などにかかる。

(注)をとこじもの【男じもの】副詞:男であるのに。

(注)まくらづく【枕付く】分類枕詞:枕が並んでくっついている意から、夫婦の寝室の意の「妻屋(つまや)」にかかる。

(注)羽がひの山:妻を隠す山懐を鳥の羽がいに見立てたもので、天理市桜井市にまたがる竜王山か。

 

 題詞は、「柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首幷短歌」<柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀慟(きふけつあいどう)して作る歌二首幷(あは)せて短歌>である。柿本人麻呂の「泣血哀慟歌」と呼ばれている。構成は、「二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)」と「二一〇(長歌)、二一一、二一二(反歌)」の歌群である。さらにもう一つの歌群があり、「或本の歌に日はく」とあり、長歌一首と短歌三首が収録されている。

 

 二一一と二一二歌も見ておこう。

 

◆去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放

               (柿本人麻呂 巻二 二一一)

 

≪書き下し≫去年(こぞ)見てし秋の月夜(つくよ)は照らせども相見(あひみ)し妹はいや年(とし)離(さか)る

 

(訳)去年見た秋の月は今も変わらず照らしているけれども、この月を一緒に見たあの子は、年月とともにいよいよ遠ざかってゆく。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 

◆衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山徑往者 生跡毛無

                (柿本人麻呂 巻二 二一二)

 

≪書き下し≫衾道(ふすまぢ)を引手(ひきで)の山に妹を置きて山道(やまぢ)を行けば生けりともなし

 

(訳)衾道よ、その引手の山にあの子を置き去りにして、山道をたどると、生きているとの思えない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

(注)ふすまぢ【衾道】を: 枕詞 地名「引手(ひきて)の山」にかかる。語義・かかり方に諸説あるが、

 

 

 人麻呂は「宮廷歌人」である。「私」の感情で歌をうたうのではなく、「公」の立場でうたうのである。しかし、この歌碑にある長歌を含む歌群は、妻の死を悲しむことを歌いうることを示したということが万葉集に対し大きなインパクトを与えたと考えられている。

 神野志隆光氏は「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」のなかで、「妻の死は私的なものです。それを歌にするとはどういうことか。伊藤博『歌俳優の哀歌』(塙書房)が、『この二首の文体は、終始、他人を意識し他人に語りかけたような表現を採用している』とのべたことが本質を衝いています。伊藤は『歌による私小説とでも称すべき性格』とも言いましたが、いいなおせば、妻の死を歌うことが、他者に示す歌として可能であるものとして実現して見せたということです。」と述べておられる。

  上にも書いたが、「二〇七(長歌)、二〇八、二〇九(反歌)」ならびに「二一〇(長歌)、二一一、二一二(反歌)」の歌群と「或本の歌に日はく」とある「二一三(長歌)、二一四~二一六(短歌)」の歌群が収録されている。

 「或本の歌に日はく」としつつも、万葉集には、「作品」として収録されているのである。

 このように、「泣血哀慟歌」ならびに「或る歌の本の日はく」の歌をも収録していることが、万葉集万葉集たる所以であろう。

 

 

 歌碑は、マップによると川原寺跡前の道路沿いのトイレの近くである。トイレ前に車を止め探すことに。トイレの西側手に少し上りの坂道がある。そこを上るとすぐ左手に歌碑があった。

 

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橘寺西入口と手前の万葉歌碑

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか」―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 

                          (東京大学出版会

★「犬養孝氏揮毫の万葉歌碑マップ(明日香村)」

★「万葉歌碑データベース」 (奈良女子大)

 

 

※20210510朝食関連記事削除、一部改訂