万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その183改)―京都府相楽郡和束町活道ヶ丘公園―万葉集 巻三 四七六

●歌は、「我が大君天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山」である。

 

f:id:tom101010:20190901231556j:plain

京都府相楽郡和束町活道ヶ丘公園碑と万葉歌碑(大伴家持

●歌碑は、京都府相楽郡和束町 活道ヶ丘公園 にある。

 安積親王の墓は、この歌碑のある活道ヶ丘公園の北東200mほどのところにある。

 

●歌をみていこう。

◆吾王 天所知牟登 不思者 於保尓曽見谿流 和豆香蘇麻山

             (大伴家持 巻三 四七六)

 

≪書き下し≫我(わ)が大君(おほきみ)天(あめ)知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束(わづか)杣山(そまやま)

 

(訳)わが大君がここで天上をお治めになろうとは思いもかけなかったので、今までなおざりに見ていたのだった、この杣山(そまやま)の和束山(わづかやま)を。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「十六年甲申春二月安積皇子薨之時内舎人大伴宿祢家持作歌六首」<十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積皇子(あさかのみこ)の薨(こう)ぜし時に、内舎人(うどねり)大伴宿祢家持が作る歌六首>である。

 長歌(四七五歌)と反歌(四七六、四七七歌)は、左注に「右三首二月三日作歌」<右の三首は、二月の三日に作る歌>とあり、長歌(四七八歌)と反歌(四七九、四八〇歌)は、左注に、「右三首三月廿四日作歌」<右の三首は、三月の二十四日に作る歌>とある。

 

長歌(四七五歌)と反歌(四七七歌)をみていこう。

 

長歌― 

◆桂巻母 綾尓恐之 言巻毛 齊忌志伎可物 吾王 御子乃命 萬代尓 食賜麻思 大日本 久迩乃京者 打靡 春去奴礼婆 山邊尓波 花咲乎為里 河湍尓波 年魚小狭走 弥日異 榮時尓 逆言之 狂言登加聞 白細尓 舎人装束而 和豆香山 御輿立之而 久堅乃 天所知奴礼 展轉 埿打雖泣 将為須便毛奈思

              (大伴家持 巻三 四七五)

 

≪書き下し≫かけまくも あやに畏(かしこ)し 言はまくも ゆゆしきかも 我(わ)が大君(おほきみ) 皇子(みこ)の命(みこと) 万代(よろづよ)に 見(め)したまはまし 大日本(おほやまと) 久邇(くに)の都は うち靡(なび)く 春さりぬれば 山辺(やまへ)には 花咲きををり 川瀬(かはせ)には 鮎子(あゆこ)さ走(ばし)り いや日異(ひけ)に 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲(しろたへ)に 舎人(とねり)よそひて 和束山(わづかやま) 御輿(みこし)立たして ひさかたの 天(あめ)知らしぬれ 臥(こ)いまろび ひづち泣けども 為(せ)むすべもなし

 

(訳)心にかけて思うのもまことに恐れ多い。ましてや口にかけて申すのも憚(はばか)り多いことだ。わが大君、皇子の命が万代までもお治めになるはずの大日本(おおやまと)久邇の都は、物うち靡く春ともなれば、山辺には花がたわわに咲き匂い、川瀬には若鮎が飛び跳ねて、日に日に栄えていくその折しも、人惑わしの空言というのか、事もあろうに舎人たちは白い喪服を装い、和束山に皇子の御輿が出で立たれて、はるかに天上を治めてしまわれたので、伏し悶え涙にまみれて泣くのだが、今はどうにもなすすべがない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)安積皇子:聖武天皇の子

(注)かけまくも 分類連語 :心にかけて思うことも。言葉に出して言うことも。

(注)めす 【見す・看す】 お治めになる。ご統治なさる。▽「治む」の尊敬語。

(注)いやひけに 【弥日異に】( 副 )いよいよ日ましに。一日一日ごとに変わって。

(注)和束山:恭仁京の東北に隣接する和束町の山。安積皇子の墓がある。

(注)こいまろぶ 【臥い転ぶ】:ころげ回る。身もだえてころがる。

(注)ひづつ【漬つ】:ぬれる。泥でよごれる。

 

―短歌― 

◆足檜木乃 山左倍光 咲花乃 散去如寸 吾王香聞

               (大伴家持 巻三 四七七)

 

≪書き下し≫あしひきの山さえ光ろ咲く花の散りぬるごとき我が大君かも

 

(訳)あしひきの山のくまぐままで照り輝かせて咲き盛っていたその花が、にわかに散り失せてしまったような、われらの大君よ。

 

 大伴家持と安積親王の親交は、巻六 一〇四〇歌の題詞に、「安積親王(あさかのみこ)、左少弁藤原八束朝臣(させうべんふぢはらのやつかのあそみ)が家にて宴(うたげ)する日に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌一首」とあるように、十六年甲申(きのえさる)の春の正月の五日に、正月を寿いでいるのである。しかし、同二月には、巻三 四七五歌の題詞、「十六年甲申(きのえさる)の春の二月に、安積親王の薨(こう)ぜし時に、内舎人大伴宿禰家持が作る歌六首」とあるように、挽歌を詠うという悲哀を味あうのである。

 特に三月二十四日に家持の歌「大伴の名負う靫(ゆき)帯びて万代(よろづよ)に頼みし心いづくにか寄せむ」<訳:靫負(ゆげい)の大伴と名の知られるその靫(ゆき)を身に付けて、万代までもお仕えしようと頼みにしてきた心、この心を今やいったいどこに寄せたらよいのか。(伊藤 博著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)>に、安積親王に望みをいかに託していたかが読み取れるのである。

 多治比・大伴・佐伯の諸氏が、反藤原仲麻呂派を結集していただけに打撃となり、奈良麻呂の変につながっていくのである。(天平十六年正月、難波行幸の途中病で恭仁京へ引返した安積親王は十三日に薨(こう)じたのである。この急死は、藤原仲麻呂による暗殺とする説は有力といわれている)

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「木津川市万葉集」(木津川市観光協会)                             

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂大辞林

 

※20210705朝食関連記事削除、一部改訂