万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その197)―京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 №2―万葉集 巻二 一四一

●歌は、「岩代の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた返り見む」である。

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京都府城陽市 正道官衙遺跡公園万葉歌碑(有間皇子


 

●歌碑は、京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆磐白乃 濱松之枝乎 引結 真幸有者 亦還見武

             (有間皇子 巻二 一四一)

 

≪書き下し≫岩代(いはしろ)の浜松が枝(え)を引き結びま幸(さき)くあらばまた帰り見む

 

(訳)ああ、私は今、岩代の浜松の枝と枝を引き結んでいく、もし万一この願いがかなって無事でいられたなら、またここに立ち帰ってこの松を見ることがあろう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「有間皇子自傷結松枝歌二首」<有間皇子(ありまのみこ)、自みづか)ら傷(いた)みて松が枝(え)を結ぶ歌二首>である。

 

 もう一首もみておこう。

 

◆家有者 笱尓盛飯乎 草枕 旅尓之有者 椎之葉盛

            (有間皇子 巻二 一四二)

 

≪書き下し≫家なれば笱(け)に盛(も)る飯(いひ)を草枕旅(たび)にしあれば椎(しひ)の葉に盛る

 

(訳)家にいる時にはいつも立派な器物(うつわもの)に盛ってお供えをする飯(いい)なのに、その飯を、今旅の身である私は椎(しい)の葉に盛って神祭りをする。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 有間皇子孝徳天皇左大臣安倍倉橋麻呂のむすめ小足媛(おたらしひめ)の間にできた子である。

 大化の改新孝徳天皇は難波に都を遷すが、大化の改新の立役者中大兄皇子は飛鳥へもう一度都を戻すべきと主張、対立激化。 

 孝徳天皇の死後、中大兄皇子の母が、斉明天皇として飛鳥板葺宮で即位。実質的な主導者中大兄皇子の政治方針等への反発は大きく、有間皇子を支持する気運が高まってくる。

 斉明天皇四年(658年)、斉明天皇牟婁(むろ)の湯の湯治に行かれる。中大兄皇子も同行。留守を蘇我赤兄(そがのあかえ)に託す。

 有間皇子は、赤兄の謀略にはまり謀反のかどで捕えられ、白浜の牟婁に連行される。中大兄皇子の尋問に対し、「天と赤兄と知る。吾(われ)全(もは)ら解(し)らず」と答えたという。

 しかし、十一月十一日、有間皇子は、「自らくびらしむ」ことになったのである。(松の枝を結んで無事を祈ったが皇子は、帰路、藤白の坂(海南市)で殺されたのである。)上記の歌二首は、十一月九日、今の和歌山県日高郡な南部町(みなべちょう)岩代(いわしろ)で、殺されることになろうと思って、祈りを込めて詠んだ歌である。十九歳の若さである。 

 

 持統上皇紀伊の国に幸(いでま)したときに、同行者らが、有間皇子に対する同情の念を詠った歌が続いて四首収録されているので、こちらもみていこう。

 

 題詞は、「長忌寸意吉麻呂見結松哀咽歌二首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおおきまろ)、結び松を見て哀咽(かな)しぶる歌二首>である。

 

◆磐代乃 崖之松枝 将結 人者反而 復将見鴨

            (長忌寸意吉麻呂 巻二 一四三)

 

≪書き下し≫岩代(いわしろ)の崖(きし)の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも

 

(訳)岩代の崖(がけ)のほとりの松の枝、この枝を結んだというそのお方は、立ち帰って再びこの松をご覧になったことであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆磐代之 野中尓立有 結松 情毛不解 古所念  未詳

             (長忌寸意吉麻呂 巻二 一四四)

 

≪書き下し≫岩代の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けずいにしへ思ほゆ  いまだ詳らかにあらず

 

(訳)岩代の野中に立っている結び松よ、お前の結び目のように、私の心もふさぎ結ぼおれて、去(い)にし時代のことが思われてならない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)野中に立てる:崖の上に続く野の側から「結び松」をとらえたもの。

(注)未詳:一四三歌と同時の作か未詳の意。

 

 題詞は、「山上臣憶良追和歌一首」<山上臣憶良(やまのうえのおみおくら)が追和(ついわ)の歌一首>である。

 

◆鳥翔成 有我欲比管 見良目杼母 人社不知 松者知良武

            (山上憶良 巻二 一四五)

 

≪書き下し≫鳥翔成あり通(がよ)ひつつ見らめども人こそ知らぬ松は知るらむ

(注)第一句は定訓を得ず。①あまがけり、②かけるなす、③つばさなす、④とりはなす

 

(訳)皇子の御霊(みたま)は天空を飛び通いながらいつもご覧になっておりましょうが、人にはそれがわからない、しかし、松はちゃんと知っているのでしょう。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)伊藤博氏は第一句を「あまがけり」とよんでおられる。

 

 左注は、「右件歌等雖不挽柩之時所作准擬歌意故以載于挽歌類焉」<右の件(くだり)の歌どもは、柩(ひつき)を挽(ひ)く時に作るところにあらずといへども歌の意(こころ)を准擬(なずら)ふ。この故に挽歌の類に載す。>である。

 

 そしてもう一首の題詞は、「大寶元年辛丑幸于紀伊國時見結松歌一首  柿本朝臣人麻呂歌集中出也」<大宝元年辛丑(かのとうし)に、紀伊の国幸(いでま)す時に、結び松を見る歌一首  柿本朝臣人麻呂が歌集の中に出づ>である。

(注)持統上皇紀伊の国に幸(いでま)した時をさす。

 

 

◆後将見跡 君之結有 磐代乃 子松之宇礼乎 又将見香聞

             (柿本人麻呂 巻二 一四六)

 

≪書き下し≫後(のち)見むと君が結べる岩代の小松(こまつ)がうれをまたも見むかも

 

(訳)のちに見ようと、皇子が痛ましくも結んでおられた岩代の松の梢(こずえ)よ、この梢を、私は再び見ることがあろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 有間皇子の歌二首は、万葉集巻二 部立「挽歌」の冒頭歌である。

 標題は、「後岡本宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇譲位後即後岡本宮」<後(のち)の岡本(をかもと)の宮(みや)に天(あめ)の下(した)知(し)らしめす天皇(すめらみこと)の代(みよ) 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)、譲位の後に、後の岡本の宮に即(つ)きたまふ>である。

(注)後(のち)の岡本(をかもと)の宮(みや):斉明天皇の皇居

(注)天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと):斉明天皇斉明天皇は、用明天皇の孫にあたる高向王に嫁いだが、その後舒明天皇に再嫁してのちの天智天皇天武天皇らを生んだ。

645年「乙巳の変(いっしのへん)」で孝徳天皇に譲位したが、654年に孝徳天皇崩御すると翌655年に飛鳥板蓋宮で即位して天皇の位についた(重祚という)。(weblio辞書 歴代天皇事典より抜粋)

 

 有間皇子の悲劇は、或る意味「反逆」であるが、部立「挽歌」の冒頭に収録し、後の世の有間皇子への同情歌を収録するという寛大さも、万葉集万葉集たる所以と言えるのであろう。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社

★「weblio辞書 歴代天皇事典」

 

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