万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その202)―京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園№7―

●歌は、「玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため」である。

 

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京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園万葉歌碑(長忌寸意吉麻呂)

●歌碑は、京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 にある。

 

 

●歌をみていこう。

◆玉掃 苅来鎌麻呂 室乃樹 與棗本 可吉将掃為

                                  (長忌寸意吉麿麻呂 巻十六 三八三〇)

 

≪書き下し≫玉掃(たまばはき)刈(か)り来(こ)鎌麻呂(かままろ)むろの木と棗(なつめ)が本(もと)とかき掃(は)かむため

 

(訳)箒(ほうき)にする玉掃(たまばはき)を刈って来い、鎌麻呂よ。むろの木と棗の木の根元を掃除するために。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)むろのき 【室の木・杜松】分類連語:木の名。杜松(ねず)の古い呼び名。海岸に多く生える。

 

 題詞は、「詠玉掃鎌天木香棗歌」<玉掃(たまばはき)、鎌(かま)、天木香(むろ)、棗(なつめ)を詠む歌>である。

 

 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)については、「コトバンク 世界大百科事典 第2版の解説」によると次のように記されている。

「《万葉集》第2期(壬申の乱後~奈良遷都),藤原京時代の歌人。生没年不詳。姓(かばね)は長忌寸(ながのいみき)で渡来系か。名は奥麻呂とも記す。柿本人麻呂と同時代に活躍,短歌のみ14首を残す。699年(文武3)のおりと思われる難波行幸に従い,詔にこたえる歌を作り,701年(大宝1)の紀伊国行幸(持統上皇文武天皇),翌年の三河国行幸(持統上皇)にも従って作品を残す。これらを含めて旅の歌6首がある。ほかの8首はすべて宴席などで会衆の要望にこたえた歌で,数種のものを詠み込む歌や滑稽な歌などを即妙に曲芸的に作るのを得意とする。」

この歌のように、「数種のものを詠み込む歌」は「物名歌」と呼ばれている。

 

 

 三八三〇歌に詠まれていた「むろの木」を詠んでいる歌を五首(四四六~四四八歌ならびに三六〇〇、三六〇一歌)をみていこう。

 

◆吾妹子之 見師鞆浦之 天木香樹者 常世有跡 見之人曽奈吉

               (大伴旅人 巻三 四四六)

 

≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)が見し鞆(とも)の浦のむろの木は常世(とこよ)にあれど見し人ぞなき

 

(訳)いとしいあの子が行きに目にした鞆の浦のむろの木は、今もそのまま変わらずにあるが、これを見た人はもはやここにはいない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆鞆浦之 磯之室木 将見毎 相見之妹者 将所忘八方

                (大伴旅人 巻三 四四七)

 

≪書き下し≫鞆の浦の磯のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも

 

(訳)鞆の浦の海辺の岩の上に生えているむろの木。この木をこれから先も見ることがあればそのたびごとに、行く時に共に見たあの子のことが思い出されて、とても忘れられないだろうよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆磯上丹 根蔓室木 見之人乎 何在登問者 語将告可

                (大伴旅人 巻三 四四八)

 

≪書き下し≫磯の上に根延(ねば)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 

(訳)海辺の岩の上に根を張っているむろの木よ、行く時にお前を見た人、その人をどうしているかと尋ねたなら、語り聞かせてくれるであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 この歌群の、題詞は、「天平二年庚午冬十二月大宰帥大伴卿向京上道之時作歌五首」<天平二年庚午(かのえうま)の冬の十二月に、大宰帥(だざいのそち)大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向ひて道に上る時に作る歌五首>である。

 

 

 

◆波奈礼蘇尓 多弖流牟漏能木 宇多我多毛 比左之伎時乎 須疑尓家流香母

               (作者未詳 巻十五 三六〇〇)

 

≪書き下し≫離(はな)れ磯(そ)に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも

 

(訳)離れ島の磯に立っているむろの木、あの木はきっと途方もなく長い年月を、あの姿のままで過ごしてきたものなのだ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)うたがたも 副詞:きっと。必ず。真実に。 

 

◆之麻思久母 比等利安里宇流 毛能尓安礼也 之麻能牟漏能木 波奈礼弖安流良武

               (作者未詳 巻十五 三六〇一)

 

≪書き下し≫しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ

 

(訳)ほんのしばらくだって、人は独りでいられるものなのであろうか、そんなはずはないのに、どうしてあの島のむろの木は、あんなに離れて独りぼっちでおられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思幷當所誦之古歌」<遣新羅使人等(けんしらきしじんら)、別れを悲しびて贈答(ぞうたふ)し、また海路(かいろ)にして情(こころ)を慟(いた)みして思ひを陳(の)べ、幷(あは)せて所に当りて誦(うた)ふ古歌>のなかにある。

 三五九四~三六〇一歌八首の左注は、「右八首乗船入海路上作歌」<右の八首は、船に乗りて海に入り、路の上(うへ)にして作る歌>である。

 

 

 旅人が大宰師(だざいのそち)として九州に赴任してまもなく神亀五年(728年)に、妻大伴郎女が、九州への遠路の旅の疲れからか病床につき、やがて亡くなってしまうのである。

 四四六~四四八歌は、天平二年(730年)大伴旅人が、大納言となって帰京するときの歌である。

 その中の、四五〇歌にあるように、「行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも」の心境で「むろの木」を眺めて詠ったのである。

 

 一方、三五九四~三六〇一歌八首をみてみると、三五九五歌で、「武庫の浦」、三五九六歌で畿内をはなれ「播磨」に入っている。ついで、三五九八歌の「玉の浦」は岡山県倉敷市玉島あたりと思われる。

 遣新羅使は、天平八年(736年)であるから、旅人の歌を踏まえて、鞆の浦のむろの木を詠んだものと思われる。

 

 都へ上る旅人、都から新羅に向かう遣新羅使時間軸こそ違え、空間軸では共通のものをそれぞれの心境で詠っている。このような歴史ロマンを感じとれるのも万葉集の魅力の一つである。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「コトバンク 世界大百科事典 第2版」

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、レタスと焼き豚である。4つにカットし中2つを左右にずらせてみた。パセリを飾った。ちょっとしたことで見栄えが違うものである。デザートはキウイのスライスを中心に集め、周囲は、バナナとブドウで加飾した。

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9月20日のザ・モーニングセット

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9月20日のフルーツフルデザート