万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その207)―京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 №12―

 

●歌は、「早来ても見てましものを山背の多賀の槻群散りにけるかも」である。

 

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京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園万葉歌碑(高市黒人

●歌碑は、京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 №12 にある。

 

●歌をみていこう。

◆速来而母 見手益物乎 山背 高槻村 散去奚留鴨

              (高市黒人 巻三 二七七)

 

≪書き下し≫早(はや)来ても見てましものを山背(やましろ)の多賀(たか)の槻群(つきむら)散りにけるかも                                         

 

(訳)もっと早くやって来て見たらよかったのに。山背の多賀のもみじした欅(けやき)、この欅林(けやきばやし)は、もうすっかり散ってしまっている。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)山背の多賀:京都府綴喜郡井手町多賀

 

 高市黒人(たけちのくろひと)については、「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」に次のように書かれている。

「持統,文武朝の万葉歌人。下級官吏として生涯を終えたらしい。『万葉集』に近江旧都を感傷した作があり,大宝1 (701) 年の持統太上天皇の吉野行幸,翌年の三河国行幸に従駕して作歌している。ほかに羇旅 (きりょ) の歌や妻と贈答した歌がある。『万葉集』にある黒人の歌は,高市古人あるいは高市作と伝えるものを含めて短歌 18首,すべて旅の歌である。なお,機知的な,ユーモラスな作品もあり,この時期の歌人としては珍しい存在。」

 

 この歌も、題詞「高市連黒人覊旅歌八首」<高市連黒人(やけちのむらじくろひと)が覊旅(きりょ)の歌八首>の中の一首である。

 

 高市黒人の足跡を万葉集の十八首の収録順に追ってみよう。

 まず、「近江の旧い都」を感傷(かな)しびて二首(巻一 三二、三三歌)を詠っている。題詞は、「高市古人感傷近江舊堵作歌 或書云高市連黒人」<高市古人(たけちのふるひと)、近江の旧き都を感傷(かな)しびて作る歌 或書には「高市連黒人」といふ>である。

 次は、左注に「右一首高市連黒人」とあり、安礼の崎(三河音羽川の河口付近か)での歌が一首(巻一 五八歌)ある。

 そして、今回の歌碑の歌を含む、題詞「高市連黒人覊旅歌八首」<高市連黒人(やけちのむらじくろひと)が覊旅(きりょ)の歌八首(巻三 二七〇~二七七歌)である。

 続いて、題詞「高市連黒人歌二首」<高市連黒人が歌二首>の歌二首(巻三 二七九、二八〇歌)は、二七九歌は、猪名野(ゐなの:兵庫県伊丹市猪名川流域)を詠っており、二八〇歌は妻との贈答歌で、榛原(奈良県宇陀市榛原)を詠ったものか。

 この次は、題詞「高市連黒人歌一首」<高市連黒人が歌一首>とあり、「住吉(すみのえ)の得名津(えなつ:大阪市住之江区住之江あたり)から武庫(むこ)の泊(とま)り(兵庫県武庫川河口の船着き場)をみて詠った一首(巻三 二八三歌)である。

 さらに、題詞「高市連黒人近江舊都歌一首」<高市連黒人が近江の旧(ふる)き都の歌一首>とあり、近江の旧都の歌(巻三 三〇五歌)である。

 巻九には、題詞「高市歌一首」<高市が歌一首>とあり、高島(滋賀県高島市)の安曇(あど)の港を詠っている歌が収録されている。

 最後が、題詞「高市連黒人歌一首 年月不審」<高市連黒人が歌一首 年月審らかにあらず>とある歌(巻十七 四〇一六歌)である。婦負(めひ)の野(富山市からその南にかけての野)を詠んでいる。

 

 犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)のなかでおもしろい分析をされている。黒人の歌は、上二句で切れるか、小休止している歌が多いという。歌碑の歌を例にとってみると、「早来ても見てましものを」と、主観とか行動を述べ、小休止して、第三句に具体的な場所、「山背の多賀」を詠みこんでいるのである。

 さらに、十八首の歌の中に地名が二十九も出て来るのであるが、奈良の地名はわずかで、よその土地や見知らぬ土地を詠いこんでいるのである。題詞を見ただけでもうなずける。

 また、普通は、第一句に地名が多いのであるが、黒人の場合、二十九の地名のうち、十一の地名が第三句目にあり、他の作者にはない大きな特徴を有しているのである。

 歌碑の歌でいえば、早来ても(オ)見てましものを(オ)山背(やましろ)の(オ)多賀(たか)の(オ)槻群(つきむら)散りにけるかも(オ)と韻を踏んでいるのである。動作と目的が強調して伝わってくるのである。

 

 歌碑の歌が含まれている、題詞「高市連黒人覊旅歌八首」をみておこう。

※ 訳はすべて、(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫)によっている。

 

◆客為而 物戀敷尓 山下 赤乃曽保舡 奥榜所見(二七〇歌)

≪書き下し≫旅にしてもの恋(こひ)しきに山下(やました)し赤(あけ)のそほ船(ふね)沖に漕(こ)ぐ見ゆ

(訳)旅先にあって妻(つま)恋しく思っている時に、ふと見ると、先ほどまで山の下にいた朱塗りの船が沖のかなたを漕ぎ進んでいる。

(注)この冒頭歌だけ地名がない

 

◆櫻田部 鶴鳴渡 年魚市方 塩干二家良之 鶴鳴渡(二七一歌)

≪書き下し≫桜田 (さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし鶴鳴き渡る

(訳)桜田の方へ、鶴が群れ鳴き渡って行く。年魚市潟(あゆちがた)では潮が引いたらしい。今しも鶴が鳴き渡って行く。

 

◆四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟(二七二歌)

≪書き下し≫四極山(しはつやま)うち越(こ)え見れば笠縫(かさぬひ)の島漕(こ)ぎ隠(かく)る棚(たな)なし小舟(をぶね)

(訳)四極山を越えて海上を見わたすと、笠縫(かさぬい)の島陰に漕ぎ隠れようとする小舟が見える。

 

◆礒前 榜手廻行者 近江海 八十之湊尓 鵠佐波二鳴 未詳 (二七三歌)

≪書き下し≫磯(いそ)の崎(さき)漕(こ)ぎ廻(た)み行けば近江(あふみ)海(うみ)八十(やそ)の港(みなと)に鶴(たづ)さはに鳴く 未詳

 (注)未詳とあるが、二七四、二七五歌の近江の歌と同じ折が不明、の意らしい

(訳)磯の崎を漕ぎめぐって行くと、近江の海、この海にそそぐ川の河口ごとに、鶴がたくさんうち群れて鳴き騒いでいる。

 

◆吾船者 枚乃湖尓 榜将泊 奥部莫避 左夜深去來(二七四歌)

≪書き下し≫我(わ)が舟は比良(ひら)の港に漕(こ)ぎ泊(は)てむ沖へな離(さか)りさ夜(よ)更(ふ)けにけり

(訳)われらの舟は比良の港でとまることにしよう。沖の方へ離れてくれるなよ。もはや夜も更けてきたことだし。

 

◆何處 吾将宿 高嶋乃 勝野原尓 此日暮去者(二七五歌)

≪書き下し≫いづくにか我(わ)が宿りせむ高島(たかしま)の勝野(かつの)の原にこの日暮れなば

(訳)いったいどのあたりでわれらは宿を取ることになるのだろうか。高島の勝野の原でこの一日が暮れてしまったならば。

 

◆妹母我母 一有加母 三河有 二見自道 別不勝鶴(二七六歌)

一本云 水河乃 二見之自道 別者 吾勢毛吾文 獨可文将去

≪書き下し≫妹も我(あ)れも一つなれかも三河(みかは)なる二見(ふたみ)の道ゆ別れかねつる

   一本には「三河の二見の道ゆ別れなば我(わ)が背(せ)も我(あ)れも一人かも行かむ」といふ

(訳)あなたも私も一つだからでありましょうか、三河の国の二見の道で、別れようとしてなかなか別れられないのは。

 一本「三河の国の二見の道でお別れしてしまったならば、あなたも私も、これから先一人ぼっちで旅行くことになるのでしょうか。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「別冊國文學 万葉集必携」 稲岡耕二 編 (學燈社

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

 

●本日のザ・モーニングセット&フルーツフルデザート

 サンドイッチは、レタスと焼き豚を、チーズパンに挟んだ。デザートは、バナナの輪切りを花柄の打ち抜きを使って二つに分け交互に皿の周りに飾った。ブドウとキウイを中心に配し、真ん中に、赤と緑のブドウの切合わせを置いた。先日の孫の学校の学園祭のバザーで買ったミニネコも飾ってアクセントをつけた。

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9月25日のザ・モーニングセット

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9月25日のフルーツフルデザート