万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その215改)―京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 №20―巻十四 三四二四

 

●歌は、「下つ毛野三毳の山のこ楢のすまぐはし子ろは誰か笥か持たむ」である。

 

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京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園万葉歌碑(作者未詳)

●歌碑は、京都府城陽市寺田 正道官衙遺跡公園 にある。№2019年10月2日

 

●歌をみていこう。

◆之母都家野 美可母乃夜麻能 許奈良能須 麻具波思兒呂波 多賀家可母多牟

               (作者未詳 巻十四 三四二四)

 

≪書き下し≫下(しも)つ毛(け)野(の)三毳(みかも)の山のこ楢(なら)のすまぐはし子ろは誰(た)か笥(け)か持たむ

 

(訳)下野の三毳の山に生(お)い立つ小楢の木、そのみずみずしい若葉のように、目にもさわやかなあの子は、いったい誰のお椀(わん)を世話することになるのかなあ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)下野:栃木県

(注)三毳の山:佐野市東方の山。大田和山ともいう。

(注)す+形容詞:( 接頭 ) 形容詞などに付いて、普通の程度を超えている意を添える。 「 -早い」 「 -ばしこい」(weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版)

(注)まぐわし -ぐはし【目細し】:見た目に美しい。(同上)

 

 左注は、「右二首下野國歌」<右の二首は下野の国の歌>とある。

 万葉集巻十四は、冒頭に「東歌」という標目が掲げられいるので、この巻の歌は東歌(あづまうた)と言われている。左注に、上述のように「右○首□□国歌」と、国名をあげて、東国の歌を収録したものであることを明示している。

 

 もう一首の方も見ておこう。

 

◆志母都家努 安素乃河泊良欲 伊之布麻受 蘇良由登伎奴与 奈我己許呂能礼

                (作者未詳 巻十四 三四二五)

 

≪書き下し≫下(しも)つ毛(け)野(の)安蘇の川原よ石踏まず空ゆと来(き)ぬよ汝(な)が心告(の)れ

 

(訳)下野の安蘇の川原、あの川原を、石も踏まずに、宙をすっ飛ぶ思いでやってきたんだよ。さあ、お前さんのほんとの気持ちをはっきり口にしておくれ。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

 三四二五歌では、「下毛野安蘇の川原よ」とあるが、三四〇四歌では、「上毛野安蘇の真朝群れ」とある。安蘇は上野と下野の境にあるからと言われている。安蘇郡市町村合併により2005年以降、栃木県佐野市となっている。

 

 三四〇四歌をみてみよう。

◆可美都氣努 安蘇能麻素武良 可伎武太伎 奴礼杼安加奴乎 安杼加安我世牟

               (作者未詳 巻十四 三四〇四)

 

≪書き下し≫上(かみ)つ毛(け)野(の)安蘇(あそ)のま麻群(そむら)かき抱(むだ)き寝(ね)れど飽(あ)かぬをあどか我(あ)がせむ

 

(訳)上野の安蘇の群れ立つ麻、その麻の群れを抱きかかえて引き抜くように、しっかと抱いて寝るけれど、それでも満ち足りない、ああ、俺はどうしたらいいのか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)あど 副詞:どのように。どうして。「など」の上代の東国方言か。

 

 背丈より高い麻を引き抜く時に、束ねて胸に抱きかかえるようにして抜くさまを、男女の抱擁にかさねた表現という。麻の収穫作業と直接的な性愛表現、「あど」という方言から、東歌の面白さを醸している。農村で働く庶民の生活の中にある歌であり、歌人と称される人たちによってつくられた歌でないところに東歌の魅力がある。

 

「安蘇」という地名に関して、「地名のいわれ」(平成22年9月 佐野市産業文化部観光立市推進室資料)に次のように書かれている。 

「安蘇は麻緒(アサオ)の略かもしれません。麻を産するため、この名前があると和名抄は解しています。下野国志にも安蘇の名前は麻より出でしとあり、現に馬門に麻田明神があります。」

 同資料の「葛生」にも、「万葉集の東歌の中に『上毛野安蘇山黒葛野(かみつけぬあそやまつづらぬ)を広み延(は)ひにしものを何(あぜ)か絶えせむ』とあります。ここに上毛野とあるのは、上古は今の上野と下野は毛野国といって一国であったが、仁徳天皇のころ上毛野と下毛野に分けられました。しかし、境界は一般には不分明であったため、誰の作ともわからず東国人の歌として万葉集採録するとき、筆者がはっきり境界など気にせず下毛野を上毛野と書いたようにも考えられます。(後略)」とある。

 

 栃木県佐野市の佐野についても同資料には興味深い記載があるのでそのまま引用させていただく。

「 佐野の地名のいわれは、いくつかの説があります。(佐野町郷土誌など)

 ①左野説

奈良時代(8世紀頃)に、佐野地方は東山道の使道となっており、勅者、使者、蝦夷(えみし)征伐の武人らが東北地方へ下る通路となっていました。この使道の左側を左野と呼んでおり、この左側の野に人が住みついて佐野となったという説です。(道の右側を右野(うの)→上野→植野)

 ②狭野説

佐野地方は、万葉集東歌の『安蘇山』、『三毳山』、『赤見山』などに囲まれた狭い平野であり、この地形から狭野が転じて佐野となったという説です。

 ③麻野説

安蘇郡は、平安中期(10世紀頃)の「倭名類聚抄」(わみょうるいじゅうしゅう)によると、麻読(おみ)郷(田沼・赤見)、説多(せった)郷(葛生)、安蘇(あそ)郷(佐野・犬伏・旗川)、意部(おふ)郷(植野・界)の4郷に分かれていましたが、この中心の安蘇郷は、安蘇野が転じて麻野といわれ『あさの』の『あ』を除いて『佐野』となったという説です。」

 

 巻十四は、歌人と称される都人たちによってつくられた歌でなく、三四〇四歌のように農村で働く庶民の生活の中にある歌であり、方言をも含む在地性を匂わせる歌二三〇首で一つの巻を形成している。

 ここにも、万葉集万葉集たる所以がある。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫

★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「weblio辞書 三省堂 大辞林 第三版」

★「地名のいわれ」」(平成22年9月 佐野市産業文化部観光立市推進室資料)