●歌は、「もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも」である。
宇治川の中の島には、上流側の塔の島と下流側の橘島の二つがある。
朝霧橋の東詰めの歌碑を巡って、そこからしばらく宇治上神社の方へ歩けば、さわらびの道と仏徳山展望台の万葉歌碑に行けるが、京都府久世郡久御山町 荒見神社、同城陽市久世 久世神社、同城陽市寺田 正道官衙遺跡公園、同宇治市上権現町 下居神社、同宇治市宇治宇治川朝霧橋東詰と巡ったこともあり、無理をせず後日に回すことにした。
朝霧橋を戻り、橘島に渡り、塔の島の方へ歩く。橘島のほぼ端に近い朝霧橋側にこの歌碑がある。斜め前方に観流橋がみえるが、白波をたてて流れているのがみえる。川の中の岩に一羽の川鵜が羽を広げて乾かしているのが見えた。
●歌をみていこう。
◆物乃部能 八十氏河乃 阿白木尓 不知代経浪乃 去邊白不母
(柿本人麻呂 巻三 二六四)
≪書き下し≫もののふの八十(やそ)宇治川(うぢがわ)の網代木(あじろき)にいさよふ波のゆくへ知らずも
(訳)もののふの八十氏(うじ)というではないが、宇治川の網代木に、しばしとどこおりいさよう波、この波のゆくえのいずかたとも知られぬことよ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 (角川ソフィア文庫より)
(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる。
(注)「網代」は魚を捕るための仕掛けで、川の中に杭(くい)を打ち並べ、その端に簀(す)を設けたもの。「網代木」はその杭。
(注)いさよふ【猶予ふ】ためらう。たゆたう。停滞する。
題詞は、「柿本朝臣人麻呂従近江國上来時至宇治河邊作歌一首」<柿本朝臣人麻呂、近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌一首>である。
近江荒都の廃墟を見た驚きと深い物思いで、波の行方を見つめている歌である。(中西 進 著 「万葉の心」 毎日新聞社)
人麻呂が近江(おうみ)の国(滋賀県)から上京する際の歌。世の中の無常を詠んだ歌とする説もある(webllio古語辞典 学研全訳古語辞典)
別冊國文學「万葉集必携」の中で、稲岡耕二氏は、「人麻呂は、旅の愁いや喜びを一面的主観的に表現するのでなく、対象と一体化しつつ心の底からゆらぎ出る重厚な調べに託して歌う」と書いておられる。
題詞「過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌」<近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌>の反歌、三〇、三一歌にも、あらわれている。
◆楽浪(ささなみ)の志賀の唐崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ(巻一 三〇)
(訳)楽浪の志賀の唐崎よ、お前は昔のままにたゆとうているけれども、ここで遊んだ大宮人たちの船、その船はいくら待っても待ちうけることができない。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
◆楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも(巻一 三一)
(訳)楽浪の志賀の<比良の>大わだよ、お前がどんなに淀んだとしても、ここで昔の人に再びめぐり逢うことができようか、できはしない。(同上)
同世代の高市黒人の歌と比較してみるとよくわかる。
題詞「高市古人感傷近江舊堵作歌 或書云高市連黒人」<高市古人、近江の旧(ふる)き都を感傷(かな)しびて作る歌 或書には「高市連黒人」といふ>
◆古(いにしえ)の人に我れあれや楽浪の古き都を見れば悲しき(巻一 三二)
(訳)遥かなる古(いにしえ)の人で私はあるのであろうか、まるで古の人であるかのように、楽浪の荒れ果てた都、ああ、この都を見ると、悲しくてならぬ。(同上)
◆楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも(巻一 三三)
(訳)楽浪の地を支配したまう国つ神の、御魂も衰えすさんで、荒れ廃れている都、この都を見ると、悲しくてならぬ。(同上)
人麻呂の歌風と違って、黒人の場合は、このように主観的詠嘆をあらわにしているである。
グーグルマップで、近江京跡から明日香村までの距離と徒歩の時間をみてみると、宇治経由で、約70km、徒歩14時間40分である。吉野だ、難波だと書いてあるが万葉人の行動力には驚かされる。黒人的主観的表現である。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の心」 中西 進 著 (毎日新聞社)
★「webllio古語辞典 学研全訳古語辞典」
※20230122朝食関連記事削除