万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その243)―大津市唐崎 唐崎苑湖岸緑地―万葉集 巻二 一一五

●歌は、「後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背」である。

 

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大津市唐崎 唐崎苑湖岸緑地(但馬皇女

●歌碑は、大津市唐崎 唐崎苑湖岸緑地にある。

 

●歌をみてみよう。

 

◆遺居而 戀管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢

              (但馬皇女 巻二 一一五)

 

≪書き下し≫後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈みに標結へ我が背      

 

(訳)あとに一人残って恋い焦がれてなんかおらずに、いっそのこと追いすがって一緒に参りましょう。道の隈の神様ごとに標(しめ)を結んでおいてください。いとしき人よ。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「勅穂積皇子遣近江志賀山寺時但馬皇女御作歌一首」<穂積皇子に勅(みことのり)して、近江(あふみ)の志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女(たぢまのひめみこ)の作らす歌一首>である。

(注)近江志賀の山寺:崇福寺のことか。崇福寺については、「滋賀・びわ湖観光情報 崇福寺跡」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)によると、「天智天皇(626-671)が大津京の鎮護(ちんご)のために建立した寺です。大津へ都を遷した翌年に建立され、幻の大津京の所在地を探る手がかりとして注目されています」とある。

(注)但馬皇女:?-708 飛鳥(あすか)時代,天武天皇の皇女。

母は藤原氷上娘(ひかみのいらつめ)。異母兄高市(たけちの)皇子の宮にいたとき,異母兄穂積親王をおもってよんだ恋歌3首が「万葉集」にみえる。和銅元年6月25日死去。

コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

(注)穂積皇子:?‐715(霊亀1) 藤原京末から奈良時代初期の万葉歌人天武天皇の第5子。母は蘇我赤兄の娘大蕤娘(おおぬのいらつめ)。705年(慶雲2)知太政官事。715年正月,一品に叙され,同年7月没。40歳未満か。《万葉集》に短歌4首を残す。異母妹但馬皇女(たじまのひめみこ)と恋愛し,皇女没後の墓を望む悲傷歌〈降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪養(いかい)の岡の寒からまくに〉(巻二)がある。晩年,大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)を愛した。(コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)

 

伊藤氏は同著の脚注で、「恋の噂を耳にした持統天皇が法会などの勅使に事寄せて穂積皇子を一時崇福寺に閉居させ、高市と穂積との間をつくろったものか」と、書かれている。

 

但馬皇女の一一四、一一五、一一六歌三首は、恋愛歌物語の様相をていしている。

ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その99)」でも紹介したが、ここでも再度歌をみていこう。

 

まず一一四歌である。

 

◆秋田之 穂向乃所縁 異所縁 君尓因奈名 事痛有登母

               (但馬皇女 巻二 一一四)

 

≪書き下し≫秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも

 

(訳)秋の田の稲穂が一方に片寄っているその片寄りのように、ただひたむきにあの方に寄り添いたいものだ。どんなに世間の噂がうるさくあろうとも。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

 題詞は、「但馬皇女高市皇子宮時思穂積皇子御作歌一首」<但馬皇女(たぢまのひめみこ)、高市皇子の宮に在(いま)す時に、穂積皇子を偲ひて作らす歌一首>である。

 

一一六歌もみてみよう。

 

 ◆人事乎 繁美許知痛美 己世尓 未渡 朝川渡

               (但馬皇女 巻二 一一六)

 

≪書き下し≫人事(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)みおのが世にいまだ渡らぬ朝川(あさかは)渡る。

 

(訳)世間の噂が激しくうるさくてならないので、それに抗して自分は生まれてこの方渡ったこともない、朝の冷たい川を渡ろうとしている―この初めての思いを私は何としてでも成し遂げるのだ。(伊藤 博 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)ひとごと【人言】:他人の言う言葉。世間のうわさ

(注)こちたし【言痛し・事痛し】>こちたみ:①煩わしい。うるさい。

               ②甚だしい。度を越している。ひどくたくさんだ。

               ③仰々しい。大げさだ。

(注)あさかはわたる【朝川渡る】:(女ながら)未明の川を渡って逢いに行く。

 

 題詞は、「但馬皇女高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首」<但馬皇女(たぢまのひめみこ)、高市皇子の宮に在(いま)す時に、竊(ひそ)かに穂積皇子に接(あ)ひ、事すでに形(あら)はれて作らす歌一首>である。

 

 伊藤 博氏は、「万葉集 一」(角川ソフィア文庫)の「朝川を渡る」の脚注で、「『川』は恋の障害を表すことが多い。世間の堰に抗して初めての情事を全うするのだという意もこもる」と書かれている。

 

 これはまさに、万葉恋愛ドラマである。

 これだけの背景があり、「朝川を渡る」という、強い思いがほとばしり出るのである。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「びわ湖大津 光くんマップ(大津市観光地図)」(大津市・(公社)びわ湖大津観光協会)★「大津市ガイドマップ」(㈱ゼンリン 協力:大津市

★「滋賀・びわ湖観光情報 崇福寺跡」(公益社団法人びわこビジターズビューロー)

★「コトバンク 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus」

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

 

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