万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その244,245)―大津市和邇南浜和邇川左岸河口、南小松 ホテル琵琶レイクオーツカ前―万葉集 巻九 一七一五

 

●歌は、いずれも「楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ」である。

 

●歌碑(その244)は、大津市和邇南浜和邇川左岸河口にある。

f:id:tom101010:20191103205658j:plain

大津市和邇南浜和邇川河口万葉歌碑(作者未詳)

一方の(その245)は、大津市南小松 ホテル琵琶レイクオーツカ前にある。

 

f:id:tom101010:20191103210055j:plain

大津市南小松 ホテル琵琶レイクオーツカ前万葉歌碑(作者未詳)


●歌をみていこう。

 

◆樂浪之 平山風之 海吹者 釣為海人之 袂變所見

              (作者未詳 巻九 一七一五)

 

≪書き下し≫楽浪(ささなみ)の比良(ひら)山風(やまかぜ)の海(うみ)吹けば釣りする海人(あま)の袖(そで)返(かへ)る見(み)ゆ

 

(訳)楽浪の比良山風が湖上に吹き渡るので、釣りする海人の袖がひらひらとひるがえっている。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)

 

題詞は、「槐本歌一首」<槐本が歌一首>である。槐本については不明。訓もエノモト・ツキノモトなどあるが未詳。

 

二四五歌の歌は、和邇川河川災害復旧助成事業(竣工平成3年7月)碑のなかのプレートに記されている。

碑の後ろは和邇川の河口である。碑の前は、和邇浜水泳場である。人っ子一人いない水泳場に白波が打ち寄せ景色を作っていた。

 

f:id:tom101010:20191103210401j:plain

和邇浜水泳場に寄せる白波

和邇川の和邇について調べてみると、「わに【和邇】:滋賀県滋賀郡志賀町南部の地名。和邇川が比良山系から琵琶湖にそそぐ一帯。古代に和邇氏がいたといわれる。813年(弘仁4)に和邇村の記事がみられる(《類聚国史》)。867年(貞観9)には和邇泊(とまり)の修理が国司に命ぜられており,また883年(元慶7)には和邇御厨のあったことがわかる(《類聚三代格》)。和邇荘は1001年(長保3)平惟仲より白川寺喜多院に施入された所領のうちにみえ,また42年(長久3)の寂楽寺紛失状では本田89町であった(《高野山文書》)。」(コトバンク  株式会社平凡社世界大百科事典 第2版)と記されている。

 

日本実業出版社森岡 浩の人名・地名おもしろ雑学」に次のような記載があった。「小野神社のすぐ北側に、小さな川が流れている。この琵琶湖に注ぐ川は和邇川という。川の流域は和邇地区で、ここにもまた、古代豪族の和邇氏がいた。ただし、ここが和邇氏の本拠地だったというわけではない。和邇氏は大和国添上郡和邇、現在の奈良県天理市和爾町付近を本拠とした古代豪族である。神功皇后に仕えた武振熊(建振熊、たけふるくま)を祖とし、小野氏とは同じ一族であるとされる。

古代ではサメのことを「ワニ」と言ったが、奈良盆地のため、この「わに」の由来は赤土を指す「はに」だとみられる。和邇一族は、のちに琵琶湖西岸のこの地を有したことから、この付近が和邇という地名となったものだ。」

以前、奈良県天理市櫟本町の「和爾下神社」に万葉歌碑を訪ねて行ったことがあったが、これで関連が明確になった。

 

f:id:tom101010:20191103210527j:plain

奈良県天理市櫟本町和爾下神社

 

二四六歌の歌碑は、ホテル琵琶レイクオーツカ前にあり、歌碑の後ろにはびわ湖の美しい湖岸が広がっていた。近くには琵琶湖周航歌の歌碑があり、釣り人の姿も写真に撮ることができた。打ち寄せる白波は見ていても飽きない、静かに時のリズムを刻んでいるのである。

f:id:tom101010:20191103210855j:plain

びわ湖の光景

 

f:id:tom101010:20191103210733j:plain

琵琶湖周航の歌碑琵琶湖周航と釣り人

「楽浪の」、「比良山風の」、「海人の」と、「の」の繰り返しのリズムが、まさに袖をひらひらとひるがえらせる様を表している。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 二」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「びわ湖大津 光くんマップ(大津市観光地図)」(大津市・(公社)びわ湖大津観光協会

★「大津市ガイドマップ」(㈱ゼンリン 協力:大津市

★「コトバンク 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版」

★「森岡 浩の人名・地名おもしろ雑学」(日本実業出版社HP)