万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その251)―高島市勝野 乙女が池畔―巻十一 二四三六

●歌は、「大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ」である。

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高島市勝野 乙女が池畔万葉歌碑(作者未詳)


●歌碑は、高島市勝野 乙女が池畔にある。

 

●歌をみていこう。

◆大船 香取海 慍下 何有人 物不念有

       (作者未詳 巻十一 二四三六)

 

≪書き下し≫大船(おほぶね)の香取(かとり)の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ。

 

(訳)大船の香取の海にいかりを下ろすというではないが、この世のいかなる人が物思いをせずにいられるのであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)おほぶねの【大船の】分類枕詞

①大船が海上で揺れるようすから「たゆたふ」「ゆくらゆくら」「たゆ」にかかる。

②大船を頼りにするところから「たのむ」「思ひたのむ」にかかる。

③大船がとまるところから「津」「渡り」に、また、船の「かぢとり」に音が似るところから地名「香取(かとり)」にかかる。

 

 この歌は、巻十一の「寄物陳思」(きぶつちんし)の分類歌、二四一五から二五〇七歌の歌群の一首である。

「正述心緒」(せいじゅつしんしょ)二三六八から二四一四歌、ならびに「寄物陳思」二四一五から二五〇七歌、「問答」二五〇八から二五一六歌までの歌群は「柿本朝臣人麻呂歌集」の歌である。

 

 歌碑の横にある、説明碑によると、「高島の地は、古くから大和と北陸地方を結ぶ北陸道(西近江路)と若狭路との分岐点にあって、水陸交通の要衝であったため『三尾駅・勝野津』がそれぞれ置かれていた。旅人の往来の多かった地は、古来より歌枕として数多くの歌を残している。

 今からおよそ千三百年前の万葉の時代、三尾崎(明神崎)の北側のこの辺り一帯は、びわ湖が山麓に向かって深く湾入し、大きな入江をつくっていた。現在は内湖となり「乙女ヶ池」と呼ばれている。歌に詠まれている『香取の海』は、この内湖の地を指したもので、香取海(浦)の北端に『勝野津』の港があったものと思われる。(後略)」とある。

 

 

 

 

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乙女ヶ池の銘碑

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乙女ヶ池の橋


 乙女ヶ池一帯は、万葉の時代、びわ湖の入江になっていて、「香取の海」と呼ばれていた。今ではこの入江も内湖になってしまっている。

 この地は、恵美押勝の乱壬申の乱とかかわりが深いのである。

 藤原仲麻呂は、光明(こうみょう)皇后の信任を得,従妹の孝謙天皇即位後,紫微中台(しびちゅうだい)(皇后宮職)の長官となり政権を握った。757年,橘奈良麻呂の変を押え,翌年淳仁(じゅんにん)天皇から恵美押勝(えみのおしかつ)の名を受けた。760年大師(たいし)(太師とも記。太政大臣のこと)となり専権を振るった。その後、孝謙天皇道鏡への寵愛ぶりに危機感をいだき、764年道鏡(どうきょう)を除くため反乱(恵美押勝の乱)を起こしたが敗れ、高島郡三尾崎で捕らえられ、「勝野の鬼江」で斬罪された。また、壬申の乱で落城したと伝えられる大友皇子弘文天皇)の三尾の城もこの一帯の背後の山中にあったと言われている。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「高島 万葉歌碑めぐり(前篇・後編)」(琵琶レイクオーツカHP)

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」

★「びわ湖高島観光ガイド」 (<公社>びわ湖高島観光協会HP)

★「コトバンク ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」

 

 

※20230506朝食関連記事削除、一部改訂