●歌は、「もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花」である。
●歌をみていこう。
◆物部乃 八十▼嬬等之 挹乱 寺井之於乃 堅香子之花
(大伴家持 巻十九 四一四三)
※▼は「女偏に感」⇒「▼嬬」で「をとめ」
≪書き下し≫もののふの八十(やそ)娘子(をとめ)らが汲(う)み乱(まが)ふ寺井(てらゐ)の上の堅香子(かたかご)の花
(訳)たくさんの娘子(おとめ)たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子(かたかご)の花よ。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)もののふの【武士の】分類枕詞:「もののふ」の「氏(うぢ)」の数が多いところから「八十(やそ)」「五十(い)」にかかり、それと同音を含む「矢」「岩(石)瀬」などにかかる。また、「氏(うぢ)」「宇治(うぢ)」にもかかる
(注)「堅香子」は、カタクリの花のこととされています。雪が解けて、程なくすると向かいあった二枚の葉を出し、葉の間からつぼみを一個だけつけた花茎が伸び、サクラより少し早く、薄い紅紫色をした六弁の小さな花を咲かせます。
自然の姿では多くが群生し、家持が「大勢の乙女たち」と詠んでいるのは、かたかごの花そのもののことではないかという 説もあります。(後略)(大伴家持が来た越の国 高岡市万葉歴史館HP)
題詞は、「攀折堅香子草花歌一首」<堅香子草(かたかご)の花を攀(よ)ぢ折る歌一首>である。
「かたかご」が詠まれているのは集中この一首のみである。
この歌は、天平勝寶二年三月二日に詠っている。三月一日には、「春苑の桃李の花を眺矚(なが)めて」巻十九の冒頭歌(四一三九、四一四〇歌)を詠っている。家持の越の国での生活がなければ、歌がここまで研ぎ澄まされたことはなかったのではないだろうか。
越中で、望郷の念にかられながらも、歌や中国文学などの研鑽を積み、都での権力闘争に巻き込まれず、或る意味のんびりとした気持ちから、歌のピークを迎えたのである。皮肉にもこの翌年に都に帰ることができたのであるが苦悩の世界におかれるのである。
万葉集巻十七~巻二十は、家持の「歌日記」と言われている。上記のように、家持を軸に日を逐うよに構成されているからである。
家持を軸に、とは巻十七~巻二十における家持の歌の占める割合をみても明らかである。
巻十七の場合は、百四十二首のうち家持の歌は七十六首あり、54%、巻十八では、百七首のうち六十九首、64%、巻十九では、百五十四首のうち百三首、67%、巻二十では二百二十四首のうち七十八首、35%となっている。巻二十では防人歌が九十首を越えていることを考えておくべきである。家持は、難波の都で兵部少輔の任にあたっており防人の歌の収録に直接かかわっているのである。
犬養 孝氏は、その著「万葉の人びと」(新潮文庫)の中で、「大伴家持の越中生活というのは、歌人家持にとってこれほど大事な時はないと思うんです。歌人家持が生まれるのも、越中生活があったからだと思います。まず歌数からみても、家持の生涯の歌が約四百八十五首あるのですが、そのうちで越中で出来た歌は二百二十首と半数にちかい」と述べておられる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「万葉の人びと」 犬養 孝 著 (新潮文庫)
★「万葉の大和路」 犬養 孝/文 入江泰吉/写真 (旺文社文庫)