万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その334)―東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(75)―

 ●歌は、「忘れ草我が紐に付く時となく思ひわたれば生けりともなし」である。

 

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万葉の森船岡山万葉歌碑(75)(作者未詳)

●歌碑は、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(75)である。

 

●歌をみていこう

 

◆萱草 吾紐尓著 時常無 念度者 生跡文奈思

              (作者未詳 巻十二 三〇六〇)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付く時となく思ひわたれば生(おい)けりともなし

 

(訳)忘れ草、憂さを払うその草を、着物の下紐に付けた。のべつまくなしに思いつづけていたのでは、生きた心地もないから。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

「わすれぐさ(忘れ草)」については、國學院大學デジタル・ミュージアム「万葉神事語辞典」に次のように書かれている。

「全国各地の日当たりのよい平地や丘陵地など、やや湿気の多いところに自生するゆり科の多年草。中国のホンカンゾウの変種にあたるヤブカンゾウノカンゾウなど、ワスレグサ属の花を総称していう。夏、ヤブカンゾウは八重の、ノカンゾウは一重六弁のオレンジ色の花を付ける。『忘れ草』は万葉集中に5例、いずれも故郷や恋人への思いを忘れさせる植物として登場する。5例のうち、『恋忘れ草』という表現の1例以外は、いずれも『萱草』と表記される。『萱草』が憂いを忘れさせるという俗信は、もともと中国のもので、『文選』嵆康の養生論に<合歓蠲忿、萱草忘憂、愚智所共知也>とある。それにより、日本で『萱草』を『わすれぐさ』とよんだことは、『和名抄』の『萱草 兼名苑云、萱草、一名忘憂《萱音喧、漢語抄云、和須礼久佐》』からも確かめられる。ところが、『忘れ草』のもっとも古い例は、人麻呂歌集出歌(12-2475)であり、ここでの表記は『萱草』でなく『(恋)忘草』となっている。上記の通り、残り4例はすべて『萱草』なのだが、その内訳は、大伴旅人と家持の歌が各1首、巻12の作者未詳歌が2首、というように、比較的成立が新しいものばかりである。『忘れ草』の表現は、漢籍に見える『萱草』の完全なる翻訳というのでなく、もともと日本にあった俗信と外来の知識とが融合して出来上がったものかもしれない。」

 

他の四首もみてみよう。

 

◆萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為

               (大伴旅人 巻三 三三四)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が紐(ひも)に付(つ)く香具山の古(ふ)りにし里を忘れむがため

 

(訳)忘れ草、憂いを忘れるこの草を私の下紐に付けました。香具山のあのふるさと明日香の里を、いっそのこと忘れてしまうために。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

 

◆萱草 吾下紐尓 著有跡 鬼乃志許草 事二思安利家理

                (大伴家持 巻四 七二七)

 

≪書き下し≫忘れ草我(わ)が下紐(したひも)に付(つ)けたれど醜(しこ)の醜草(しこくさ)言(こと)にしありける。

 

(訳)苦しみを忘れるための草、その草を着物の下紐にそっとつけて、忘れようとはしてみたが、とんでもないろくでなしの草だ、忘れ草とは名ばかりであった。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)

(注)しこ【醜】名詞:頑強なもの。醜悪なもの。▽多く、憎みののしっていう。※参考「しこ女(め)」「しこ男(お)」「しこほととぎす」などのように直接体言に付いたり、「しこつ翁(おきな)」「しこの御楯(みたて)」などのように格助詞「つ」「の」を添えた形で体言を修飾するだけなので、接頭語にきわめて近い。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

 

◆我屋戸 甍子太草 雖生 戀忘草 見未生

              (作者未詳 巻十一 二四七五)

 

≪書き下し≫我がやどは甍(いらか)しだ草生(お)ひたれど恋忘(こひわす)れ草見れどいまだ生(お)ひず

 

(訳)我が家の庭はというと、軒のしだ草はいっぱい生えているけれど、肝心の恋忘れ草はいくら見えもまだ生えていない。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

 

◆萱草 垣毛繁森 雖殖有 鬼乃志許草 猶戀尓家利

               (作者未詳 巻十二 三〇六二)

 

≪書き下し≫忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜(しこ)の醜草(しこくさ)なほ恋ひにけり

 

(訳)忘れ草、憂いを払うというその草を垣根も溢れるほどに植えたけれど、なんというろくでなし草だ、やっぱり恋い焦がれてしまうではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)

(注)しみみに【繁みみに・茂みみに】副詞:すきまなくびっしりと。「しみに」とも。※「しみしみに」の変化した語。

 

忘れようとしている恋情が忘れられないからといって、七二七歌や三〇六二歌のように「醜(しこ)の醜草(しこくさ)」とまで八つ当たりされた忘れ草、きっとこのことを忘れてしまいたいだろう。

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 一」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「万葉神事語辞典」(國學院大學デジタル・ミュージアムHP)

★(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)