―その338―
●歌は、「昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ」である。
●この歌については、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その196)でふれている。題詞は、「紀女郎贈大伴宿祢家持歌二首」<紀女郎(きのいらつめ)、大伴宿禰家持に贈る歌二首>の一首である。歌をみていこう。
◆晝者咲 夜者戀宿 合歡木花 君耳将見哉 和氣佐倍尓見代
(紀女郎 巻八 一四六一)
≪書き下し≫昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ね)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(さへ)に見よ。
(訳)昼は花開き、夜は葉を閉じ人に焦がれて眠るという、ねむの花ですよ。そんな花を主人の私だけが見てよいものか。そなたもご覧。(伊藤 博 著 「万葉集 二」 角川ソフィア文庫より)
万葉集には、「合歡木(ねぶ)」を詠んだ歌は三首収録されている。紀女郎と大伴家持の贈答歌(一四六一、一四六三歌)二首と二七五二歌である。
二七五二歌をみてみよう。
◆吾妹兒乎 聞都賀野邊能 靡合歓木 吾者隠不得 間無念者
(作者未詳 巻十一 二七五二)
≪書き下し≫我妹子(わぎもこ)を聞き都賀野辺(つがのへ)のしなひ合歓木(ねぶ)我(あ)は忍びえず間(ま)なくし思へば
(訳)あの子の噂を聞き継ぎたい、その都賀野の野辺にしなっている合歓木のように、わたしはしのびこらえることができない。ひっきりなしに思っているので。(伊藤 博 著 「万葉集 三」 角川ソフィア文庫より)
(注)「聞き」までが「都賀」を、上三句は「忍び」を起こす序。
(注)しなふ【撓ふ】自動詞:しなやかにたわむ。美しい曲線を描く。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
―その339―
●歌は、「かきつはた衣の摺り付けますらをの着襲ひ猟する月は来にけり」である。
●歌をみていこう。
◆加吉都播多 衣尓須里都氣 麻須良雄乃 服曽比獦須流 月者伎尓家里
(大伴家持 巻十七 三九二一)
≪書き下し≫かきつはた衣(きぬ)に摺(す)り付けますらをの着(き)襲(そ)ひ猟(かり)する月は来にけり
(訳)杜若(かきつばた)、その花を着物に摺り付け染め、ますらおたちが着飾って薬猟(くすりがり)をする月は、今ここにやってきた。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
(注)きそふ【着襲ふ】他動詞:衣服を重ねて着る。
題詞は、「十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首」<十六年の四月の五日に、独り平城(なら)の故宅(こたく)に居(を)りて作る歌六首>である。
左注は、「右六首天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作」<右の六首の歌は、天平十六年の四月の五日に、独り平城(なら)故郷(こきゃう)の旧宅(きうたく)に居(を)りて、大伴宿禰家持作る。>である。
三九一六歌からみてみよう。
◆橘乃 尓保敝流香可聞 保登等藝須 奈久欲乃雨尓 宇都路比奴良牟
(大伴家持 巻十七 三九一六)
≪書き下し≫橘(たちばな)のにほへる香(か)かもほととぎす鳴く夜(よ)の雨にうつろひぬらむ
(訳)橘の今を盛りと咲きにおう香り、あの香りは、時鳥の鳴くこの夜の雨で、もう消え失せてしまっていることであろうか。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)
◆保登等藝須 夜音奈都可思 安美指者 花者須久登毛 可礼受加奈可牟
(大伴家持 巻十七 三九一七)
≪書き下し≫ほととぎす夜声(よごえ)なつかし網(あみ)ささば花は過(す)くとも離(か)れずか鳴かむ
(訳)時鳥、そうこの鳥は夜声が格別心にしみる。網を張って囲っておけば、橘の花は散り失せても、飛び去らずにいつも鳴いてくれることであろうか。(同上)
◆橘乃 尓保敝流苑尓 保登等藝須 鳴等比登都具 安美佐散麻之乎
(大伴家持 巻十七 三九一八)
≪書き下し≫橘のにほへる園(その)にほととぎす鳴くと人告(つ)ぐ網ささましを
(訳)橘の香が溢れている庭園(その)で、時鳥、そいつが鳴いたと、人が知らせてくれた。やっぱり網を張り設けておくべきであった。(同上)
◆青丹余之 奈良能美夜古波 布里奴礼登 毛等保登等藝須 不鳴安良久尓
(大伴家持 巻十七 三九一九)
≪書き下し≫あをによし奈良の都は古(ふ)りぬれどもとほととぎす鳴かずあらなくに
(訳)ここ青土の奈良の都は、今やもの古(ふ)りてしまったけれど、昔馴染の時鳥、この鳥だけは、やって来て鳴かないことはないのに。(同上)
◆鶉鳴 布流之登比等波 於毛敝礼騰 花橘乃 尓保敷許乃屋度
(大伴家持 巻十七 三九二〇)
≪書き下し≫鶉(うづら)鳴く古(ふる)しと人は思へれど花橘(はなたちばな)のにほふこのやど
(訳)鶉の鳴く、もの古りてさびしいところと人は思っているけれど、花橘が昔のままに咲きかおる、この古里の庭よ。(同上)
(注)うずらなく〔うづら‐〕【鶉鳴く】[枕]:ウズラは草深い古びた所で鳴くところから「古(ふ)る」にかかる。(コトバンク 小学館デジタル大辞泉)
この歌が作られた天平十六年一月には、家持が親交を持っていた安積(あさか)親王が亡くなっている。藤原仲麻呂による謀殺とも言われている。二月には、聖武天皇は、難波宮を都とする勅旨を発している。天平十七年五月再び平城京に遷都されるが、天平十二年九月の藤原広嗣の乱以降の五年間は恭仁京、紫香楽京、難波京と転々とし「彷徨の五年」と称されている。三九一九歌にあるように、「あをによし奈良の都は古(ふ)りぬれど」という流れが家持を巻き込んでいるのである。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)
★「万葉集をどう読むか―歌の『発見』と漢字世界」 神野志隆光 著 (東京大学出版会)
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」