万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その353)―東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(94)―万葉集 巻十六 三八二九

●歌は、「醤酢に蒜搗き合てて鯛願ふ我にな見えそ水葱の羹は」である。

 

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万葉の森船岡山万葉歌碑(94)(長忌寸意吉麻呂)

●歌碑は、東近江市糠塚町 万葉の森船岡山(94)である。

 

●歌をみていこう。

 

◆醤酢尓 蒜都伎合而 鯛願 吾尓勿所見 水葱乃▼物

             (長忌寸意吉麻呂 巻十六 三八二九)

 ※▼は、「者」の下が「灬」でなく「火」である。「▼+物」で「あつもの」

 

≪書き下し≫醤酢(ひしほす)に蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて鯛願ふ我(われ)にな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)は

 

(訳)醤(ひしお)に酢を加え蒜(ひる)をつき混ぜたたれを作って、鯛(たい)がほしいと思っているこの私の目に、見えてくれるなよ。水葱(なぎ)の吸物なんかは。

 

「長忌寸意吉麻呂歌八首」<長忌寸意吉麻呂(ながのいみきおきまろ)が歌八首>の中の一首で、題詞は、「詠酢醤蒜鯛水葱歌」<酢(す)、醤(ひしほ)、蒜(ひる)、鯛(たひ)、水葱(なぎ)を詠む歌>である。

 

この歌には、「蒜」と「水葱」の二つの植物名が出ている。万葉集では、いずれもこの一首でのみ詠われている。

 

「蒜」は、今でいう「ノビル」、「水葱」は、「ミズアオイ」のことである。

作者の長忌寸意吉麻呂については、「《万葉集》第2期(壬申の乱後~奈良遷都),藤原京時代の歌人。生没年不詳。姓(かばね)は長忌寸(ながのいみき)で渡来系か。名は奥麻呂とも記す。柿本人麻呂と同時代に活躍,短歌のみ14首を残す。699年(文武3)のおりと思われる難波行幸に従い,詔にこたえる歌を作り,701年(大宝1)の紀伊国行幸(持統上皇文武天皇),翌年の三河国行幸(持統上皇)にも従って作品を残す。これらを含めて旅の歌6首がある。ほかの8首はすべて宴席などで会衆の要望にこたえた歌で,数種のものを詠み込む歌や滑稽な歌などを即妙に曲芸的に作るのを得意とする。」(株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版)とある。

 

この歌のように、宴会の席などで、事物の名を歌の意味とは無関係に詠み込んだ遊戯的な歌を「物名歌(ぶつめいか)」という。和歌の分類の一つとして、「もののな」の歌,隠題 (かくしだい) の歌ともいわれ、古今集の時代などで定着した。この長忌寸意吉麻呂 (ながのいみきおきまろ) の歌は、その萌芽と言われる。

 

宴会の席上で、その場にある題材をあげて、即興で作るのであるから、題材となったテーマのものが、宴席に出ていた可能性は随分と高い。そうすると、「鯛」があるということは、当時としても、かなり高級な食材が供されていたことがうかがえる。

下二句「吾尓勿所見 水葱乃▼物」と。日常的な「水葱」の吸物を否定し、「鯛」が欲しいと強調し、場の宴席の料理のレベルを巧みに詠み込んでいる即興性には驚かされる。

 

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 三」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「植物で見る万葉の世界」 國學院大學 萬葉の花の会 著 (同会 事務局)

★「コトバンク 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版」