●歌は、「磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに」である。
●この歌は、ブログ拙稿「万葉歌碑を訪ねて(その204)」でもとりあげ、さらに馬酔木を詠った歌を10首紹介している。
歌をみていこう。
◆磯之於尓 生流馬酔木乎 手折目杼 令視倍吉君之 在常不言尓
(大伯皇女 巻二 一六六
≪書き下し≫磯(いそ)の上(うえ)に生(お)ふる馬酔木(あしび)を手折(たを)らめど見(み)すべき君が在りと言はなく
(訳)岩のあたりに生い茂る馬酔木の枝を手折(たお)りたいと思うけれども。これを見せることのできる君がこの世にいるとは、誰も言ってくれないではないか。(伊藤 博 著 「万葉集 一」 角川ソフィア文庫より)
(注)いそ【磯】名詞:①岩。石。②(海・湖・池・川の)水辺の岩石。岩石の多い水辺。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)
題詞は、「移葬大津皇子屍於葛城二上山之時大来皇女哀傷御作歌二首」<大津皇子の屍(しかばね)を葛城(かづらき)の二上山(ふたかみやま)に移し葬(はぶ)る時に、大伯皇女の哀傷(かな)しびて作らす歌二首>である。
もう一首の一六五歌は、「うつそみの人にある我(あ)れや明日(あす)よりは二上山(ふたがみやま)を弟背(いろせ)と我(あ)れ見む」である。
一六六歌の左注は、「右一首今案不似る移葬之歌、蓋疑従伊勢神宮還京之時路上見花感傷咽作此歌乎」<右の一首は、今案(かむが)ふるに、移し葬る歌に似ず。けだし疑はくは、伊勢の神宮(かむみや)より京に還る時に、路(みち)の上(へ)に花を見て感傷(かんしゃう)哀咽(あいえつ)してこの歌を作るか。>である。
大伯皇女が任を解かれ京に戻ったのは、十一月である。馬酔木の花は春であるので、左注のいう帰京時でなく、移送された春と考えるのが妥当であろう。
同母弟の大津皇子は謀反を企てたある意味大逆犯人であるが、鸕野皇女(うののひめみこ:後の持統天皇)は、罪を憎んで人を憎まずの形にもっていき、亡骸を丁寧に葬るのである。題詞にある「移葬大津皇子屍於葛城二上山<大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬りし>」とあるが、これは殯宮(あらきのみや:埋葬までの間、種々の儀礼を行うたえに亡骸を安置しておくところ)から二上山の山頂に本葬したことをいっている。
名張市HPによると、「夏見廃寺は名張川右岸の夏見男山南斜面にある古代寺院跡で、出土遺物から 7世紀の末から8世紀の前半に建立されたと推定されています。」「同寺については、醍醐寺本薬師寺縁起に『大来皇女、最初斎宮なり、 神亀2年(725)を以て浄(御)原天皇のおんために昌福寺を建立したまう。夏身と字す。もと伊賀国名張郡に在り。』と記載された個所があり、その昌福寺が夏見廃寺と考えられています。」とある。
醍醐寺本薬師寺縁起にある「大来皇女、最初斎宮なり」は、次のことを意味している。まず、斎王(さいおう)とは、天皇に代わって(「御杖代<みつえしろ>」という)伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、未婚の皇族女性のことである。天武天皇が、天武二年(674年)、壬申(じんしん)の乱に勝利したが、勝利を祈願した天照大神に感謝し、大来皇女(おおくのひめみこ)を伊勢に遣わしたことに始まる。
(参考文献)
★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)
★「名張市HP」
★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」