万葉集の歌碑めぐり

万葉歌碑をめぐり、歌の背景等を可能な限り時間的空間的に探索し、万葉集の万葉集たる所以に迫っていきたい!

万葉歌碑を訪ねて(その393)―三重県津市 三重県護国神社―防人の歌

●歌は、「水鳥の立ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき」である。

 

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三重県護国神社万葉歌碑(有度部牛麻呂)

●歌碑は、三重県津市 三重県護国神社にある。

 

境内の真ん中には入口の鳥居から拝殿までメインの参道が通っており、左右にも脇道が設けられている。左右の脇道にそれぞれ3基の灯篭が設置されており、灯篭の「竿」の部分に歌が書かれている。

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参道脇道の灯篭

この歌は、拝殿に向かって右側の拝殿側にある。

 

●歌をみていこう。

 

◆美豆等利乃 多知能已蘇岐尓 父母尓 毛能波須價尓弖 已麻叙久夜志伎

                (有度部牛麻呂    巻二十 四三三七)

 

≪書き下し≫水鳥(みづとり)の立(た)ちの急ぎに父母(ちちはは)に物言(は)ず来(け)にて今ぞ悔(くや)しき

 

(訳)水鳥の飛び立つような、旅立ちの慌ただしさにまぎれ、父さん母さんにろくに物も言わないで来てしまって、今となって悔しくてたまらない。(伊藤 博 著 「万葉集 四」 角川ソフィア文庫より)

(注)みづとりの【水鳥の】分類枕詞:水鳥の代表であることから「鴨(かも)」、および同音の地名「賀茂(かも)」に、また、水鳥の色や生態から「青葉」「立つ」「浮き(憂き)」などにかかる。(weblio古語辞典 学研全訳古語辞典)

(注)毛能波須價尓弖(ものはずけにて)<「ものいわずきにて」の訛り

 

左注は、「右一首上丁有度部牛麻呂」<右の一首は上丁有度部牛麻呂(うとべのうしまろ)>である。

 

防人(さきもり)というのは、元々「崎(さき)守(もり)」のことで、意味から読ませている。663年白村江(はくすきえ)の戦に敗れた後,戦備を強化するため大宰府を中心に壱岐(いき)・対馬(つしま)に強健な東国の兵士を当てた。

令制では防人司に属した。防人は諸国から徴発され,3年交代で九州の防備にあてられた。手続は,国司が名簿を作成し,兵士を都へ送ると,都で兵部省の役人が検閲したのち,九州へ下し,防人司の役人が壱岐対馬などに配置した。

 

四三三七から四三四六歌は、駿河の国の防人のうたである。左注に次のように記されている。

「二月七日駿河國防人部領使守従五位下布勢朝臣人主實進九日 歌數廿首 但拙劣歌者不取載之」<二月の七日、駿河(するが)の国の防人部領使守(さきもりのことりづかひかみ)従五位下布勢朝臣人主(ふせのあそみひとぬし)。 実(まこと)に進(たてまつ)るは九日、歌の数二十首。ただし拙劣(せつれつ)の歌は取り載せず>

 

大伴家持は、兵部少輔、すなわち兵務部の仕事をしていたので、防人たちの歌も家持の手に渡り万葉集に掲載されたのである。しかし、左注にもあるように拙劣な歌は収録されなかったのである。百六十六首が防人から進(たてまつ)られたのであるが、八十二首もの歌が拙劣歌として収録されなかったのである。

 

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三重県護国神社

 

(参考文献)

★「萬葉集」 鶴 久・森山 隆 編 (桜楓社)

★「万葉集 四」 伊藤 博 著 (角川ソフィア文庫

★「weblio古語辞典 学研全訳古語辞典」